ラストグッバイ、マイレディ
大守アロイ
ラストグッバイ、マイレディ
今日の気温は六十℃を越えている。灼熱化の進む今の地球では、それが日常だった。ここは、私以外の人類のいない荒れ果てた地球だ。私は月からこの地獄へ派遣されてきた。任務は禿山のふもとで、月コロニーから降下させた人工光合成パネルを、一枚ずつ人力で開く作業だ。一辺三メートルはある光合成パネルで、温暖化の原因となっている二酸化炭素を分解しようという、ばかげた目論見のために。
地球上に生命すらほぼ残っていない。灼熱の土壌や海面からは、超好熱性の細菌やアメーバ類しか検出できないだろう。
人類は千年間も、二酸化炭素を際限なく地球へまき散らしてきた。石油を燃やして、家畜のゲップを成すがままにしてきた。そのツケが、私の目の前の景色で、爆発している。
油膜を張った海は虹色に輝き、かつて東京と呼ばれた中世都市を飲み込んでいる。海水を覆う虹色の皮膜は、海中で繁栄する粘菌たちだ。腹立たしいくらい真っ青な空。海面上には禿山や廃墟の蜃気楼がおぼろげに見える。時折、猛烈な熱風が吹きすさび、私の身体を吹き飛ばそうとする。
海の遠くの方で、錆びて朽ち果てた軌道エレベーターの巨大な筒が、傾いたまま海面へ突き刺さっている。生まれ故郷を灼熱の星に変えてしまった人間どもの墓標だ。
人類は贖罪気取りで可能な限りの地球生命を、月と火星のコロニーへと移住させた。『有名かつ有用な生命』だけを選りすぐって、運んだだ。
ノアの箱舟には、未発見のハエトリグモや米を食い荒らすアブラムシ、そして私のための座席は無かった。
どこまでも人類は身勝手だった。私は今の地球へ生を受けた事を、心底呪っていた。
私の全身を覆う冷却スーツとヘルメットは、さながら絵本の騎士のようだ。背中には酸素ボンベと、巨大なクーラント装置が据え付けてある。この装置すら、地球の灼熱を防ぐには心もとない。少しの運動でたちまち、体温と二酸化炭素濃度は危険水域まで上昇する。
息苦しさにあえぎ、ふと顔を上げた時だった。海面に浮かぶビルの廃墟に、腰かけるドレス姿の女性を私は見た。鮮やかなバイオレットのロングスカートが、殺人的な熱風で靡く。
生身の彼女は、手を小さく振っていた。私以外の人間が居ないはずの、死んだ星の上で。
詳しく確かめようと、バックパックの双眼鏡を探しているうちに、砂嵐が起きて蜃気楼は掻き消えた。
私は蜃気楼を見間違えたのか。
廃墟ビルの中に、私は仮設テントを展開していた。廃墟の倒壊リスクよりも、防風や波浪で死ぬリスクの方が高い。
そもそも、今の地球に人類が安全に暮らせる場所などない。どこも一緒だ。
仮設テントに、ベットや机などの家具は無い。
食料を保管するコンテナと、飲料ろ過装置、太陽光充電器、通信機。それだけだ。
テントに戻るやいなや、通信機の耳障りな着信音が鳴った。反射行動で私は通話スイッチを押した。
「αー28技官、光合成パネルの設置進捗が遅れている」
私の上官、護民官の不機嫌な声が聞こえた。私は歯噛みしながら答える。
「生命維持装置の排熱状況が思わしくないのです、連続稼働では私の生命が保てません」
「お前の都合など、どうでもいい。お前の働きに、我ら月面連邦軍の趨勢と私の命も掛かっている。任務が成功せねば、お前の帰還は許可できない。お前のような技官の代わりは、月にいくらでもいるのだから」
いくらでもいる? もう人類は十万人も残っていないというのに。それでも人類は宇宙のコロニー間で、わずかな食料を巡って、お互いに殺し合っている。
「了解しております、護民官」
不条理を飲み込んで私が答えるやいなや、不毛な通信は返事なく途切れた。
人工光合成パネルを1000枚増設したところで、地球に充満する二酸化炭素をどれだけ分解できるというのだ。もう何もかもが遅すぎる。
そして冷却スーツを着たまま、私はガレキに腰かけて、まどろみに落ちた。 絶望から逃れるには、眠るのが一番いい。
足音がして、私は浅い睡眠から引き上げられた。足音の主は、私の前で立ち止まったらしい。彼女は月明かりに照らされて立っていた。古い映画のフィルムからそのまま飛び出してきたような、夜会ドレスを纏った黒髪の美女がそこにいた。私はしばらく、その見事な芸術をぼんやりと見つめていた。
「こんばんは」
古英語の挨拶を彼女は紡いだ。きっと私は気が狂ったのだ。そう思いたかった。
けれど、彼女の首襟から覗く金属製のロボットフレームが、夢でも狂気でもない事を教えてくれた。
錆びついていないフレームはおそらく、小惑星鉱山由来のチタンだ。なら、製造されてから二百年は経っていないはずだ。大方、破棄された愛玩用のコンパニオンアンドロイドが、なにかの事故で起動したのだろう。それに、彼女はなぜか濡れていた。まるで、先ほどまで水中にいたかのように。
混乱から立ち直った私は、芝居がかった返事をしてやる。
「こんばんは。あいにくコーヒーの一杯も出せないボロ屋へようこそ。夜分にご婦人が出歩くとは感心しないが、何用ですかね」
「わたしたちはあなたたちへ、お礼を言いに来た」
「お礼?」
気だるげに私が問うと、とっておきの笑顔を作って彼女は言う。この時のために、練習したかのように鮮やかな笑みだった。
「この星を、わたしたちに譲ってくれてありがとう。この感謝を届けに来た」
その言葉は、癪に障った。
壊れたロボットから見れば、人類が地球から逃げるように移住したことも、星を譲ったように見えたというのか。
けれど、目の前のロボットに怒りをぶつけたところで、今の絶望や閉塞感が吹き飛ぶわけでもなかった。私はひとつ息を大きく吐いて、答えてやった。
「人類を代表して、その言葉を受け取ることにしよう」
「よかった」
彼女はそう言うと、また無表情へと戻ってしまった。
怒りが退いていくにつれ、興味が多少湧いてきた。私は彼女に訊いてみる。
「君はどこから来た」
「海から」
「あの灼熱の沼からか? それと君の名前は。ロボットなら、製造年月日と型式番号があるはずだ」
意外にも彼女は答えを用意していなかった。
「わたしたちは、それを知らない」
記憶が破損しているのか。それ以上彼女は喋らない。
しばらくお互いの間に、沈黙が横たわった。目の前の彼女はボーっとするわけでもなく、私をじっと見つめている。
その緊張に耐えられなくなり、私は再び訊いた。
「なあ名無しの姫君。すまないが私は死ぬほど疲れていてね。今日は眠気に勝てそうもないんだ。だから寝かせてやってくれないかね」
「そうだった。あなたたちは、睡眠という行動を取るのだった。その時の挨拶は……おやすみ」
「正解だ。おやすみ」
彼女を追い出すこともせず、私はまた眠りへと落ちた。私へ危害を加えたいなら、好きにすればいい。美しいロボットに殺される死に様は、この地球に用意された中では、いくぶんかマシな死に方のように思えた。
けれど私は殺されなかった。妙な事に名無しの姫君は毎晩、私の仮設テントへ訪れるようになった。なにをするでもない。いつもずぶ濡れで現れる彼女は、多種多様な質問を投げかけてくる。それに私は就眠まで律儀に答えたのだった。
体系的な講義でもなんでもない。姫君から聞かれたことへ答えるだけだ。苦にはならなかった。自分ではそう感じなかったが、話し相手が欲しかったのかもしれない。
例えば、こんな話を延々とした。北極星が地球からどれだけ離れているのか。答えは431光年。姫君は光年の概念すら知らなかったので、苦労した。
地球は何億年前に誕生したのか。おおよそ56億年前。
海底によく埋まっている、黒くて丸いゴム製品は一体何なのか。タイヤという車輪の残骸だ。
文字はどこで発明されたのか。中国大陸の河川のほとりと、中東の湿原地帯で、それぞれ別々に発明されたらしい。
今の人類は何万人生き残っているのか。十万人ほどで、今後さらに減るだろう。
そうやって私は、何十個ものの夜を、彼女と語ることに費やした。語り合っているうちに、姫君の身体が熱で乾いていくのを、面白く思いながら。
姫君は自らのことを複数形で呼ぶ。たぶん文法を間違って覚えたのだろう。事実、彼女の知識には偏りや誤りがあった。
人類の文化や言語についてはよく知っている。夜会用のドレスをわざわざ発掘して着てきたほどに。だが、天文や数学、人類の歴史については所々ひどい欠損が見られる。
おそらく参照したデータベースの損傷が、そのまま姫君の知見となってしまっているのだろう。
とある質問に答えた時の話だ。最後の人間である私は、ここで何をやっているのか。地球の二酸化炭素を取り除いて冷却するためのパネルを設置している。その答えを聞いた姫君は、明らかに狼狽して言う。
「あなたたちはわたしたちへ、この星を譲るつもりはなかったのか?」
「残念ながらね」
「なぜだ。ではなぜこの星をこんなにも熱くしたんだ。無駄な行動だ。わたしたちには理解が出来ない」
「大多数の人間は不合理で不条理な個体なんだ。明日の未来より、目先の利益を優先する。嘘を本当と信じ込んで、不幸になる。その間違いの積み重ねで、我々は自分たちが生きられない星を作り上げたんだ。少数の賢い人間の忠告を無視してな」
「それであなたたちは、あの板で二酸化炭素を減らせるのか?」
「多分無理だと思う。この星は君の物のままだ。安心してくれ」
任務達成については深く考えていない。考えても、絶望しかない。
日中の作業は相変わらず、遅々として進まなかった。20日が経っても、展開できたパネルは100枚にも満たない。冷却スーツには、パワーアシストも自動操縦も備わっていない。過熱に苦しめられながら、一名の人力のみで一辺十メートルにもなる光合成パネルを展開させ、禿山の台座へ固定せよという命令は、実質不可能なものだった。私は目標の1000枚をとうにあきらめていた。そもそも今回の地球残留任務も、食糧増産に貢献しない技官を体よく殺すための方便だ。
食料があと残り二日分になった日。関数の説明を終えた後に、私は彼女へ聞いた。
「どうしてそんなに、私へ質問したがるんだね」
「あなたたちは全て、近いうちに空へのぼるのだろう? それまでに最後のあなたたちから、少しでも様々な事象を学んでおかなくてはならない。未来のために、そうわたしたちは決定した」
捨て残されたロボットが、灼熱の地球の未来を語る。どこか哀れに思ったが、ほぼ空に近い食料庫を見て、私は笑った。哀れなのはどっちの方だ? 死刑に等しい任務を与えられた私の方じゃないか。
「未来のためか。眩しい言葉だ、どうも私は空へ昇ることは叶わないからね。ここで飢え死にするさだめだ」
私が嘲りながら言うと、彼女は顔をこわばらせて、私をじっと見つめた。
その顔を、私はヘルメットのゴーグル越しに醒めた心持で見つめた。
「そんな。どうして」
「食料が尽きるまでに、あの光合成パネルを全て開かないと、迎えの宇宙船は来ない約束だ。けど、間に合わないだろうからな」
目の前の貧弱なロボットが、パネル設置に活躍してくれるわけも無かった。
彼女の身体は、愛撫するためだけに存在した。今や何の役にも立たない。
「どうしてあなたたちは時折、自ら死を選ぶのか。発掘したビデオデータでも、自ら首や腹を切っているあなたたちを見た。間違っている」
「私も間違っていると思うがね。けれど、人間の個体は運が悪いと、死にたくないのに自分を殺さなきゃならなくなるんだ」
「その時の感情は、どういうものだろう」
私にだって、分からない。が、じきにわかる時が来る。
最後の保存食をかじりながら、私は汗をぬぐった。食事の時だけはヘルメットのバイザーを跳ね上げざるを得ない。体温が上昇し、頭痛とめまいが私の意識を揺らがせる。ガレキのような見た目で、腐ったイチジクのような味の保存食が、私の最後の晩餐になる。別格の不味さだった。
この不愉快な食事もこれでおしまいだ。保管庫の中には、何もない。
このまま餓死を待つのも腹立たしい。いっそのこと、あのアメーバたちの住む灼熱の海へ、身を沈めてやろう。何かの栄養にはなるだろう。自分の死に方またも、愚かな先人たちのように、最善とはいかないようだった。
どうして、人間は間違い続けるのだろうか。その答えを見つける時間は、もう誰にも残っていない。千年前に見つけるべきだったのに。
その夜、姫君は仮設テントへ来なかった。
最後の日。浅い眠りから目覚めた時、私は仮設テントの外に転がっていた。違う、私の身体そのものが、ビルから吹き飛ばされて、海岸線に落ちていた。
浜辺に虹色の波が寄せては引いているのを、私は横倒しになって眺めていた。空の食料庫が遠くに転がっていて、虹色の液体が纏わりついている。アメーバたちが海面に張っている薄い膜だ。
立ち上がって振り返った時、私は驚きで膝から崩れ落ちた。
海面に虹色の島が浮かんでいた。その一面を埋め尽くすように、光合成パネルが張り付けられていた。
あんな島は、昨日まで無かった。その島の波打ち際に、見慣れた義体を見つけた。
「名無しの姫君」
ドレスの姫君が、島の上で横たわっていた。瞳を閉じて、眠りにつくように。
光合成パネルが完成している? どういうことだ? 本当に私は狂ったのか?
彼女がやったのか? どうやってパネルを一夜にして完成させたのか、意味の分からない恐怖を覚えた。
遠くに転がっている通信機は生きているようで、耳障りな着信音を鳴らせ始めた。
私は地べたを這いずり、その通話スイッチを入れた。
「なにをしたのだ?」
護民官の細々とした怯え声が聞こえた。その声色から、いつもの傲慢さは消え失せていた。
「なにを、とは」
「しらばっくれて何になる。月からの望遠映像で、お前が1000枚の人工光合成パネルを設置し終えた事を確認した。移住用の無人機が、自動操縦でお前の元まで向かっている。じきにお前を見つけて、降下するだろう。……貴官は生存するに値することを証明した」
頭が真っ白になって、返す言葉が浮かんでこなかった。通信機の通話は勝手に切れて、私はその場に膝立ちのまま立ち尽くした。
姫君の義体が徐々に、虹色の地面へ沈み始めた。そして、完全に姿を消すと、代わりに虹色のスライムが盛り上がるように現れた。アメーバ粘菌の群体だ。
私は覚った。
「アメーバ粘菌の群生体が、君の正体なんだな。姫君」
彼女たちは、粘菌の身体に光合成パネルを纏わせて、運んで見せたのだろう。そして、アメーバの肉体をロボットに絡みつかせ、ロボットのふりもしていた。
答えが返ってくることは期待していなかった。けれど私の問いかけに、地面から返事が湧いてきた。あの姫君の声で。
「そう。わたしたちはロボットでは無い。海から来た。この海の虹色が、わたしたち」
アメーバの群生体にどうやって意思が芽生えたのかは分からない。粘菌たちのネットワークが、脊椎動物の脳のような複雑な神経系を組み立てたとでもいうのか。わたしと毎晩語り合っていたのは、間違いなく彼女たちだ。
「そりゃあ、自分の名前も持ってない訳だよ」
安堵と疲労、それに飢えがどっと身体へ押し寄せて、私はその場へとへたり込んだ。
しばらく呆然としていると、朽ち果てかけた宇宙船が、頼りなく空から落ちてきた。ちゃんとした乗り物ではない。昔の宇宙戦艦に搭載されていた、数人乗りの緊急避難用ポッドのようだ。どうやら、数百年前から衛星軌道上に放置されている骨董品を、私の迎えに寄越したらしい。
船が頼りなく虹色の地面へ着岸した時、私の目の前に、粘菌のつぼみが現れた。
アメーバで形作られたその花びらが開く。瞳を閉じたままの姫君が身体を縮こまらせて、花弁の中に収まっている。彼女は目を閉じたまま言う。
「あなたにお礼をしたい。あなたのおかげで、楽しかったから。あの緑色の板を使って、空中の二酸化炭素をすべて分解するのは難しいと思う。だからわたしたちがそれを手伝おう」
「何をする気だ」
「わたしたちが過剰な化学合成を行い、空中の二酸化炭素を分解し、地球を元の状態へ戻せれば、またあなたたち人類は地球へ戻ってこれるだろう」
何を言っているんだ? この生き物は。
「そんなことをすれば、好熱性の君らは大量死してしまう」
「大丈夫だ、絶滅はしない。また海底火山の元居た場所で、小さく暮らすだけ。わたしたちの意識は無くなるだろうけれど。なるほど、他者を生かしたいがために、あなたたちは自ら死を選ぶのだな。それがわかった」
と言って、姫君はまぶたを開く。そして表情を組み立てる。
最初に挨拶してきた時と同じような、とっておきの笑顔が目の前で咲いた。
私は、むりやりに身体を起き上がらせて、姫君の元へ駆け寄った。そして、チタンのシャーシを抱き締めて、変な考えを思い留まることを願った。
「やめてくれ。これ以上間違いを犯さないでくれ」
「けれど、あなたは二酸化炭素を減らすために、地球に残った最後の一人なのだろう?」
私は、地球復活のチャンスチケットを破り捨てることにした。
「いいんだ。この星はもう、君たちの物だ。人類は選択を間違え続けて、君たち細菌の群生体へ主役の座を譲ったんだ。私たちは宇宙に移るべくして移るんだよ、姫君。君たちアメーバは我々人類の様に、間違え続けないでくれ。君たちは、きっと私たちより賢いから」
長い静寂の後、ようやく答えは返ってきた。
「わかった。君の言うとおりにする」
私は、最後に正しい選択をしたはずだ。
力を振り絞り、私は船までたどり着き、宇宙船のハッチをこじ開けて、身体を狭い座席へと滑り込ませる。
ハッチを閉める瞬間、姫君の寂しそうな声が隙間から滑り込んでくる。
「αー28。こういうとき、なんというのだっけ」
「ラストグッバイ。マイレディ」
「うん、さようなら」
ラストグッバイ、マイレディ 大守アロイ @Super_Alloy
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