第4話 城塔の王。

 エスの交友関係は限られている。どこに行ったのかの見当はおよそついていた。


 朝七時をすぎてすぐ、おほうから電話が入った。


「あなた、いったいエスになにをしたのですか」


 いきなり問いつめられた。


 しどろもどろで説明すると、すっかり呆れられてしまった。


 深夜、エスが屋敷の門を叩いたのだという。かなり酔っている様子で、アカリのところには戻らぬ、この屋敷に戻る、と言って聞かなかったのだという。バスで十五分ほどの距離だから一時間ほども歩いたのだろう。濡れた服を着て凍えていたらしい。荷物はひとつ。大型本【赦しのために】だけだったようだ。


「風邪をひいたようです。熱があるのでしばらくこちらで世話をします。頃合いをみて迎えに来なさい。よろしいですね」


 ブッと音がして電話が切れた。さすがのおほうも怒っているようだ。


 アカリは携帯を持ったままうずくまった。


 エスの無事が確認できただけでありがたかった。


 安心するとたまらなく眠くなった。アカリは床に寝転び、身体を丸くした。寒かったのでエスの脱ぎ捨てたパジャマを抱いた。涙が出てきた。自業自得であることに間違いなかった。




 目を覚ますと、夕方だった。

 バイトの時間はとうにすぎていて、アカリは飛び起きて施設に連絡をした。謝り、体調を理由に休みをとった。マリカにも電話をして謝った。「だいじょうぶ?」と訊かれたので、陽気につくろって「だいじょうぶ。ありがとう」と答えた。すぐにその反動が来た。横になった。消えてしまいたかった。




 次に目を覚ますと、朝だった。


 窓の外から通勤や通学らしき人の声が聞こえる。部屋の隅に、例の人の形をした影があった。ジッとこちらを見ているが、相手にする気力が湧かない。


 施設に連絡して、バイトはしばらく休むことを伝えた。今のメンタルでは子どもたちを相手に責任のある仕事をするのはむずかしい。


 マリカにもボイスメッセージを入れておいた。


「ごめん。何日か休む」

「だいじょう、ぶ? エスは、いないの?」


 マリカからボイスメッセージで返信があった。苦労して録音したというのが舌足らずの発音でわかった。


「ありがとう。でもだいじょうぶ」


 携帯の電源を切り、また横になった。エスのパジャマを抱きしめると、まだどこか暖かさを感じた。


 上目で部屋の隅を見る。


 そこにはやはり人の形をした影があり、こちらを示してバカのひとつ覚えの言葉を繰り返す。


 ――無駄だ。おまえはなにもできない。


 もう怒る気すらしない。あぁそうだ、そのとおりだと、心の底から同意してしまう。


 学園の体育館脇の小径で、軍鶏のように立って修道女に挨拶をするマリカの姿が頭に浮かんだ。


 あぁマリカは偉いな。


 漠然と思った。




 何度明るくなり暗くなったのか知らない。


 まだ意識はあったから何十と繰り返されたわけでもないのだろう。なにかを食べなければと思い、四つん這いで台所までゆき、エスが買いためていたスナック菓子を口にした記憶はある。


 薄闇に風と雨の音が響いていた。それに混じって呼び鈴の音が聞こえた。気のせいだろうと思って放っておくと、おなじ間隔で延々と鳴りつづける。


 エスが帰ってきたのかもしれなかった。


 力をふり絞って立ちあがり、壁で体を支えながら玄関まで出る。


 それは学生服を着たマリカだった。風の向きが悪く雨が二階の通路にまで吹きこんでいる。濡れた傘をばさりと閉じる。鞄の他にちいさな紙袋を持っている。


「どうしたの、マリカ。バイトの帰り?」


 アカリはできるだけ朗らかな笑みを作った。用があるのなら玄関ですませてしまいたかったが、マリカは答えず、無遠慮にアカリを見回している。よほどいつもとは違って見えるらしい。原因を探るように首を横にのばして部屋の中をうかがっている。


 影のことを思い出して振りかえると、もう消えてなくなっていた。


「施設で、クッキー焼きました。お茶、入れます」


 マリカはアカリを押しのけてアパートにあがりこもうとした。


「ちょっ、ちょっと」

「アカリさんは、座って、いてください」


 止めようとしてのばした手は振り払われてしまう。


 マリカは電気をつけ、あたりを見まわした後、すぐにてきぱきと働きはじめた。そのままだった牡蠣鍋の後片づけをして部屋を整理する。湯を沸かしながら、あちらこちらの戸棚を開いて必要なものを探しだす。すぐにちょっとしたお茶会の準備が整った。マリカは二人分のほうじ茶をいれると、ちゃぶ台にキッチンペーパーを敷いて紙袋からクッキーをザラザラと流しこんだ。それは動物の形をかたどったもので、焼きたての甘い匂いがした。マリカはひとつを齧って味を確認すると、「どうぞ」とすすめてくる。


 アカリは渋々口にして、軽く驚いた。独自のアレンジや外連味のない、計量から焼き具合までをレシピどおりに仕上げた丁寧さがあった。


 マリカはエスがいないことにも触れず、また、ほとんどなにも話さなかった。ただ、ときおりなにかを探すように部屋を見まわしていた。クッキーが四分の一ほどもなくなったころ、彼女は唐突に「帰ります」と言って立ちあがった。玄関を出ると長靴の先で床を叩きながら、「元気だして、ください。いつでも、連絡、ください」と言った。


「あぁ。ありがとう」


 アカリは安堵して手を振る。


 マリカは音をたてて傘を開くと、速足で階段をおり、土砂ぶりに煙る雨の中を駆けていった。


 変わった子だった。



 マリカを見送ってから、壁の時計を見て、バイトが終わるにしては早い時間であることに気づいた。心配させてしまったようだ。迷惑もかけてしまったのだろう。自分はいったいどのような顔をしているのかと洗面台の鏡を見ると、頬がこけ、目が淀み、脂で汚れた髪が爆発したような形で固まっていた。


 携帯を充電して電源をつける。エスが出ていってからすでに十日がたっていた。マリカとおほうから交互に留守電が入っていて、マリカの方はすべて無言で切られていたが、おほうの方を聞くと、二日目には「熱が下がったのでそろそろ迎えに来なさい」とあり、三日目には「明日には必ず迎えに来なさい」とあり、四日目には「今すぐひき取りに来なさい」と、不用品のような扱いになっていた。五日目の留守電ではエスのことには触れず、つとめて事務的な口調で要件が入れられていた。


「昨日、ナツが殺されました。あれの仲間も含めて二十人ばかりが騎士団の手にかかりました。太歳会の霊園に埋葬しますので、花のひとつでも献じてあげなさい」


 アカリは携帯を耳にあてたまま動くことができなかった。念のためもう一度聞くが、おなじメッセージが繰り返されるだけだ。その後、おほうからの連絡は入っていない。


 シャワーを浴びながら考えた。


 こうなってしまうと、エスがおほうの屋敷にいることは良かったかもしれない。アカリも自由に動くことができる。


 三回洗うと髪がゴワゴワしたので、適当にリンスをつけて流した。


 身体も三回洗った。


「うし」


 心が決まって風呂からあがる。


 クッキーの残りを水で胃に流しこんだ。バターの油っぽさで吐きそうになったが、カロリーが必要なので我慢する。


 着る服は、下は動きやすくて生地が丈夫なジーンズ、上にはフォーマル感のあるブラウスを選んだ。薄く化粧をして香水をつける。髪は適当に撥ねさせておいた。赤毛は簡単にお洒落感を演出できて楽だ。腕と膝が震えて自分のものではない気がする。深呼吸をしておさめる。


 外の雨は止まず、道路や屋根を打つ音は激しくなる一方だった。


 遠くから雷鳴も聞こえる。


 アパートを出るタイミングを探っていると、また影が部屋の隅にわだかまっているのに気づいた。色彩をおび、輪郭がはっきりしてくる。いよいよ本気で嫌がらせをするつもりのようだ。


 果たして、ひとりの人物が部屋の隅に顕われた。


 その人は、フリンジのついた金銀豪奢な掛衣を左肩に垂らし、正円形の飾りのならぶ縁のある被り物をしていた。蛇を象った銀製の棒を手にしている。夢で見た王笏。地上で最も権威ある者の証――。


「なにをするつもりだ。どこへ行くつもりだ」


 王は笏の先をアカリに向けた。


「おまえはこの部屋で死人のように転がっていろ。人から忘れられた墓標のように口を閉ざしていろ。それが、おまえにはふさわしい」

「……なんだよ、あんた」

「おまえはおれとおなじだ。どれほどの想いを抱き、どれほどの希望を胸に秘めていようとも、けっして己の分限を越えることなどできぬ。それでも先に進もうとすれば、雷が落ちる。雷が落ちなければ、大水が起こる。大水が起きなければ、山が爆発して火と硫黄の雨がふりそそぐ。おまえはどこへも行くことはできぬ。百年たっても、千年たっても、同じことだ。ただちいさな神の箱庭に佇んでいるだけだ」

「なんなんだよ、あんたはッ!」


 王笏を向けられるのに張り合って、アカリは王を指差して喚きたてた。


「なんなんだよ、あんたはッ! 耳もとで無駄だ無駄だと繰り返しやがって。それでなくてもこちとらかなり落ちこんでんだ! よけいに落ちこませるようなこと言ってんじゃねぇ! それともなんかの嫌がらせか? おれに恨みでもあんのか? あぁッ!?」

「おれは警告をしているのだ」


 声がしたのはすぐ目の前だった。


 どのような魔法を使ったのか、王の顔が息の触れあう距離に迫っている。


 アカリはよろめいて壁に背をつけた。


「おまえはこの部屋から出てはならない。あの女のことなど放っておけ。あれはおまえにはふさわしくない女だ。おまえはあれを愛しているというが、ほんとうに愛していると言えるのか。ただ受け入れられやすいものに縋ろうとする妄執ではないのか。孤独な女にすり寄り慰みものにしようという、浅ましい劣情ではないのか」


 王の顔がさらに寄せられて、アカリはまじまじと見た。


 若い王だった。


 美しい王だった。


 被り物からは綺麗に梳かれた紅珊瑚のような色の髪が零れ、肌は石膏のように白く、顔立ちは名匠に造られた彫像のようだ。瞳は色素が薄くかすかに青味がかっている。


 アカリはその顔に見覚えがあった。鏡で見る、自分の顔そのものだった。しかし、見慣れているはずのその顔は、見たこともない心からの悪意に歪んでいた。口からは尖った歯がのぞき、燃えるような熱い息を吐きだしている。


 アカリは怯んで態勢を崩した――、ように見せかけて、右拳をフック気味に叩きつけようとした。顔面にとどく前に、内から手で絡み取られてしまう。反対の拳で殴ろうとしたが、それも掴まれて壁に押さえつけられてしまった。自分とおなじ体躯からは想像もつかない強い力だ。


 アカリは拘束を解こうとあがいた。


「うぜぇうぜぇうぜぇ! 断りもなく人の姿を真似やがって! てめぇ、言うことやることウザすぎてヘドが出るんだよッ! てめぇにおれのなにがわかる! なにがわかるってんだ、あぁッ!?」

「わかる。おまえはおれとおなじだ」

「おなじじゃねぇ! ミソもクソもいっしょにすんじゃねぇッ!」


 両手が自由にならないので、アカリは王の顔に唾を吐いた。しかし王に気にする様子はない。かわりに力が増した。潰され、壁と床に挟まれて動きを封じられてしまう。


「聞け。おれはおまえとおなじだ」


 王は子どもにいい聞かせるように言う。アカリの抵抗など意にも介さない。


「おれは飯を炊く奴隷の子として生まれた。先王が戯れに孕ませたものだ。文字を書くことも読むこともできなかった。しかし言葉は巧みで姿かたちにも恵まれていた。酒宴の場でおれは王の物真似をした。みなが笑い、王も笑った。おれは道化として受け入れられ、みなの戯れの慰みものとなった。


 じきに宮廷では陰謀が入り乱れ、王は殺された。王族たちも互いに殺し合ってその数を減らし、道化の技がおれを表舞台へと押し出した。王国の民は威厳に満ちた王の幻を求め、おれもまた理想とする王の幻を演じた。他国を侵して支配を広げ、国をひとつにまとめるため天にもとどく城塔の建設に着手した。そしておれは地上で最も権威ある者となったのだ。


 だがいったい、それがどうしたというのだ。宮廷は昔と変わらず穢れた畜生どもの巣窟だった。かつておれを慰みものとした歴々は顔ぶれこそ変われどその品性が変わることはなかった。しかも今やおれこそがその筆頭なのだった。おれは姿かたちの優れた者を慰みものにし、拒む者は処刑台に送りその首を斬り落とした。しかし、心は晴れなかった。処刑台に送る人の数を十倍に増やし、百倍に増やすころには、おれの王としての権威は極みに達し、逆らう者もいなくなった。


 そんなおれに向かって『赦しを求めよ』とほざく黒く焼け爛れた巫女がいた。面白いので首を斬らずにおいた。地上で最も偉大な人の王となったこのおれが、今さらいったい誰に赦しを求めるというのだ。おれは生まれながらに呪われていた。その生もまた呪いにまみれていた。それと気づいたとき、おれはあの城塔を破滅のために建てているのだと悟った。神を汚すことでその罰を招来し、この身もろとも王国を滅ぼそうとしているのだと気づいたのだ。


 そして、それは正しかった。あの大嵐の日、城塔の企ては神の罰によって打ち砕かれた。民は万の数に分かたれ、互いに争い血を流す悲惨の運命を定められた。我が事業は破滅によって失敗したのではない。破滅によってこそ完成されたのだ。この世界に厄災をもたらすおおいなる神をこそ讃えよ。この穢れた世界を一掃する呪わしき神こそ幸いなれ。至高の不条理の下では一切が無だ。無こそが救いだ。おれはまさしく不条理たる神の罰によって救われたのだ」


 王はアカリの耳元に口を寄せる。吐息が熱くて火傷しそうだ。王の身体の内では火が燃えているのだろう。それは地獄の火なのだろうか。


「だから聞け。おれにはわかる。おれは過去に生きたのではなく、おまえがこれから生きようとする未来の姿そのものなのだと。おまえはこの部屋から出ることでなにかを為そうとしているが、それすらおまえの分限を越えるものなのだ。そのことはおまえ自身が一番よく知っている。それを知りながら、おまえは恐ろしさに震える身体に鞭打って外に飛び出そうとしている。それはなぜだ。それはおまえがあの巫女を愛しているからだ。愛していると思いこんでいるからだ。だからおれは教えてやるのだ。それは勘違いなのだと。それは劣情なのだと。そして結末を教えてやるのだ。無駄だ。一切が無駄骨なのだと」


 王はからかうような声になってつづける。


「ひとつ。神すら知らぬ秘密を教えてやろう」


 右手を掴む力が強まった。アカリは抗ったが、無理やり動かされて王の胸に押しあてられる。アカリは舌打ちした。ゆったりとした衣服で外からはわからなかったが、そこには女が持つものとおなじ柔らかな膨らみがあった。


 王は白い歯を剥き出して嗤う。


「おれはおまえとおなじだ。おれもあの巫女を抱こうとした。あの巫女はおれの身体を見たとき『化け物』と罵ったぞ」

「……やめろ」

「だからおれは興味深く見守っている。おまえがあの巫女を抱こうとするときには、どのような言葉で罵られるのか――、とな」

「やめろォッ!」


 アカリは全力で腕を振り払った。腕は自由になったが、手ごたえはなく、ただ空を切っただけだ。


 王は消え、アカリはひとり部屋に残されていた。


 雨音がけたたましく鳴る。雷鳴が轟く。電気が明滅して消える。


 王の狂ったような叫びが響きわたった。


「嵐に身を任せよ! 地面に打ちつけられて粉々となれ! おまえに救いはない。おまえには絶望こそがふさわしい。おれとおなじだ! おまえはおれとおなじだ!」


 強烈な雷光が閃き、地を揺るがす爆音がした。


 そして、雷鳴と雨音は絶えた。



 ずいぶんたってから、

「……やかましい」

 ようやく、アカリは言葉を吐くことができた。


 ふらつきながら立ちあがり、王の気配のなくなった虚空に向けて叫ぶ。


「やかましいやかましいやかましいッ! てめぇなんざただの負け犬じゃねぇか。女に振られて拗ねてるだけじゃねぇか。他人の痛ぇところばかりつつきやがって、どんだけ性格捻くれてんだ。こちとら自慢じゃねぇが、赤ん坊のころはオムツ換えてもらってたんだ。今さら化け物もクソもあるかこの野郎。おれァ、てめぇとは違う。おれァ、てめぇとは違うぞ! バカにすんじゃねぇッ!」


 ひとしきり叫んだ後、息を切らしてうずくまる。


 ――オムツ換えてもらってた。


 威張るにしては情けない点であることは、アカリ自身もよくわかっていた。

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