封印のドア

真花

封印のドア

 生きることも死ぬことも魔法と共にあった時代――


 エリカはベッドから半身を起こして、僕が薬草を混ぜて擦り潰すのを見ている。二人とも何も言わない。薬研の音だけが部屋の中を主役になって闊歩する。窓の外には海があって、青く潮騒を呟き、擦る音の隙間隙間で耳を撫でる。太陽は窓とは反対側に照っているが海と空の窓に区切られた範囲は明るく、窓の内側の薄暗さに挑戦して、侵入して、ベッドの足元の辺りまで光を射すが、それ以上は入って来ない。

 僕は出来上がった薬を小袋に測って詰める。

「エリカさん。長かった大風邪ももう治りました。再発しないために、この薬を二週間飲んで下さい」

 顔を上げて言う僕と目が合ったら、エリカは急に視線を逸らす。

「先生の魔力が込もっているの?」

 エリカの声は水をまとった潤いがあり、僕は必要以上に聞き入ってしまう。だが相手は患者であり、十九歳の独身女性であり、領主の娘だ。この部屋が密室だからと言って間違いをする訳にはいかない。

「たっぷり込めていますよ。風のヒーラーの腕の見せ所ですから」

 僕は職業的に自信のある顔をして見せる。エリカは向こうを向いている。

「じゃあ、もう先生は来ないの?」

 音は小さいのにひとつひとつの言葉が判を打つ強さがあった。僕の胸がその衝撃に揺れる。

「また何か体調のことで困ったら来ます」

 エリカが決意を体現するように僕を見る。ため息を飲み込んだ表情は張り詰めていて、体を診られるときに意識的に無表情にするときと違い、力があって、命があって、僕は吸い込まれる。

「私、泳ぐのすごく上手いのよ。人魚みたいに泳げるの」

 待ち構えたものと違い、拍子抜けするのを顔に出さないようにする。

「そうですか」

 エリカは踏み締めるように頷く。

「たくさん潜れるし、魚とも仲良しなの。後、お勉強もかなり出来るのよ。……先生には及ばないとは思うけど」

 僕の口許がやわらかく緩む。

「勉強はたんまりしましたよ。でも、魔力の扱いも随分修行しました」

 エリカは張ったままの顔で口だけ笑う。

「魔力は私には分からないから、すごいなと思う」

 そう言った切りエリカは黙る。僕も微笑んだ顔を固定して黙る。言葉を発しないが、エリカの気配が膨れて、風呂敷になって僕に迫る。僕はじっと立っていた。怖くないし、受け止めなくてはならないものだから。気配は僕に至って、僕を包み込む。エリカの両手に掴まれたみたいだった。そのまま僕は握られて、じっとエリカを見詰める。視線で大丈夫だと伝える。それはエリカが大丈夫で、僕が大丈夫だ。

 窓の外で何かが反射して、光が部屋の中を走り去って行った。

 それを合図にエリカの手は風呂敷はシュルシュルと引かれて行き、エリカの中に収まった。僕達は二人だけで部屋にいた。

「先生」

 僕はその声の真剣さに微笑みを捨てる。

「はい」

 エリカは何回か呼吸をする。ひと呼吸ごとに力を溜める。

「好き」

 僕は驚かない。驚いたふりもしない。

「そうですか」

 エリカは顔にキュッと力を入れる。

「うん。それだけ。勝手に想うから。きっと、そうですか、しか言わないし、言えないって分かっている。それでも伝えたかった」

 僕は神妙に頷く。僕はタブーを犯さない。普通のことだ。たとえ、いくばくか僕にも好意があったとしてもそれは封殺しなくてはならない。

「伝わっています」

 エリカの張り詰めがピークを越えて、急に弛緩する。

「いいんだ。伝われば」

 十九歳らしい笑顔に落ち着く。僕はその顔を認めて帰る準備を始めようとする。エリカが、後、もうひとつだけいい? と布団から足を出した。

「どうしましたか?」

 エリカが指で足を指すので、ベッドに近付く。

「足の裏の感覚がないんだ。触ると硬くなってるんだ」

 僕はエリカの足を診る。

 僕は自分の顔が固まるのを感じた。

「これは……石の病の可能性が高いです。でも僕にはその確定は出来ないし、どの石の病かも分けられない。首都にいる石のヒーラーを呼んで、診てもらう必要があります」

 エリカの表情も石になる。

「嘘」

「嘘じゃないです」

「ねぇ先生、嘘って言って。石の病になったら死ぬのよ? 緩慢に確実に、死ぬのよ?」

 僕は、う、と唸る。

「確実なことは石のヒーラーに診て貰ってからです」

 エリカは破裂するように泣き崩れる。僕は黙ってそばに立っていた。


 エリカの涙がひと山を越えた。

「私、もう泳げないの?」

 縋る視線を振り落とさないまま答える。

「泳げません。……小数ですが治る石の病もあります。その可能性を考えましょう」

 エリカは首を振る。適正な現実を拒否するように。

「とりあえず絶望することにする。……もう大丈夫だから」

 僕は頷いて仕度の続きをする。エリカがずっと僕を見ていた。僕は何か声をかけたかった。だが、恋しいと言われている以上、無責任な言葉は発せられない。いや、元々無責任は出来ない。その色味が増して濃くなった。

「では、お父様に話をします。また必要なときに呼んで下さい」

 エリカは涙を拭う。

「私には先生が必要。これまでと同じように毎週来て欲しい」

 僕は頭の中でこれからどうなるかをさっと見る。

「お父様に相談します。なるべくそうなるように努力します」

 エリカは細かく頷く。それはエリカの震えだった。

「お願いします」

 僕は荷物を持つ。

「では、また」

 部屋を出るときに振り返ったらエリカと目が合って、会釈をし合う。エリカの会釈にはきっと来週も来て欲しいと言う願いが色濃く乗っていた。

 僕はエリカの父親に事情を説明し、父親は落胆しながらも理性的に、石のヒーラーを呼ぶことを決めた。毎週僕が様子を見に来ることにも同意した。エリカの恋慕については伏せた。父親は金に糸目は付けないと言って、その場で石のヒーラーに連絡を取り、今日中に石のヒーラーは転送魔法で診察に来ることになった。連絡魔法、転送魔法、石のヒーラーへの謝礼を合わせると僕の稼ぎの一ヶ月分くらいのお金になりそうだった。僕は地元のヒーラーとして診察に立ち会う。

 約束の時間まで他の患者のところに行って、三時に屋敷に戻って来た。

 応接室で父親と共に石のヒーラーの到着を待った。

 空間がひずんで、丸坊主の大男が現れた。その後ろから中くらいのと小さい、これも丸坊主の男が付いて来た。父親が出迎える。

「遠路はるばるありがとうございます」

 大男はうやうやしく一礼する。

「いえ。早速診させて頂きます。案内をお願いします。後ろの二人も石のヒーラーです。確実に診断するために三人で診ます」

 父親が先導して、男達が三人並んで、その後ろから僕が付いて行った。部屋に入ると窓の外から日差しが控え目に部屋の中を照らしていた。エリカはあの後も泣いたのだろう、搾りかすのように見える。

「石のヒーラーです。では、失礼します」

 男達は足だけでなく体のあっちこっちを見たり、触れたり、魔力を当てたりした。胸や尻には触れなかった。それで少し安心した。

 男達は三人で串団子になって話し合いを始めた。すぐに意見はまとまって、大男が代表で喋る。

「石の病で間違いありません。細かい分類では凝石ぎょうせきの病になります。基本的には治らないのが石の病ですが、この病に関して言えば、首都にある治療院で特別な療法を受けると治る可能性が少しながらあります。正直なところ期待するほどの改善率ではないですが、それに賭けてみることは出来ます。どうしますか?」

 父親はぎゅっと固まる。

「少し、娘と二人で相談させて下さい」

「もちろんです」

 男三人と僕は隣の部屋に移った。テーブルと椅子があったのでめいめい座ったが、誰も何も言わなかった。石のヒーラー、ゆっくり死んで行く人達を専門に診ると言うのは、どんな気持ちなのだろう。ヒーラーが嬉しいときってのは、治したときだ。そして、治ったことによって元の生活が出来るようになったときだ。石のヒーラーにはそれがない。いや、ほとんどない。僕の魔力の性質からしても石のヒーラーにはなれなかったが、僕の心も石のヒーラーには向かない。僕には決して来なかった未来の姿が三つもここにある。

 沈黙を部屋に充填したまま時間がいつもよりゆっくり過ぎる。窓の外の景色は延々と変わらない。潮騒が沈黙にまぶされる。

 ドアをノックする音がした。

 僕達は立ち上がる。ドアが開いて父親が入って来た。

「先生。首都の治療院に行かせようと思います」

 大男はゆっくりと頷く。

「分かりました。すぐに連絡を取って、いつから入れるかを確かめます」

 男は連絡魔法を使った。

「三週間後なら大丈夫です」

 父親は了承して、男達は帰って行った。僕がエリカと話をしたいと言うと、父親は、今日はそっとしておいて下さい、と断った。僕は次回の約束を確認して、帰路に就いた。


 一週間後、エリカの部屋に入ると、エリカはベッドの上で体をよじって僕に手を振った。僕はエリカのそばにしゃがむ。

「調子はどうですか?」

 エリカはブスッとした顔を一瞬見せて、小さくため息をついてから首をゆらゆらと振る。

「体の調子は普通、元気よ。でも、もう足首まで感覚がなくなっているの。気持ちは最悪。だって死ぬのよ? この若さで」

 僕は何をしに来たのだろう。何も慰めるものを持っていない。

「しんどいです」

「そうよ。世の中自殺する人がいっぱいいるって言うけど、代わって欲しいわ」

「確かにそうですね」

 エリカはもう一度ため息をつく。

「道ならぬ恋をしたから、石の病になったのかな」

 僕は鋭利に首を振る。

「そんなことはないと思います」

「そうかな。そうだったら納得出来るんだけどな。でももしそうなら、私、先生のところで死にたい」

 ギュッと空間が詰まる。僕の息も止まる。エリカが僕を確かめるように見る。

「生きる方を選んだんですよね?」

 エリカは空間を緩めない。

「そう、可能性が低くて先生に会えない方の未来。ねえ先生、もし生き残ったら、そのときは私とのこと考えてくれる?」

 いい加減なことは言えない。言ってはいけない。

「約束は出来ません。そのときに真正面から受け止めます」

 エリカはふわりと笑う。

「先生らしいね。でもそう言うところも好き。……先生、あのね、治療院に入るのは二週間後なんだけど、それまでの間少しだけ旅行をすることにしたの。生きていればいつだって出来るかも知れないけど、そうじゃないなら最後の動ける時間になるでしょ? お父さんとお母さんと弟と四人で旅行に行くの。だから明日出発する。先生と会えるのはこれが最後になる。本当はギリギリまで何回も先生と会いたかったけど、家族との時間も大事にしたいと思ったの。ごめんね」

 僕は何も出来ない。出来ないのにエリカは前に進む。

「謝ることじゃないです」

 エリカはゆっくり瞬きをして、同じだけゆっくり頷く。

「先生、今までありがとう。大好きだよ」

 エリカは右手を差し出す。僕はわずかな時間、本当に短い時間だがきっとエリカには伝わるくらいの時間躊躇して、エリカの右手を握った。エリカは左手も添えて、ぎゅっぎゅっと慈しむ。そして鳩を放つように手を離した。僕の右手が僕の元に戻って来る。僕達の胸から同時に透明な息が漏れて、混じる。エリカが視線を僕に向ける。

「さようなら」

 エリカは、次に会うときは生き残ったときとは言わなかった。そうはならない方の未来が圧倒的に待っているからではないだろう。僕は立ち上がる。僕の顔をエリカの目が追う。エリカは泣いていなかった。唇がかすかに震えていた。

「では。さようなら」

 僕はドアの前まで行き、振り返る。エリカが小さく手を振った。僕も鏡映しに手を振る。ドアが重くて、だが押し開けて、体を部屋の外に出す。もう一度振り返る。エリカはやはり手を振っていた。僕は大きく振らずにはいられなかった。エリカがクスっと笑った。

 僕はドアを閉めた。二度と開けることのない封印のドアだった。


(了)

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