訣別の季節

洲央

訣別の季節

 目を覚ますと、ドゥアはどうしようもなく季節が変わってしまったことを知った。妹のリマを殺すか、最低でもこのナワバリから追い出さなくてはならない。

 ドゥアたちが暮らすナワバリの小島は、いくつかの森と無数の川に囲まれている。現在、ナワバリにはドゥアとリマの他に母のサトゥが暮らしている。このうち二頭だけなら共に暮らせないこともないが、三頭となるととても無理だ。新しい季節の風と共に、ドゥアかリマがナワバリを去らなければならない。

 小島の付近には、すでに他のトラたちのナワバリがひしめいている。最適な場所を探すにはかなりの移動が必要となるだろう。それまでに他所のナワバリで狩りをする必要も出てくるし、そうなったら戦闘は避けられない。親離れした直後の二歳のメスが、成獣したトラと戦って勝てる見込みなど万に一つもない。

 ドゥアは何気ない散歩を装いながら、リマを探してナワバリ内を歩き回る。太陽はまだ高く、大抵のトラたちは昼寝をしている時間帯だ。そよそよと爽やかな風が葦の原を揺らしている。

 やがて、ドゥアの鼻は嗅ぎ慣れた妹の匂いを捉えた。狩りをする際と同じ緊張感で、ドゥアは慎重に匂いを辿っていく。そして、小川の向こうで暢気に昼寝をしているリマを見つけた。無防備に腹を晒して目をつぶっているリマ。ナワバリの中で家族に襲われるなんて、少しも考えていないのだろう。

 何事にも真剣で真面目な性格のドゥアと違って、リマはマイペースで奔放な性格をしていた。しっかり者の長姉ドゥアと、おっとり者の四女リマ。かつて六頭いた姉妹の中でも、ドゥアとリマは妙に気が合っていた。お互いがお互いを一番信頼していたし、相手のためなら死ぬことだっていとわなかった。

 今だって、その想いは変わらない。姉妹の絆は少しも損なわれていないのだ。けれども、ドゥアは妹を害さなければならない。季節が移ってしまえば、世界の理もまた変わる。愛していても、別れなければならない。

 ドゥアは小川の飛び石を渡り、風下からリマにゆっくりと近づいていく。ふんわりと柔らかい肉球のおかげで、足音はほとんどないに等しい。リマはドゥアに気付く様子もなく、気持ち良さそうに目をつぶり、ごろんと仰向けに寝そべっている。

 ドゥアが八センチにもなる牙でリマの首元を一嚙みすれば、妹はなすすべなく絶命することだろう。筋肉の詰まった前脚で、思い切り腹部を殴ってもいい。三センチの爪はリマの肉を裂き、その奥の臓器にまで余裕で到達するはずだ。

 抜き足、差し足、忍び足……青草の生い茂る大地を、ドゥアは指先の肉球で慎重に探る。下手なところに足を置けば、草の軋みや小枝の折れる音でリマが目を覚ましてしまう。そうしたら、この奇襲は台無しだ。

 足を置く場所が決まっても、体重はまだかけない。本当に大丈夫かどうか、指先だけに重さを加えて確かめてからきちんと踏み出す。そうやって、走れば一息で縮められる距離を、ドゥアは何分もかけて埋めていく。その間、リマから片時も目を離さない。

 少し離れたところから、母トラであるサトゥの匂いが漂ってくる。ドゥアとリマの母であるサトゥは、どっしりとした身体と穏やかな気性が特徴の立派なトラだ。ドゥアもリマもサトゥには勝てない。あと一年経って成獣になれば勝てるかもしれないが、その頃にはサトゥは寿命を迎えているだろう。

 愛する娘たちの争いにサトゥはノータッチだ。むしろ、娘たちが訣別の季節を無事迎えられたことを喜んでいる。六頭すべてがこの日を迎えられずに命を落とす可能性だってあったのだ。サトゥはこれまで何頭も子を産んできたが、訣別の季節までに二頭も生き残っていたのは久しぶりのことだった。いや、初めてかもしれない。

 サトゥは自分のナワバリを去った子のことは忘れてしまう。ただ、この日を迎えられなかった子たちのことはいつまでも忘れられない。

 夜になると、幼い子どもたちはサトゥの記憶から影となって這い出してくる。聞こえるはずのない子どもたちの鳴き声が、サトゥの耳の内側で鳴っている。楽しそうにじゃれあう声、お腹が減ったとわめく声、幸せそうに眠る声、命を失う寸前の声。トラの最大の武器である嗅覚に影響はないけれど、気が散って狩りに集中できないのは確かだった。

 ドゥアたちを妊娠した時、サトゥはもうこれで最後にしようと思った。肉体的な寿命もあるが、これ以上子どもたちの幻影を増やしたくはなかったからだ。次に発情期のオスと出会ったら、サトゥはわざと抵抗して噛み殺されるつもりでいる。ドゥアもリマも、そのことを知らない。

 サトゥの産んだ姉妹ははじめ六頭いた。

 次女のティガはお転婆娘で、姉妹の中で一番好奇心旺盛だった。ドゥアはよくティガと冒険に出かけた。ナワバリの中には小高い岩山や波立つ葦原、白い滝に黒い沼など、面白い場所が山ほどあった。ある冒険の最中、ティガは水を飲んでいたところをワニにやられた。ドゥアが水音に気づいた時には、ティガの小さな体はほとんど水面下に引きずり込まれていた。ドゥアにはもはやどうしようもなく、一つ吠えてから早足でその場を後にした。

 お調子者の三女アンパッは、岩場でイノシシを狩った際に肉球を怪我した。それ自体はよくあることだが、傷口から悪いものが入り込んだらしく十日ほど熱で苦しんで死んだ。不吉な臭いがしていたから、森に住むどんな動物もアンパッの死骸には近づかなかった。ただ無数の小さな生き物たちは平然とアンパッに群がり、三日で白い骨だけにしてしまった。

 五女アナムは姉妹の中で最も身体が大きく、誰よりも強靭な前脚を持っていた。狩りの習得も一番早く、長女であるドゥアを焦らせた。アナムは見た目に反して穏やかな性格だったから、ドゥアがどんなに突っかかっても静かに「そうだね」と受け止めるだけだった。その優しさがドゥアにはいつもつらかった。ある日、聞き慣れない破裂音がジャングルに響いた。パン、パンと二回聞こえ、鳥たちが大騒ぎしながら飛んできた。サトゥはサッと立ち上がり、「ここから動かないで」と娘達に低く吠えた。それ以来、アナムはどこかに消えてしまった。姿も、匂いも、足跡も消えた。

 トゥジョーは末っ子らしく甘えん坊で、なかなかサトゥから離れようとしなかった。一歳になる頃には姉妹と一緒に狩りごっこに興じるようにはなったけれど、その目はいつもサトゥの姿を探していた。最期の日も、トゥジョーはサトゥの隣でまどろんでいた。他の姉妹は巣の周辺に散らばって、夜の狩りに備えて身体を動かし始めていた。ふと、夕陽に染まる葦原がざわっと揺れた。そして、背の高い葦の隙間から巨大なオスのトラが唐突に姿を表した。姉妹の誰もが金縛りにあったように動けなかった。サトゥだけが立ち上がり、唸り声を上げて威嚇した。オスは一つ吠えると目にも止まらぬ速さで距離を詰め、右脚でサトゥを殴り飛ばした。そして、母トラの一番近くにいたトゥジョーを噛み殺した。トゥジョーは声も上げずに絶命した。ぐったりした身体を咥えると、オスは振り向きもせず去っていった。

 どの姉妹が先に死んだのかは家族の誰も覚えていないが、こうしてサトゥの娘はドゥアとリマだけになった。

 幸福で満たされた家族の時間は、長いようで短かった。

 ついに、ドゥアは妹を起こすことなく、すぐ隣にまでたどり着いた。一息でリマを噛み殺せる位置。ここまでくれば、もうドゥアの勝ちは決まったようなものだ。

 見納めになるであろうリマの寝顔を、ドゥアはジッと見つめる。願わくば夢の中から覚めないで、そのまま安らかに逝ってほしい。リマとの思い出が川を流れる木の葉のように、ドゥアの脳裏を過ぎ去っていく。

 母に守られまどろんでいた幼獣の日々、初めてリマの名前を呼んだ日、ドゥアと呼ばれた日、わけもなくお互いの身体を舐め合った嵐の夜、二頭で木に登りサトゥの狩りを見て学んだ午後、子どもたちだけで行う初めての狩り、姉妹が死んだ日に一晩中寄り添って眠ったこと、水辺で眠るリマの頭にカエルが乗っていておかしかった夏、沈む夕日を眺めながら貪ったイノシシの肉の味、星を食べようと跳び上がったリマ、一緒に昼寝をしようと猫なで声で鳴いたリマ。

 野に咲く花に交じって眠るリマは、今でもドゥアのお姫様だった。

 さよなら、リマ。

 ドゥアは後ろ脚にグッと力を入れ、リマの喉元めがけて跳び掛かる。

 次の瞬間、ごうっと風が吹き荒れるような唸り声と共に、リマがパッと目を開けた。ドゥアは構わず突っ込むが、狙っていた場所にリマの喉はすでになかった。妹は高速で身体を半回転させ、ドゥアのアタックポイントを外したのだ。

 さらに、リマは前脚をメチャクチャに振り回してドゥアの追撃を防ぐ。ドゥアはリマの予想外の反応に体勢を崩してしまい、突っ込みすぎた首をサッと後ろに引く。

 一瞬、ドゥアに隙ができる。リマはその機を逃さずに、ドゥアの死角から右前脚の一撃を見舞う。リマの鋭い爪が、ドゥアの頬肉を深く切り裂く。リマはさらに左前脚を振るうが、今度はドゥアの回避が間に合った。

 後ろ脚で立ち上がったドゥアは、上体を高く持ち上げてリマの攻撃範囲から完全に逃れる。先に一撃をもらいはしたが、いまだドゥアは有利な位置にいる。リマの腹に馬乗りになっているのだ。そのせいで、リマはこれ以上体勢を変更できない。

 ドゥアは再びリマの首元を狙う。強靭な前脚でリマのひっかきに対抗しつつ様子見し、妹の攻撃が途切れた瞬間を狙って喉元へ噛みつこうと考える。しかし、いつまで経ってもリマはまったく隙を見せない。それどころか、ドゥアの鼻先を狙って何度も爪を繰り出してきさえする。ドゥアがこのまま無理に攻めれば、確実に鼻を負傷してしまうだろう。たとえリマを殺せたとしても、そうなれば長くは生きられない。トラにとって、嗅覚は命と同じくらい大事なものなのだ。

 一旦仕切り直すしかない。埒が明かなくなったドゥアは、被弾する前にいったん距離を置こうと決める。優位を捨ててでもリスクを潰す。それがドゥアのやり方だった。ドゥアがどけば弱点を晒しているリマもまた体勢を立て直そうとするはずだから、変な追撃はこないだろう。

 ドゥアはぐるると唸って威嚇すると、前脚をリマに被せるように突き出した。真っ直ぐな軌道のドゥアの脚は、横殴りの軌道のリマの脚よりも早く相手に到達する。ドゥアはリマをグッと地面に押し付け、その反動で全身を後方へと浮かせた。

 しかし、またもリマはドゥアの想像を超えた動きを繰り出した。リマは身体が自由になった瞬間、ぐるりと百八十度横回転し、ドゥアの喉下に頭を持ってきたのだ。このままドゥアが着地すれば、頭を持ち上げてきたリマの牙がちょうど喉に食い込んでしまう。

 ドゥアは後ろ脚を無理やり伸ばして地面を蹴り飛ばす。百キロを超す巨体が、空中でグイっと弓なりに傾く。直後、ガキッとリマの牙が噛み合わされる音が響いた。間一髪のところで、ドゥアの回避が間に合ったのだ。

 ドゥアはそのまま後方に倒れ込み、みっともなく尻もちをついてごろごろと転がる。その間にリマは身をよじって起き上がり、低い姿勢でドゥアを威嚇する。ドゥアもまたすぐに起き上がり、リマを睨み返して長く唸る。

 ぶつかり合う姉妹の視線。

 ドゥアはそこで遅まきながら悟る。自分が変わってしまったように、リマも変わってしまったのだと。いつものように昼寝をしているフリをして、リマはドゥアが来るのを虎視眈々と待っていたのだ。寝首をかこうとする姉の首を、逆に噛んでやろうと企んでいたのだ。

 ドゥアは舌を伸ばして頬の傷をぺろりと舐める。血の味には慣れているはずだが、獲物の血と自分の血では味が違っていて大変不快だ。

 リマの血は、それではどんな味がするのだろう。ドゥアにとって、リマは獲物でもあるし、自分に限りなく近い存在でもある。願わくば、リマの血は不快な味であってほしいとドゥアは思う。そうでなければ、何か悲しい。

 次はどちらから仕掛けるか。お互いの出方を伺っていると、ポツリ、とドゥアの鼻頭に雨粒が落ちてきた。ポツリ、ポツリとリマの額にも雨粒が落ちる。二頭は同時に、低く鳴いた。

 はるか遠くの空が光り、落雷の轟音が遅れて響く。穏やかな季節は終わり、豪雨の季節がやって来るのだ。大地は押し流され、古い秩序は入れ替わる。

 二頭の間に生ぬるい風が吹く。ドゥアとリマはお互いを視界に入れたままゆっくりとその場を離れ始めた。子ども時代はもう終わり。次に顔を合わせたら、今度こそどちらかが死ぬまで戦うことになる。

 去り行くドゥアに向かって、リマが一度だけ短く吠える。ドゥアは尻尾を軽く振り、小川を渡って消えていった。

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