貴子さんの深呼吸

野村絽麻子

 貴子さんは細面の女の人で、白い肌と、艶のある黒髪と、薄い唇をしている。どういうわけだか髪は肩口から先には伸びず、私はそれを少しだけ残念に思う。もし、貴子さんの髪が伸びたなら、それをカットするのはきっと私の役目になったのだろうから。

 貴子さんのまつ毛はあまり長くはないけれどしっかりとカールしていて、いつだったかマッチ棒を乗せてみたいなどと考えた私のことを、くるんと丸いまつ毛の下からギロリと睨んで見せたのだった。貴子さんは察しがよい。いつもどこか眠たそうにしているくせに、たまに何か言いたげに私を見やる。

「なぁに?」

 私は尋ねてみる。貴子さんは答えない。物静かな呼吸音だけがわずかに鼓膜を揺らす。

 生首というのが本来的に喋らない物なのか、それとも貴子さんが無口な性格なのか、もしくは声帯が機能していないのか、あるいは私とは話がしたくないのか、そのどれが当てはまるかはわからない。もしかしたらどれも的外れなのかも知れない。何もわからないまま、貴子さんと暮らし始めてそろそろふた月ほどになる。

 貴子さんとの出会いは晩夏のお祭りだった。


 ひとりで気まぐれに出かけた旅先で、宿泊したビジネスホテルの窓の外から祭囃子が聴こえてきたのは、夜も更けようかという時間帯だった。

 旅行と言えば聞こえは良いけれど、その時の私は実は逃亡していたのだ。

 付き合っていた男のDVがいよいよ酷くなり、連日アザが絶えない状態だった。部屋はほぼいつでも散らかっていて、それはあの男が機嫌が悪くなると部屋中のありとあらゆる引き出しを開けては逆さまにして中の物をばら撒くからで、それを防止する為に引き出しには物を入れなくなった。

 そうなると今度は矛先が私に向いてしまい、最初は派手な音をさせながら平手で叩くだけだったものが、だんだんと拳を振り下ろしては皮下出血をさせるふうに変わっていき、私の服の下の皮膚は青紫のマダラ模様があちこちに散るようになった。ひとしきり暴れて満足した後、我に返った男は自分がつけた模様を確認するかの様に、ごめん、ごめん、と情けない声を出しながら私を抱いた。

 月の美しい夜更けだった。煙草の買い置きを切らしていたことに激昂した男は、私にひと通り拳を奮うと、憤怒の表情のまま乱暴にドアを蹴り開けて外へと出かけて行った。フローリングに頬をつけたまま男の背中を見送っていた私は、ふとひらめく。男が戻ってきた時に私がこの部屋から姿を消していたら、と。

 テレビのリモコンで殴りつけられたせいで顔の右側が熱を持っている。身を起こせば脇腹が悲鳴をあげた。畳の上に散らばる焦茶色の髪の毛が視界に入る。このごろ、男は刃物を手にするようになった。今はまだ髪をひと束ほど切り落とせば満足するけれど、これを皮膚にあて始めるのもきっと時間の問題だろう。

 椅子の背にかけたままの上着に袖を通す。財布と携帯、それから車の鍵を掴んでポケットにねじ込むと、部屋着のまま玄関でサンダルをひっかけてドアを押し開けた。途端、瑞々しい夜の空気が鼻先を掠めて、誘われるように一歩、進む。背後で控えめな音を立てて扉が閉まり、私は肋骨が軋むのもお構いなしにひとつ大きく息を吸う。なんて瑞々しくて新鮮な空気だろうか。

 エレベーターを使うのももどかしく、非常階段を降りてマンションから出る。駐車場のじゃり道を歩く時、少しだけ後ろ髪を引かれる気持ちになった。男は泣くのだろうか。それとも、火が点いたみたいに怒り狂うのだろうか。部屋の中をめちゃくちゃに破壊して、それでもまだ私が帰らないと気が付いて、それからどうするのだろう。他の誰かを探すのか。それとも私を探しに出るのか。

 座席に滑り込んでシートベルトを締め、考えを振り払うように車のドアを引いた。バン。重々しい、でも、きっぱりとした音が思考を区切る。もう何でもいい。とにかくここから遠くへ行こう。エンジンをかけると、宛てもないままハンドルを握った。


 こういうシチュエーションの時に向かう場所としては、海だとか山だとか、それぞれ良さそうな場所があったのかも知れない。残念なことに私はあまり運転が上手ではなかったので、車は市街地を抜け、高速道路に乗って適当な場所で降り、そのまま閑散とした景色の中を静かに走り続けた。

 駐車場の広いコンビニで車を停めて携帯の液晶画面に視線を落とす。部屋を出てから三時間程が経っていて、メッセージアプリには男からの罵詈雑言と、嵐のような着信履歴が表示される。最終の着信は三十分ほど前だ。

 煌々と明るいコンビニの照明に吸い寄せられるように入店する。Tシャツと下着、パウチ入りの化粧水なんかのちいさなセットを手に取る。怠そうに語尾を伸ばす店員はこちらを見ようともしなかった。頑なに視線をあげないのは、頬を腫らしたざんばら髪の女とはかかわらない方が良いと判断したのだろう。それで良いと思う。

 会計を済ませて、それから、駐車場から見えた一番近そうなビジネスホテルに向けて車を走らせた。そうしながらも私は、男の啜り泣く声と衣擦れの音がずっと耳から離れずにいる。


 たどり着いたホテルの部屋は小さくても清潔で、空調も心地よく、シャワーを浴びたいと思いながらもつい誘われるようにベッドに身体を横たえてしまう。そのままウトウトと目を閉じた。

 意識が浮上したのは耳に物音が届いたからだ。

 ドォン、ドォン。

 遠くで何かが鳴っている。男が怒り狂って暴れている夢を見ていた私は、現実の音かのように錯覚して飛び起き、ここがホテルの一室だと気付く。

 ドドン、ドォン。

 もう一度音が聞こえて窓の外を見た。ホテルから少し離れた場所に、ぼんやり明るい空間がある。お祭りの太鼓? 時計を見る。こんな夜更けに……お祭り? 不思議と心惹かれて、のそのそと起き出して部屋を後にする。

 ホテル前の車道を渡ると植込みの間に小道が見えていて、どうやら音はその奥から聴こえてくるようだ。しっとりとした空気の中を気の早い虫の声が跳ねている。遅れてやって来た肌寒さを感じて両腕をさすりながら歩いていくと、次第に祭り囃子が大きくなり、人影が視界に入る。親子連れ。浴衣姿のカップル。うちわを使っている老婆。近づくにつれて少し異様な雰囲気が伝わって来る。どうしてだろう。

 ドドン、ドン。

 祭囃子の響く中、私はそろそろと足を進めながら目を凝らす。声が、しないのだ。こんなに人がいるのに誰も一言も言葉を発していない。近付いてみるとそれもそのはずで、本来なら顔のあるべき場所に、皆一様に黒い空間が浮かんでいる。

 祭囃子に負けないくらい心臓がドクドクと音を立てて、思わず脚が竦んだ。逃げ出そうとしたその時、背後からふと声がかかる。

「珍しいお客がいるねぇ」

 振り返って見れば、広場の端の薄暗がりにいつの間にか露店が出ている。金魚掬いの店には子供が数名いるけれど、隣の露店にお客さんの姿はない。平台の上に雑然と何かが並んでいるのが見える。洒落た形のティーカップに、レトロなドーム型の鳥籠、古そうな和綴じの本、ガラスケースに入った藤娘人形。その奥に、白いひげをたくわえたお爺さんが腰かけて、静かにこちらを覗き込んでいる。

「どうだい? 見ておいでよ。きっと気に入るものがあると思うよ」

 おじいさんにはきちんと目鼻が付いていて、私はとりあえず安堵する。平台に近寄って見回してみると、本当に雑多に物がある。私は寒さも忘れて見入ってしまう。怪しげな色合いに光る数珠、どこの国のものかもわからない硬貨、幽霊画が絵付けしてある大振りな花瓶、どれもこれも不思議な物に見える。

 はたりと目線が合った。マネキンの頭が置いてある。そう思った時、それはゆっくりと瞬きをした。

 私は今度こそ心臓が止まりそうになるけれど、おじさんはそれを見ていかにも可笑しそうに笑みをこぼした。

「貴子さん、だ」

「た……貴子さん?」

「そう。どうやらアンタの事が気に入ったらしいな」

 青白い頬をした首だけの女の人は、見慣れてしまえばただただ美しいだけの存在に感じる。息を吸うのも忘れて彼女と見つめ合う。

 おいくらですかと尋ねる前に、おじいさんが露台の下から風呂敷を取り出して、紫色のグラデーションに貴子さんは無造作に包まれる。私はおじいさんの言い値で貴子さんを手に入れる。ちょうど財布に入った現金の半分ちょっとだったけれど、果たしてそれが高額だったのか、格安だったのかはわかりっこない。生首を購入したなんて話、今までもこれからも聞いたりしないのだから。


 それから一週間後、私は街外れの館で住み込みの家政婦の仕事を始めることになる。あの夜におじいさんが貴子さんを包んでくれた風呂敷包みの中に、緩衝材のつもりなのか、破り取った雑誌の頁が何枚かいれてあった。ゴミ箱に捨てる前に何となく目を通せばそれには求人情報が書いてある。丁寧に皺を伸ばしながら読んで、その館での仕事を見つけることになった。お給料はそこまで多くないけれど住み込みで、制服貸与、三食まかないの食事が付くのはありがたかった。

 私は広々としたお屋敷で調度品に薄く積もった埃を掃い、庭の枯葉を集め、窓を磨き、食事を配膳した。

 館の主人は顔のない夫婦だった。彼らは上品で、物静かで(何しろ顔がないから声も存在しない)、慎ましやかな暮らしをしている。五人のメイドは顔のない者が三名、顔のある者が私を含めて二名いたけれど、皆とても穏やかで誰も声を荒げることもなく暮らしている。

 顔のある従業員の一人は麻巳子まみこさんという。きっぱりとした栗色のショートカットで、背が高くて、いつでも背筋をピンと伸ばした気持ちの良い人だ。

「あなた、なんだか妙な気配がするわね」

 麻巳子さんはベテランのメイド長として面接の席にもいて、最初に顔を合わせた時にそう言い放った。

 採用になった晩に私の私室に現れて、窓辺で夜風にあたっていた貴子さんを目にすると、なるほど、という表情をする。

「懐かしいわ」

「ええと……」

 私は何と答えて良いか言葉に詰まる。

「もちろん生首よ。私も、昔は生首と暮らしていたの」

 驚いて口もきけなくなっているうち、麻巳子さんは「懐かしい」の言葉通りの顔で貴子さんを眺め、手にしていたバスタオルや寝巻きの入ったバスケットを私に押し付けるように持たせて「じゃ、また明日」と部屋から出て行ってしまう。当の貴子さんが何も気にしていないようだったので、それで私も、深く考えるのを止めることにした。


 一日の勤務が終わると食堂でまかないを食べ、他の従業員と順繰りに風呂を使い、与えられた個室に引きあげる。三畳ほどの部屋は布団を敷くとほとんど足の踏み場もなくなってしまうけれど、そんな事はどうでも良かった。窓辺に配したスツールの上には貴子さんが居て、私が戻るのを待っていてくれるのだ。その日にあったことを親に報告する子供のような無邪気さで、貴子さんに語って聞かせた。

「庭の木にシジュウガラが巣を作ったみたい」

「絨毯の染みが上手に取れたの」

「書庫に懐かしい絵本が置いてあるのを見つけたわ」

 貴子さんは相変わらず喋りこそしなかったけれど、私の話を聞き、興味深そうにこちらをじっと見つめたり、反対に興味が無さそうに小さなあくびを漏らしたり、時折り何かを考え込むようにゆっくりと瞬きをする。私にはそれで十分だ。

 ちょうど良い分量の労働は心地良く、当面の生活の心配をせずいられて、怖いことはなにも起こらない。お屋敷での生活はまるでゆるやかな行き止まりのようだ。


 何かの音がして目が覚めた。まだ薄暗い、日が昇る前の時間だ。

 息を潜めて音の気配に耳をすましてみると、どうやら壁にかけた上着のポケットの中からしている。半ば部屋の風景と化していた上着には、そう言えば携帯電話が突っ込まれたままだった。

 私は起き上がってポケットの中から携帯電話を取り出した。もう間も無く充電がなくなりそうだと表示され、その下に、着信を告げる文章が並ぶ。発信者は私に暴力を奮っていた、あの男だ。

 見なかったことにしよう。そう思ってもう一度上着のポケットに戻そうとしたら、何のはずみか通話ボタンに触れてしまった。

「おい、なぁ、俺だよ」

 その男は言う。

「戻ってきてくれよ。頼む。……悪かった。……俺が、悪いんだ」

「……許してくれよ」

「ごめん……ごめん」

「……なぁ、戻ってきてくれるだろ?」

 恐らく酒に酔っているだろうことは理解できたけれど、それでも携帯電話から手を離せないでいる自分に驚く。男は泣いている。いつかの夜を正確にトレースするように、啜り泣きながら懇願する。

 その時だった。

 窓辺で夜空を見ていたはずの貴子さんがいつになく大きく、深い息をぷかりと吐いた。それはしばらく虚空を漂ったあと、音として私の耳に届いた。

「あぁ、聞き苦しい」

 ……貴子さん?

 そう問う前に電話の向こう側にもしっかりと届いたらしく、不意を突かれた男は黙り込む。

「ねぇ、あなたでは釣り合わない。さようなら、もう二度とかけて来ないで」

 そう畳みかけるのと同じタイミングで携帯電話のバッテリーがゼロになり、通話は強制的に終了した。手の中でぬるくなった携帯電話と貴子さんとを見比べながら、不思議なほどの幸福感に満たされていく。


 お屋敷の敷地の隅に停めてあった車を売却すると、思ったよりもずっと身体が楽になった気がした。その足で街中の古めかしい美容室に立ち寄る。お店には半分眠っていたような老婆がシャンプー台の椅子に腰かけていて、美容室の戸を押し開けて入ってきた私を物珍しそうに眺める。

「肩の上で切り揃えてもらえますか?」

「もちろん、できるよ。そうさね、毛糸の帽子が似合う髪型にしてあげようね」

 そう言うと、美容師の老婆は茶目っ気たっぷりにウインクをした。

 さっき手に入れたばかりのお金から代金を支払い、帰り道に見つけた洋品店でニット帽をふたつ購入する。太めの毛糸で編んだふわふわのニット帽は色違いで、きっとおそろいの髪型をした貴子さんと私にとても良く似合うだろう。

 短くなった髪はなにしろ軽くて快適だ。木枯らしに背中を押された私は、思わずスキップしそうになりながらお屋敷までの道を急ぐ。

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