深夜タクシー

魚市場

深夜タクシー



1 喫煙所


 昔、山本先輩からこんな話を聞いた事がある。

「運転の仕事をやってるとな、だいたい一回は必ず変なもんを見ることになる。言っとくが、酔っ払いの客とか、いちゃもんつけてくるヤクザなんかじゃねぇぞ」

山本先輩はくすくす笑いながら煙草の火を指先で弾いて消し、肩をすくめて私を睨んだ。

「これだよ、これ」

そう言って、両の手を宙に浮かべ、やおらお化けのポーズをとってみせた。

「最近では、勤務外でも変な目にあったってやつもいるからな。お前も気をつけろよ」


山本先輩は、私に軽い肘鉄砲を食らわせ、にやにやと笑いながら喫煙所を後にした。
そのときの私は、冗談半分で聞いていた。しかしまさか、その話が自分の身に降りかかるとは思いもしなかった。



2 都内某所 


 雨が降っていた。雨脚が強まったり弱まったりを繰り返しながら、重く暗い夜の街にざんざんと降り注いでいた。車のワイパーが絶え間なくフロントガラスを拭ってはいるものの、その動きが追いつかないほどに雨粒は溢れてくる。視界はどこまでも鈍く、揺らいでいた。

 時計の針はもうすぐ日付が変わろうとしていたが、私はいつも通りのルートを流していた。いつもの道、いつもの街並み、そして見慣れたビルや店の灯りが雨に滲んでぼやけた闇の中に溶け込んでいる。まるで時間が止まったように感じる退屈な夜――のはずだった。

 その時だ。ふと視界の端に、人影が映り込んだ。

 女が立っていたのは、街灯の明かりがぎりぎり届くか届かないかという曖昧な場所で、闇と光の境界線にぼんやりと浮かび上がるような、そんな奇妙な姿だった。真っ白なワンピースを纏い、真紅の傘をさして立ち尽くしている姿は、どこか現実味が欠けていた。あまりにも鮮烈な対比に目が奪われ、まるで無意識のうちに私はブレーキを踏み、車を停めていた。

「お客さん、乗りますか?」

 窓を少しだけ開け、そう声をかけた。女が、タクシーの後部座席に乗り込んできた。車のドアが閉まると、ほんのわずかだが車内の空気が変わったような気がした。生暖かい吐息のような湿気がまとわりつき、窓ガラスに微かな曇りが生じている。バックミラー越しに女を見る。すると女はまるで何かに驚いたように、ゆっくりと顔をこちらに向けた。女はしばらく私を見つめたままだった。

「どちらまで?」

女はしばらく沈黙を保った後、まるで遥か遠くから聞こえるようなかすれた声で、「家まで」

と答えた。その言葉には、温もりも、意志もなく、ただ響きだけが耳に残る。

「わかりました。では、出発します」

そう告げると、私はいつも通りアクセルを踏み、車を滑り出させた。車内には雨の音だけが響き、彼女は前だけを見つめて動かない。まるで置き物のように、そこにただ佇んでいる。その白いワンピースが、車内の薄暗さに浮き上がり、なぜかその姿は少しずつ闇に溶けていくかのように見えた。

「お客さん、お住まいはどちらですか?」

女に再び声をかけてみるが、返答はない。しばらくしてようやく、

「◾️◾️まで」

と答えた。ぼそぼそと、聞き取りづらいほどの小さな声だった。

「◾️◾️ですね」

 そう復唱するように呟くと、再び車内には沈黙が戻った。妙に重苦しい、まるで音が全て吸い込まれてしまったかのような静寂。雨音が遠のいて聞こえるのは、雨のせいだけではない気がした。

「お客さん……寒くないですか?」

 今度は少し大きめの声で話しかけた。だが、女は微動だにせず、私が何を言ったかすら気付いていないかのようだった。座席に斜めに落ちる街灯の薄暗い光が女の顔をかすかに照らし出し、その青白い肌が薄気味悪いほど浮き上がって見える。

まるで答えるつもりはない、とでも言いたげに、女は無表情で前だけを見続けている。

 車内の沈黙が不気味なほどに重たく感じられた。雨音が変わらずリズムを刻んでいるが、その音が次第に遠のいていくような、違和感が胸に広がっていく。視界には、ぼんやりとした道路の光が流れ、赤いテールライトや街灯がにじんで見える。彼女の小さな横顔が、街灯の明かりに照らされて白く浮かび上がっていた。

ふと、車のミラー越しに彼女の目が合った気がした。いや、正確には「女が」こちらを見ているのではなく、彼女の目が一瞬こちらを見たように感じたのだ。無意識のうちに背筋が凍り、私は咄嗟に視線を逸らしてしまった。しかしどうにも気になって再びミラーを確認する。女の目は前方を向いたままだが、その目はやけに虚ろで、生気を感じさせない。

「お…お客さん…?」

再び声をかけたが、返事はない。いや、女はまるで生きていないかのように動かず、ただじっと前を見つめ続けているだけだ。その姿がまるで人形のように思えた。私の額には汗が滲む。

そのとき、女のかすかな囁きが耳に届いたような気がした。

「……ここで降ります」

と、まるで古い録音機が擦り切れた声を再生しているかのような、湿った響きだった。心臓が一瞬止まりそうになりながら、私は車を路肩に寄せた。外はまだどしゃぶりの雨で、街灯の光も水滴に滲み、視界は暗くぼやけていた。

「ここで……よろしいんですか?」

 後部座席から返事はなかった。恐る恐るバックミラーを覗くと、彼女はじっとこちらを見つめている……いや、まるでその目がこちらを通り越し、何かずっと遠くのものを見ているかのように感じた。

 息を呑んでいると、ふいに女の顔が崩れるように微笑んだ。それは笑顔というにはあまりに無表情で、むしろ顔の筋肉が引きつっているかのような異様な動きだった。その目は暗闇に吸い込まれそうなほど虚ろで、底が見えない。

私は反射的に、ドアを開けて車から飛び出した。暗い雨の中で、ようやく振り返った。

しかし、そこには誰もいない。

……あの女は、違うか。



3 喫煙所


 喫煙所で山本先輩と後輩の杉浦君がタバコを吸っていた。私は、先日の出来事を話すことにした。

「先輩、私も見ちゃったかもしれません。これです」

そう言って、お化けのポーズをしてみせた。

「本当か? 運転中か?」

「いえ、休日です。例の、お化けタクシーです」

「由美先輩、何ですか? お化けタクシーって?」

杉浦君が興味深げに割って入ってきた。

「お化けタクシーってのはな……」

山本先輩は杉浦くんにお化けタクシーの詳細を語り始めた。

「昔、うちの路線で接触事故があったって話は知ってるか? ◾️◾️の踏切の所だ。相手は踏切の中で停車していた個人タクシーだった。どうやら不運にも心臓発作を起こしたらしくてね。もちろん、運転士はブレーキをかけたが……間に合わなかった。タクシーの運ちゃんは亡くなったそうだ。だがな、その運ちゃんは自分が死んでいる事に気づかずに、今でも夜な夜なタクシーを転がし、自分を轢いた運転士を探してるって話だ。杉浦。お前も、赤い行灯のタクシーには気をつけろよ。運転手の名前が◾️◾️◾️◾️だったら、そいつは、お化けタクシーかもしれない」

これは、私が運転士になる前からある、一種の社内怪談みたいなものだ。お化けタクシーには見分ける方法らしい。『真っ赤な行灯をつけている』とか『運転手の名前は、◾️◾️◾️◾️だ』とか。あの日私が乗車したタクシーは、噂通りの特徴だった。私は、恐怖で怯えているだけだったが。

「うへぇ、怖いですね」

杉浦君が、本気とも冗談とも取れる口調で言った。

「でも、確かに。由美さん、霊感体質っぽいですもんね」

「どういう意味よ」



◾️◾️◾️さんという先輩社員が蒸発したのは、それから半年経った頃だった。

それ以来、お化けタクシーの目撃談は無くなった。




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