第三話(最終)


 メガネの男の目線の先には、ネコからマスターと呼ばれている、かの女性がいた。


 そうであるが、ネコと一緒にいた時の、悪く言えばどこにでもいそうな風貌の彼女とは、まるで雰囲気が異なっていた。左目の真紅の瞳を中心として放射状に紅から漆黒へと広がっていく髪と服、加えて彼女の左手に握られた鉛筆のような形状の棒──ただそれから発される”圧”は想像を絶する──それらが、彼女は他の人々とは隔絶した何かであると思うには十分な理由だった。

 一瞬にして、その空間が恐怖で満杯になった。

 ただ、例外として、その声を聞いた、もう意識が絶え絶えの一匹のネコは安堵していた。


 ──ああ、マスターがやってきてくれたんだ、と。



『か、かいとっ』


 目の前で真っ二つになった友人の惨い死に様を視界に入れてしまったメガネの男は、意外にもちゃんと仲間想いだったようで、彼女を目の前にしても最初に友人の名前が口から出ていた。


『あ、そこの虫くん。君、喋っても動いてもそのままでいても死んじゃうからね』


 まぁ、そんな彼も彼女によって殺される未来は既に確定しているのだが。

 そして、同様に、また一つの命が消える。すると、彼女の視線ではメガネの男によって遮られていたはずの光景が開けた。


『これで虫の片付けはあらかた終わりかな……って、え?』


 そこにいたのは……見るも無残な姿で横たわる、彼女の飼い猫だった。


『は……?』


 予期していなかったその姿に、今度は彼女が顔を歪ませることとなった。

 彼女は誰よりもそのネコを愛していた。誰よりも、どんな生物よりも、深く。他の生物とはほとんど関わらないほど。

 それ故に、彼女の悲嘆は、恐怖は、絶望は計り知れなかった。


『ねぇ、ちょっと待ってよ。なんでそんなに周りが赤く染まってるの……? あぁ、もしかしてクリスマスのコスプレしたかったの? もうそろそろクリスマス近いからね、今度やってみよっか。ねぇ、』

『うわああああああああああ!!!』


 彼女の言葉を遮る形で、彼女の心情などいざ知らずといった様子の、カムラと呼ばれた男が恐怖に耐えかね、発狂した。

 その言葉にもならない悲痛な叫びが契機となって、彼女の、内に秘めようとした莫大な怒りの蓋が、空いた。いや、空いてしまった。

 この世にいてはならない、かいぶつの蓋が。


『うるさいッて……言ッてるでしょ!!!!』


 彼女の怒号とともに、数分もかからずして、辺り一帯が──彼女の家だったところを中心とする、およそ半径一キロ圏内にあるありとあらゆるオブジェクトが──消し飛んだ。

 たった二つ、彼女とその飼い猫を除いて。

 自らの手で崩壊していく、かつてのネコとの小さな世界を眺めながら、彼女は思った。

 ──この出来事が、たった一人の飼い主と飼い猫の関係の喪失で起きたとなったら笑い話になるだろうか、と。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


『──あ、そういやあのマシンも一緒に壊しちゃったせいでなんて言ってるかわかんなくなっちゃった。まぁ、私ならわかるけどね、ふふっ』


 暗い世界で、いつもの笑い声が聞こえた。

 本当に、本当に毎日聞いた、聞き馴染みのある声だ。

 でも、依然として意識は遠くて、マスターの声とボクの心の中の声と世界のいろんな音がバラバラに聞こえているからさっきは全部現実のことだったんだな、と改めて理解する。

 だけど、もう死ぬし、これが現実であろうとなかろうと、ボクはマスターと最期の瞬間を過ごせたら、それでいいんだ。穏やかな日常の、ほんの一ページみたいなさりげない感じでいられるなら。

 マスターとボクだけの小さな小さな空間が、そこで再構築されたように、瞳を閉じながら感じた。


『ねぇ、初めてキミとあったときのこと、キミは覚えてるかな?』


 もちろん、覚えているさ。


『もう五年も経つんだね、あれから……。桜が満開だっていう知らせが来たと思ったら、いつの間にか散っていた時みたい。……でも、私にとってはキミといられたすべての時間が、他のどんな時間よりも大切だった。

 きっと、これからも。

 もう最期だし、昔話でもしようか』


 そこだけが時が止まったように、少女のごとくくすぐったく笑ったマスターは続けた。


『あの洞窟で、キミを覆って死んでいた……キミのお母さん、かな? 彼女の、キミたちを守らんとする小鳥の悲鳴のような鳴き声がなかったら、きっとキミも、そこで死んでいたんだろうね……。結果的に息が残っていたのはキミだけだったんだけど。それでも──』


 少し遠くで聞こえるマスターの声を聞きながら、ボクは奇妙な感覚を覚えていた。

 ボクを静かに蝕んでいくその感覚について、穏やかな子守歌のような彼女の声色を耳に残すのは継続しながら、ボクは風前の灯火のような意識を酷使して思考する。たった今、ボクとマスターの間に立ち塞がった”壁”。それを言い換えるなら、別世界に踏み込んでしまったような、マスターとは隔絶した認識の違いだった。

 ──ボクの、お母さん?

 死ぬ間際に混濁する思考。

 ボクの記憶には間違いなどないはず。ボクを含めて八匹の仲間が死んで、か細い声を喪失していくその過程は、トラウマとなっているせいか断片的に無意識で切り取ってはいるが、その殆どに現実との差異はないはずだ。

 だって、残り二匹になったときに話したあの会話をボクは一言一句覚えていて、しかもそれは夢に現れるのだから。

 そのとき──飼い主を信じてやまなかったネコの葛藤に差し伸びた、光のような幸運だろうか──ボクは一つの、確かにボクが見て感じたはずの、しかし今まで思い出すことのなかった記憶の断片が、蘇った。


「……ヒイロ。私の愛しの子よ、貴方をヒイロと名付けます。どうか、私たち七匹の分までその生を全うしてください。どうか、どうか……」


 そこは、何度も見た洞窟の中だ。


「ねぇ、ヒイロ。貴方へ、最期に私から言葉を授けます。輪廻転生という素敵な言葉を知っていますか。そうですね、手短に言えば──」


  何か、今まで抱えていたはずのいろんな不安がその瞬間に浄化されていくような心地がした。

 ──ああ、本当はあの言葉を言ってくれたのはお母さんだったんだね。”りんねてんせい”を教えてくれた、あの暖かい──

 走馬灯のように流れる記憶を噛み締めていると、彼女がボクに声を掛けた。

 もしかしたら気のせいだったのか、死ぬ間際だったからなのかその真相はわからないけれど。


『ねぇ、ヒイロ……って、え?』


 そう、聞こえた気がした。

 意識が飛ぶまでの、残りたった数秒の間。マスターから発されたその言葉が、不思議とボクの身体に染み渡った。

 ああ、そっか。お母さんも”りんねてんせい”できたんだね。

 そして、悟る。

 そっか、また会えるよね。



 そう思うと、もう思い残すことは何もなかった。

 最後の力を使って目を開けると、涙を浮かべるマスターの姿が見える。

 そのままボクは、貴方に、最期の言葉を告げた。


『にゃん。』



 ──この言葉は、あのマシンがなくてもきっと伝わっているはず。


 ──たとえ伝わっていなかったとしても、また今度、伝えに行くから。



 そしてその生命は、ネコとしての一生を終えた。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 


 ──目の前で失われる命とともに、不思議と、彼女の纏う羽衣が、漆黒から真紅へと強まっているように見えた。

『……飛彩』

 更地となったその場所で、涙を枯らした彼女はそう呟いた。

 そして、こう続ける。

『このチカラを、飛彩と名付けることにしようかな』

 彼女は、先の見えないこの世界で、再びその一歩を踏み出した。


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