狐の嫁入り

ぬーん

狐の嫁入り

平成○○年、一月三日。時刻は深夜三時を過ぎていた。

祖父が運転するトラックに、当時小学生だった長嶺優子が一緒に乗っていた。

幼い頃から某県にあるお寺に毎年初詣をし、新年の挨拶と家内安全をお願いする為にお参りをするのが、長嶺家の恒例行事だった。

車酔いをしてしまう事が多い優子は、車の窓を少しだけ開けて外を眺めていた。

高速道路を走るトラックの開いた窓から、ビュウビュウと音を立てた冷たい風が優子の顔や体に当たり、暖房と冷気が混ざりあった車内で喋る人は誰もいなかった。

暫く走っていると、エンジン音が響く車内で祖母がこそこそと優子に声を掛ける。

「優子ちゃん、寒くない?大丈夫?」

「うん!」

「そう…。でも、おばあちゃん寒くなってきちゃったから、ちょっとだけ窓を閉めてくれる?」

「わかった!」

元気よく返事をした優子は窓を全て閉めると、祖母とニコニコした笑顔で顔を見合せた。

優子がまた窓の外を見ると、突然開けた場所が見えた。小さな山の参道の中に赤い点が等間隔に並び、歩いているのかその赤い点は時々揺れていた。

優子が車の窓に張り付き目を見開いて確認すると、顔は見ることが出来なかったが、やはり人のようなものが歩いていて、暗闇にぼんやりと浮かぶ赤い点は、松明に灯された火のようだった。

一瞬のうちにトラックでその場を通り過ぎてしまい、今のは一体何だったのか確認することは出来なかった。

「何あれ…」

優子がボソリと呟くと、それまで黙っていた祖父が口を開く。

「あれは、狐の嫁入りだ。」

「きつねのよめいり…?」

「そうだ。ああやって狐が夜中に列をなして結婚式を挙げるんだよ。優子にはあれが、見えたのか?」

「うん…。」

「…そうか。」

前を向いたまま喋り続けた祖父は一度も優子を見ること無く、そのまま再び黙り込んでしまった。

目的地のお寺近くの駐車場に着き、トラックを降りて寒さに震える優子は、先程の狐の嫁入りの事を詳しく知りたくなり、祖父に話し掛ける。

「おじいちゃん、さっきの狐の嫁入りの事なんだけど…」

「狐の嫁入り?」

「えっ…。さっき車でお話したでしょ?」

「さあ…?何の事だか、さっぱりわからん。」

「そ、そっか…ごめんね。」

祖父の不思議そうな顔を見た優子は、本当に祖父は何も覚えていないんだと察し、改めて見た事や先程言われた事をお寺に向かいながら一から説明する。

でも、祖父から返ってきた言葉は、「話した記憶も、そんな事を言った覚えも無い」というものだった。

祖父は個人事業主でバリバリ働いている人だったし、優子に嘘を吐く様な人ではなかった。

「そんな事ってあるんだ…」

「ごめんなぁ、優子。そうだ、ここにはお稲荷さんがいるし、油揚げを買おう。」

「うん…!」

肩を落とす優子を可哀想に思ったのか、お寺の奥にお稲荷様を祀っている場所があり、そこでお供え物の油揚げを買う約束をした。

このお寺のお稲荷様は出世と開運で有名で、長い階段を上った先の小高い丘の上にあった。緩やかな長い階段を上った先にひっそりと、お稲荷様はいた。

優子は提灯と裸電球が照らし出すこの独特な雰囲気が漂うお社と、人々を迎え入れてくれるような空気を纏ったお稲荷様が好きだった。

約束の油揚げをお供えして、賽銭を投げると本坪鈴を振って鳴らし、指をずらし手を叩くと、お稲荷様に毎年行っている新年の挨拶をした。

それから数年が経ち、中学生になった優子は父親の運転する普通車に乗り、一年振りに初詣に向かっていた。

「優子お姉ちゃんが話してくれた狐の嫁入り、今年こそ見れるといいね。」

「うん、ありがとう…。」

妹の咲には耳がタコになる程、何度も狐の嫁入りの話を聞かせていた優子。あの年の狐の嫁入りを見たきり、もう一度見てみたいと毎年楽しみにしていたが、ついに小学生の間に見る事は出来なかった。

もう見ることは出来ないのか。半ば諦めていた優子ではあったがそれ以上に期待が勝り、開けた場所を見る度に少しだけ窓に顔を近づけていた。

高速道路を走り続ける車の中で、見るのを諦めかけた。そんな時だった。

小さな山の参道の中に、赤い点が等間隔に並んでいる。

バンッと窓に勢いよく張り付くと、優子は目を見開く。大人だけでなく小さな子供も一緒に並んでいて、よく見るとその子供は提灯を持っている、と。

そんな優子の後ろから、妹の咲が窓を覗き込む。

「ねえ、咲!今見えた?」

「離れてたからちょっとだけど、赤いのが見えた。」

「やっぱり、あれはそうだよね!」

「う、うん…。」

優子の勢いに押され、咲は引き気味に答えていた。

高速道路を抜け目的地のお寺に着き、お稲荷様の所へ挨拶に行く前に、咲に先程見た狐の嫁入りの話を嬉しそうにする優子。

「何の事?」

「え…、さっき一緒に見たじゃない!」

「私、何も見てないけど…。優子お姉ちゃん、どうしちゃったの?」

「本当に?本当に言ってるの?」

「だから、本当に見てないってば!」

咲はお稲荷様の所へ一足先に向かっていた家族と一緒に、階段を上って行ってしまった。

誰も、何も覚えていない。優子は少し怖くなって、急いで家族に追いつこうと早く階段をかけ上った。

優子はその次の年の雪が降った十二月、親友の佳奈子に一連の出来事を電話で話した。

「なるほどねぇ…。それは怖いね。」

「うん…。誰も本当に何も覚えてないの。」

「じゃあ、今から私のお姉ちゃんに会ってみない?」

「お姉さんに?」

「うん。前に会ったことあるでしょ?実は、お姉ちゃん"そういうの"が見える人なんだ。丁度家に帰って来てるし、見てもらう為に家においでよ。」

「わかった。なるべく早く行くね!」

電話を切ると優子は自転車を走らせて四十分程の道を、転ばないようにゆっくりと漕ぎ出した。これで今までの、狐の嫁入りの事が分かるのかもしれないのか。優子は何だかふわふわとしていて、不思議な気持ちだった。

白い息を吐き出してから自転車を止めると、目の前には佳奈子とお姉さんが仲良く雪だるまを作っていた。

「こ、こんばんは。」

「あ、優子ー!待ってたよ。」

「こんばんは。佳奈子から話は聞いたよ。」

「あ、ありがとうございます。それで、私は…」

優子が緊張から生唾をゴクリと飲み込むと、お姉さんは優子に向き合った。

「…ああ、初めて会った時から思ってたけど、あんた狐が憑いてるよ。」

「……え…?」

驚いて言葉を失い目を見開く優子に、お姉さんは腕を組み言葉を続ける。

「しかも雌の狐。あんたの首と肩に巻きついてる。こいつ相当厄介だよ。」

優子の肩のあたりを指さし、お姉さんはそれを睨みつけた。恐怖で足がすくみ、唇が震える優子の頬と背中に冷たい汗が流れる。

「わ…、私は、どうすればいいですか?」

「まあ、今は何もする気は無いみたいだから、とりあえず佳奈子、家までこの子送ってあげな。」

「う、うん。わかった。」

「でも、心配だから背中を叩いてあげる。」

お姉さんは優子の背中を数回強く叩き、今にも泣きそうな優子を抱きしめると謝った。

それ以降、狐の嫁入りを見る事もなく、狐との関わりが薄れてきたのだろうと勝手に思っていた長嶺優子の身には、何も起きずにいた。

数十年経ったとある夏の日、優子は叔母に誘われて、某所にあるお稲荷様の元へお参りに来ていた。

正直あまり気が乗らなかった優子ではあったが、鳥居をくぐったその先にいる正面から見て右側にいる狛狐に触ると何かが起こる。という噂話を叔母から聞かされていた優子。

小さな階段を上りお参りをし、御神木にも挨拶を済ませ、そこで優子は遂に狐と対峙する事になる。

右側の狛狐にジリジリと優子が近づくと自分の視界が段々狭まっていくのがわかった。狛狐に触れた瞬間、パチンと目の前で何かが弾けた音がして、一気に通常の視界に戻されたかと思うと、それと同時に心臓を鷲掴みされた。優子は右側の狛狐に心臓ごと体を引っ張られた感覚が確かに残り、時間にすると数秒間だが呼吸が上手く出来なくなった。

「優子ちゃん、大丈夫!?」

「…う、うん…」

叔母の心配してくれている声が段々遠のき、蝉の声や周囲の音が全て消えた感覚がした優子は、苦しそうに狛狐の方を見ると、赤い三角の目は吊り上がり、口元は笑っている不気味な狐と目が合った。

優子が驚きと怖さから目を瞑り、恐る恐る右側の狛狐の方を見ると、元の狛狐の顔に戻っていた。

ホッと胸を撫で下ろした優子の喉元の辺りで、何かが巻き付いた気がして慌てて首を触ったが、それに触れる事は出来なかった。

涼しい風が辺りを通り抜けると、その場所には最初から何事も無かったかの様に、蝉の鳴き声が鳴り響いていた。




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