第11話 狂気の夜に終わりはない

由紀はI駅の前の歩道橋で、ビル火災を見ていた。午後七時。膨大な数の消防車、パトカー、救急車が集まっていた。歩道橋にも火事見物の人たちがあふれていた。ビルの五階から出ている火で夜空が明るくなっていた。


燃えているのは雀荘コラールのある階だった。消防車が消火活動を行っている。スマホを見ると、ニュースで現場からの実況中継が行われている。五階にいた雀荘従業員や客は逃げ遅れて、救出された人は今のところいないという。五階以上にも火や煙がまわっていて、七階のエステサロンにいた人たちの安否も懸念されている。エステサロンは、由紀が経営していたブックカフェの後に入った店舗だった。


由紀は、火を見ていて不思議と安ど感が湧きあがってきた。コラールに借金が10万円ほどあった。経営者が火と煙に巻かれて死んでしまえば、そのお金を払わなくてすむ。そんなことだけを考える。あそこにいた人たちなどどうでもいいのだ。


今夜、由紀がこの街に来たのはわけがあった。М市の「集いの家」で行っていた詩の朗読会に一人も来なくなってしまったのである。それは、絢美の詩を由紀が朗読して以来のことだった。

「あの詩の作者に会いたい。会ってその女性が朗読するのをこの目で見たい」

そう言って参加者たちは姿を消した。彼らはきっとこのI街に来て絢美に会って、そのあと帰って来なくなってしまったのではないか。由紀はその人たちのことが気になった。探そう、と思って来た。


ビル火災がやがて鎮火していく。ニュースでは「焼死体が何体も発見された」と言っている。きっとその中にコラールの店主の松本や、常連の黒沼がいたに違いない。いい気味だ。あたしが困っている時に、何の救いの手も差し伸べて来なかった人たち。あんな連中は死んで当然だ。

七階のエステサロンだって、あたしからブックカフェを奪ったようなものなんだ。うまくいくものか。客の入りが悪くて赤字だと聞いてはいたが、火事に巻き込まれるとは、これもまたいい気味だ。


由紀は胸がすくような思いがした。そして、気づく。いつごろから自分はこんな悪い考えを抱くようになってしまったのだろう。ブックカフェを始めた頃は、「世の中のためになりたい」とか「人に優しさを与えたい」とか思っていた。いつごろからこんな悪い人間に……? そうだ。絢美の詩を聞いてからだ。絢美の詩には、人間の魔性を呼び起こす力があった。魂の暗部に眠っている魔物を目覚めさせる、妖しく不思議な力……。


由紀は歩道橋を下りて、絢美のビニールシートハウスのある海の方に向かって歩いた。途中、街はずれで一人の男に会った。汚れ切って、げっそりして、うつろな目をした男。

「片桐さん……?」

そうだ。片桐だ。片桐は由紀に目もくれず、何者かに憑かれたように歩いていく。片桐の顔も体も血にまみれていた。誰かを殺してきたのでは? きっとそうだ。

いや、それはいけないことなのか。片桐は自分がやりたかったことを、成し遂げただけのことではないか。

生きたいように生きる。好きなように生きてそれで死んでしまったってかまわない。それが絢美の生き方だった。多くの人が絢美の生き方に憧れていた。あたしもそうだ。

片桐は今までずっと誰かに恨みを抱いていた。殺したいほどの恨み。それを成し遂げてきたのだ。片桐は魂の暗部からの叫びに忠実に従っただけなのだ。


夜の公園。街灯の下。絢美が詩を読んでいた。由紀は近づいて行った。いろいろな人がそこにいた。誰もが、絢美の姿を見て、絢美の詩を聞いて、我を忘れている。由紀は、その中に、詩の朗読会に来ていた一人の年配の女性を見つけた。

「島村さん」

由紀はその女性に声をかけた。

「由紀さん。ようやくこの詩人にめぐり会えました。詩を聞いているうちに、あたしはもうこの街から出ていきたくなくなりました。もう、あたし家に帰りません。ずっとこの狂気の街で暮らします」

島村はそう言った。


眠れぬ真夜中の詩の鑑賞会は、夜が明けるまで続く。いや、その夜明けさえも、この街には二度と永遠に訪れないのかもしれない。


(終)

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真夜中の詩人 花影さら @sara_ituki

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