流れ

緋色ザキ

流れ

 巨体を揺らしながら、黒く粘ついた鱗を全身に纏ったトカゲのような魔物、ネリゴが襲いかかってくる。

 視線の先には男が立っていた。黒髪で筋肉質な体の男である。大きな太刀を背負っていることからも、その力強さが分かる。


 男はその突進を飛び上がって華麗に躱すと、ネリゴの背中に張り付いた。

 途端、ネリゴは動きを止めて、甲高い声で叫び始める。しかし、男をその背中から振り落とすことは叶わない。


「お前の負けだ」


 男は冷ややかな瞳をネリゴへ向けると、背中の大刀でその心臓に一撃を加える。

 ピギっと悲鳴をあげたのち、ネリゴは力なくその場に倒れた。


「さてと、任務完了か」


 男はフーッと息を吐くと、ポケットから白い紙を出す。そこに魔力で印字して、空にひょいと投げた。すると、紙は蝶のようにパタパタと羽ばたき始めた。

 解体業者への連絡手段である。あの紙はすぐに解体業者の本拠地へとたどり着き、業者がやってくるというシステムになっているのだ。

 それから、魔物の横にゆっくりと腰掛けた。


「悪くはないんだがな」


 そう小さく呟いて、男ははあとため息をついた。




 解体業者はものの数分で到着し、作業に入る。そしてあっという間にその仕事を終えてしまった。各部位ごとに切り取られた魔物の身体。いつ見ても惚れ惚れする手際である。


「大刀で一撃とは、さすがっすね、ニースさん」


 作業を終えた解体員の一人、メヌカが話しかけてくる。

 そのなれなれしい笑顔に、男、ニースは苦々しげな表情をする。


「あー、わかりますよ。孤独な魔狩人のニースさんですから、久々の会話に喚起してるんすね」


「ちげーよ」


 相変わらずうざったいやつである。


 メヌカとは魔狩人の仕事を通じて知り合った。初対面からなれなれしく話しかけてきて、それはいまも変わらない。


「そんなことより、今日のやつはどうなんだ?」


「もー、相変わらず現金な人っすね。こいつはネリゴの個体の中でもなかなかにいいやつっすよ。けっこういい魔具が作れそうっす。だからまあ、百ピキくらいじゃないすか」


 まずまずの金額でニースは僅かに笑みを浮かべる。ここ一ヶ月の中では一番いい値がついている。


「こいつの研ぎ直しができそうだ」


 ネリゴ討伐の功労者である大刀に目を向ける。その刃はすでにぼろぼろである。


「なかなか年季入ってますよね、その刀」


「まあ、魔法学院時代から使ってるからな」


 かれこれ十年の付き合いである。

 新調すればいいのにと言われることも多いが、そもそもの性能も非常に高く、思い入れもあるためそんな気にはなれないでいた。


「そういえば、ニースさんはフォード魔法学院の出ですもんね。いいなあ。俺も試験に受けたんですけど落ちていけなかったんすよ」


「へー」


 ニースは適当に相づちをうつ。


「まあでも、そのおかげで魔専に拾ってもらって解体学を学ぶことができたんですけどね。それがなかったら、わりとマジな方でいまの職にありつけてなくてどうなっていたことか」


 魔専とは魔族について学べる専門学校の総称である。魔法学院などの高等学校は三年制でその後大学進学するものもいるが、魔専は基本二年での卒業となっている。そして卒業後働きはじめる人間が大半を占めている。

 メヌカも例に漏れず、その後仕事を始めた口だ。なかなかに泥臭く、決して万人受けする仕事ではないが、メヌカと話していると、解体の仕事に誇りを持っていることがまざまざと伝わってくる。


 対して自分はどうであろうか。

 魔狩人という仕事をどう思っているのか。


 この仕事をはじめてもう四年ほどになる。魔族と戦うこと自体は、魔法学院時代から多くあり、好きか嫌いかと問われれば好きな部類だろう。それに、身体能力の高さや魔法を使えることもあって適正だって相当高いはずだ。

 だが、ふとしたときに思うことがある。このままずっとこんな生活が続くのだろうかと。


「どうしたんすか、ニースさん」


 そんなことを考えていると、メヌカがそう問うてくる。


「いや、なんでもない」


 歯切れの悪さを押し殺してそう答えると、じゃあなとメヌカに別れを告げた。




 ニースは帰宅すると、ベッドに腰掛けた。視線の先にはずらっと本が並ぶ。学生時代に集めた魔族の図鑑や文献である。


 ニースは当時フォード魔法学院の魔族探求サークルに入っており、その後魔法大学に進学後は魔族学ゼミで未知の魔族や希少な魔族について研究を進めていた。

 一時は本気でその先の道である魔族学者を目指そうともした。ただ、それは狭き門であり、ひどく不安定で厳しい道のりである。


 魔族学者とは、魔族についての探求をする専門家のことだ。その多くは大学で教鞭を執る傍ら、フィールドワークを行い、魔族の探求に勤しんでいる。その様から冒険家などと呼ばれることもある人種である。

 一方で、大学や大学院で魔族についての勉学に励むもの、あるいはどこの機関にも所属せず自身で魔族を調査するものなども魔族学者と自称することが多々ある。


 魔族学者という定義はひどく曖昧であり、名乗るだけなら誰でもできてしまうものだ。巷には自称魔族学者が溢れており、魔族研究における書籍や雑誌、論文にも粗雑なものが多く混じっていることから問題になっていたりもする。

 しかし、真の意味での専門家であり、安定的な待遇を得ている者はその中でもほんの一握りなのである。

 魔族の研究に没頭するものの多くは無給、ないしは薄給の生活を送っている。

 結果を出さねば生きていけない世界。そして、魔族の調査が必要という性質から、危険な場所に足を運ぶことも多く、身体能力や知力、忍耐力、魔法などさまざまな能力が必要となってくる。


 先輩たちの中には、その道を目指したものの道半ばで心が折れてしまった人もざらにいた。中には重傷を負う人や命を落とす人もいた。

 そんな姿を見ていて、ニースは足がすくんでしまった。


「それでいま、こうして働いているんだよなあ」


 魔狩人の仕事は特別花があるというわけではない。ただ、賃金は悪くない。狩った魔物に応じて変わるものであるが、ニースは普通の生活を送っていく上で申し分のない金額を稼げていた。魔物に関する討伐依頼を斡旋している業者があり、そこから仕事を選ぶことが可能なため、基本的には自身の住居近辺で魔物を狩ることが多い。遠くても数日程度で行き来できる距離であり、生活との両立も非常にしやすい仕事だ。

 基本的に人に徒なす魔物の処理が主であるため、近隣住民から感謝の声をもらうことも多くある。ニースにとってそれは大きなやりがいとなっていた。


 それでも、ふと考えることがある。

 魔族学者を目指していたら、どうなっていただろうかと。


 魔族探求サークルの同期に一人だけ魔族学者を目指そうとフォード魔法大学からさらにその先の大学院へ進んだものがいる。卒業してからも年に一度くらいはサークルの仲間と集まっており、話したりもした。

 全く芽が出ておらず、生活にも四苦八苦しているようだが、本人はとても楽しそうな顔で研究について語っていた。

 その話を聞きながら、ニースは目の前で話す友人と自分はなんだか全く別の世界にいるような感触を味わっていた。

 ついこの間までは自分もそちら側にいたわけだ。でも、いまは違う。仕事に忙殺され、魔族の研究について考える時間なんて全くない。それはまるで遠い過去の一ページみたいで、とてつもない距離を感じるのだ。

 そのたびに友人が羨ましく見えてしまうのだった。


 ニースは手で顔を押さえた。

 全く、嫌なことを考えてしまった。それは、ひどく下らないことだ。自分の選ばなかった道を考えることなんて。


「明日も仕事だしな。さっさと寝るか」


 自分にそう言い聞かせ、ベッドに身体を預けた。




 翌日、自宅から西に十五キロほど歩いたところにある村へ向かった。そこで犬のように四足歩行で肉食の魔物、ケンロウを狩るという依頼が課されていたからだ。ケンロウは普段群れで行動するが、一匹だけであったため、どうやらはぐれた個体らしかった。


 村人数人がケンロウによって怪我を負っていたようで、一刻も早く駆除して欲しいという要望であった。たしかに、ケンロウは普通の人間からすれば素早く獰猛であり狩るのは難しい。しかし、ニースほどの腕があればたやすい任務である。


 目撃情報を村人たちから事前に聞き込み、いくつかあたりをつけ、見回りを始めた。

 散策を始めて一時間ほど経った頃、ケンロウを見つけた。ボサボサな灰色の毛並みをした雄のケンロウである。

 遠くから観察していたが、このケンロウは何があるというわけでもないのにひどく挙動不審だった。あたりを見渡して、なにかを探していた。それは仲間なのか、あるいは敵の襲来を見越してか。ニースにはよく分からなかった。


 ケンロウはニースをその瞳に映すやいなや、ギャンと吠えて襲いかかってきた。

 その直線的な攻撃を躱し、大刀で背後から大刀で一太刀で切り裂く。

 ワオーンという断末魔があたりを揺らし、ケンロウは息絶えた。そんな姿にニースはひどい不快感を覚えた。なぜだかは分からない。だが、死んだケンロウを無性に切り裂いてやりたくなった。 

 そんな邪念を振り払うべく、右の拳を大木へぶつけた。鈍い音、そしてあとからやってくる痛み。ようやく、少しだけ頭が冷静さを取り戻す。一体全体なんだというのだ。こんなケンロウ一匹、どうしたというのだ。

 チッと小さく舌打ちをして、どすりと地面に腰を下ろした。そして、懐からはがきほどの白い紙を取り出した。そこにぐっと魔力を込める。すると、文字がはがきに印字された。


「いけ」


 ニースはそれを空へと放った。はがきは自ら折り目を作り、鳥のようにその白い羽を羽ばたかせて飛んでいく。

 そのはがきは決められた行き先、解体業者のもとへ飛んでいく。なにかの邪魔が入らぬ限り、その終点を違うことはない。言い換えれば、そこにしかたどり着くことはない。


 しばらくすると、解体業者が到着した。その中に見知った顔は見当たらなかった。

 そういえば、いつもは自宅の東側での仕事が多い。もしかしたら管轄が異なるのかもしれない。 


 賃金を受け取る頃には、もう日が傾いていた。帰るには少し距離があるが、泊まっていくほどでもない。悩んだあげく、ニースは隣村にある実家に帰ることにした。

 とくに連絡は入れていないが、きっと問題ないだろう。村でおみやげになりそうな肉やら野菜やらを買っていく。少し買いすぎてしまったが、まあこんなものか。


 実家に着く頃にはすでに日は沈んで辺りは薄暗くなっていた。

 扉からは明かりが漏れており、なんだかやけに賑やかである。

 ノックすると、ニースの腰くらいの背丈の茶髪の少年が勢いよく扉を開いた。「こんばんは」


「ああ、こんばんは」


 満面の笑みを浮かべたその少年に全く見覚えがない。誰だろうかと首を捻っていると、うしろから声がかかった。


「こら、ジャック。勝手に出ないの。ごめんなさいね、ってニース」


「姉さんか」


 それは姉のライアだった。


「ジャックだったのか。大きくなったな」


 その頭を優しく撫でる。どおりで知らないわけだ。以前ジャックとあったときにはまだ立って歩くこともできなかったのだ。

 それから、姉夫婦と父母と食卓を囲んだ。

 ジャックの話や近所の人間の話が飛び交う。ニースはそれを適当に相づちを打って聞き流しながら食事を摂っていた。


「ところでニース、いまお付き合いしている人とかいるの」


 突然、とんでもない流れ弾が母から飛んできた。

 思わぬ言葉にごほごほとむせてしまう。


「いきなりなんだよ」


「いやね、このあいだ隣村の酪農家のヨーゼフさんと会ったときに、娘さんの貰い手を探してるって話になってね。あんたもそろそろかなって思ったのよ」


 母はやけに楽しそうな顔をしている。こういう話を親とするのはどうにも苦手なものだ。だが、仕事柄解体屋や魔狩人の斡旋業者とくらいしか関わりがなく、どうにも女性との接点が持ちにくい。

 いい機会なのかもしれない。


「一応、会うだけ会ってみたいんだが」


 すると母は驚いた顔をする。


「あらま、まさかニースからそんな風に返ってくるなんて……」


「魔狩人は相当出会いがないのね」


 姉がそれに続くように笑う。

 なんだかいたたまれなくなって、はあと息を吐くとニースは食器を片付けるために流しへ向かった。




 それからあれよあれよと話が進み、あの夕食から一週間足らずの今日、見合いが行われることになった。

 母と相手方の行動力には驚くばかりである。


 時計を見れば十二時。いつもなら仕事をしている時間だ。

 しかし今日はそこそこしっかりした服を身に纏い、相手方の到着を待っている。

 そういえば、相手がどんな人なのだろうと思い事前に母に聞いてみたところ、母も直接見たことはないが、風の噂では穏やかで笑顔が素敵な人だとのことであった。

 それを聞いてなんとなくほっとした。外で荒々しい魔物と闘うのだから、家ではほっと一息つきたいものである。


 不意にこんこんと戸が叩かれる。 


「はーい」


 母が陽気な声で戸を開ける。すると、少し垂れ目で穏やかそうな女性が姿を現した。


「お、お初にお目にかかります。シャーディーと申します」


 女性はぺこりと頭を下げた。その横には父親だろう、ひげを蓄えたたくましい男が立っていて、同じように軽く会釈した。


「はじめまして、ニースです」


 ニースもそれに合わせるようにぺこりと頭を下げる。

 それから、ニースの母とシャーディーの父は席を外し、二人の時間が始まった。他愛もないことをつらつらと話していく。これまでの生い立ちや家族のこと、出身の村の話。初対面であるというのにやけに話が続いた。一緒にいる時間が心地いいものに感じた。

 どうやらそれはニースだけでなくシャーディーも感じているようで、彼女は終始柔らかな微笑みを浮かべていた。


 楽しい時間はあっという間に終わってしまい、お開きとなった。


「よかったら、また会って話せないかな?」


「ぜひ。今度は私の村に来てください。いろいろと案内させていただきます」


 二人の間をひゅーっと風が吹く。


「なあに、もう。二人ともすごいいいかんじじゃない」


 母の茶々が入れられる。ひどく恥ずかしさを覚えた。見ればシャーディーも俯いて顔を赤くしている。


「それじゃあ、また」


「はい」


 シャーディーの後ろ姿を見ながら、きっとこの人と結婚するのだろうと、ニースは心の中で思ったのであった。

 それは嬉しいことで、でもなぜだかほんの少しホロ苦さを覚えた。 




 お見合いから一週間後。

 ニースは同窓会へ出かけた。

 ちょうどお見合いの翌日に魔法学院時代の友人から誘いがあったのだ。

 仕事も休みだったため、断る理由もなかった。それに、久々にみなに会えるのが非常に楽しみだった。


 ニースの住む村から数キロほどのところにある都市の居酒屋が集合場所とのことだった。 居酒屋フウシャ。いつもの場所だ。

 学院からのアクセスが良く、卒業生がお店を切り盛りしているということもあってこの居酒屋は学院関係者がしばしば足を運ぶ場所となっている。


 久しぶりに会う友人らはどう変わっているだろうか。あるいは、以前会ったままだろうか。とても楽しみである。


 定刻より少し早めに居酒屋に着く。

 予約したものの名前を告げると、席へ案内される。

 そこには見知った顔があった。


「ラスクか」


「よっ、ニース。久しぶり」


 笑顔の青年がそこに座っていた。以前会ったときよりも大人びた顔立ちになっている。学院の頃はあどけない顔立ちで女装させれば女の子と区別がつかないような見た目だったのだが。時間は人を変えてしまう。


 それからラスクと近況を話し合った。そのうちにぞろぞろと旧友が到着する。 しかし、その顔ぶれの中にニースが最も気になっている男はいなかった。


「なあ、ラスク。メットは今日は来ないのか?」


 ラスクはその問いに驚いた顔をする。


「ニース、知らないのか。いまメットは入院してるんだ」


「えっ。そ、そうなのか」


 それは初耳だった。


「ああ。北方の地域を調査中に魔物と交戦して命からがら逃げてきたって話だ」


 北方の地域は魔族の領域であり、強大な力を持った魔物が数多く生息している。メットは魔法学院時代、ニースよりも魔物との戦いに精通していた。そんなメットが敗れたということは相当な強さだったのだろう。


「メットは大丈夫なのか?」


「どうやら身体が傷だらけで骨も何箇所も折れていたんだと。再び調査に戻れるかも

怪しいらしい。ただ当の本人は意地でも戻りたくて必死にリハビリをしているって話だ」


 それは非常にメットらしいと思った。

 どんな逆境であってもそれを乗り越えようとする。魔法学院時代から彼の本質は全く変わっていない。

 だからこそ、ニースはそんな彼が羨ましく思ってしまった。

 研究者人生がもう潰えるかもしれないというのに、夢に向かって一心不乱に立ち向かっていく。


 安定的な人生とはかけ離れた破天荒なものだ。茨の道という形容がこれほど相応しい人生もなかろう。それでも、いやそれだからこそメットは一度限りの人生を命を燃やし、強い情熱で調査を行っているのだ。

 ほんの小さなきっかけ一つで、ニースもそちら側にいけたかもしれない。だが、現実は違う。そして、一度道を違えてしまったら最後、その茨の道へは戻れない。それをひどく痛感した。

 その日はそんな感情のもやもやもあり、浴びるほど酒を飲んだ。

 翌日の仕事に響いたのは言うまでもないことであった。




 小さな教会。

 その中央に立っていた。

 幼い頃、何度か親族の結婚式に参列した。そこで、その日の主役が立っていたその場所に、いまニースはいた。


 多くの視線に触れ、体は火照りを感じている。目の前には、美しい女性が純白のドレスを身に纏っていた。

 シャーディーだ。その瞳は心なしか潤んでいるように見える。けれどもそれは嬉し涙であろう。


「いかなる時も互いを愛することを誓いますか」


 神父の声かけにニースとシャーディーは頷き言葉を交わらせる。


「誓います」  


 神父もまた、小さく頷いた。


「では、誓いの口づけを」


 ニースはシャーディーを見た。シャーディーはすっと瞳を閉じ、顎を上げてニースへと近づく。

 ニースもまた、顔をゆっくりと近づけ、唇を交わした。

 そんな刹那の行為に、深い深い意味を感じ取った。シャーディーを幸せにする。そんな決意をニースは改めて感じたのであった。


 式はその後も滞りなく進み、あっという間に閉式をした。

 それから招待客らと言葉を交わし、家路についた。


 シャーディーと二人になると、ニースは脱力するようにどすっと床に腰掛けた。体の緊張が一気に緩み、どっと疲れが吹き出す。

 そんな様をシャーディーは笑みを浮かべて見ていた。ニースもそんな柔らかな笑みを見て、笑った。


 こんな居心地のいい空間が世の中にはあるのだ。もちろん、これから喧嘩をすることもあるかもしれないが、きっと楽しい日々を送っていける。根拠はないが、なぜだか幸せな日常を過ごしていけるという確信がもてた。


「そういえば、今日の披露宴に来られなかった方からお手紙が来ているみたい」 


 シャーディーの手には手紙の束が握られていた。

 ニースは自分宛のものを探していて、手を止めた。その一番上にあった手紙の宛名はひどく見知ったものだった。メットである。

 そこには、軽いメットの近況と結婚を祝うメッセージが添えられていた。比較的達筆な方であったメットではあるが、字がよれよれであった。まだ負傷の影響が残っていることがまざまざと感じ取れる。

 そして、ニースの世界は、本当の意味でメットの住む世界とは断絶したことを悟った。


「どうしたの?」 


 シャーディーが不思議そうな顔でこちらを見ていた。


「いや、なんでもないよ」


 ニースは笑った。

 ここからまた、新たな二人での生活が始まる。まるで大海原をこぎ出した船のように。

 そしてゆくゆくは子どもも生まれ、乗員は三人、四人と増えていくかもしれない。

 けれどもその船は一方通行であり、もう元来た道を引き返すことはできない。流れに抗えず、心の底の底に秘めた茨の道へ向かうための方法は完全に途絶えてしまったのだ。

 それは果たして、幸あることか、はたまた不幸か。ニースには分からなかった。


「えいっ」 


 不意にシャーディーが抱きついてきた。そして、ニースの驚いた様子を見て、満足げに笑う。

 ニースはその背中に手を回し、抱き寄せた。 いろいろ考えても仕方ない。いまはただ、この温もりに身を任せようとそう思ったのであった。

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