1章 青空【 1 眩しすぎる光 】



 いつからだろうか。


 青空の眩しい光よりも、夜空の儚い星光せいこうを好んで見上げるようになったのは。


「俺、日光アレルギーなんだよね」


 目の前で懸命にバタフライを泳いでいるクラスメイトが華麗にもたくさんの水飛沫を散らしていく。鮮やかな水色のプールサイドに浮き上がったその水滴は、直射日光に照らされてビー玉のようにキラキラと輝いていた。


 そばにあった温度計の針は、34度という驚異的な数字を指している。冗談抜きで暑さに溶けそうになっていた私は隣で話しかけられているという状況に理解が追いつかず、危うく彼をシカトしてしまうところだった。


「日光アレルギー?」

「そう。太陽の光に当たったら火傷するんだよね」

「…………へぇ」


 そう言う彼は半袖短パンという何ともごく普通な格好をしている。日光アレルギーのくせにその格好で一体どうやってプールサイドまで上がって来れたんだと一瞬問いかけたくなったが、あんまり話を深堀りすると喉が渇きそうになったのでやめておいた。


 私たちは今、7月も後半にさしかかろうとしているこの暑さ地獄の中でただじっと座ってプールの見学をしなくてはならないという拷問のような任務を遂行中なのである。


 額から流れ落ちる汗は止まることを知らず、ゆっくりと容赦なく私の背中へと侵入してくる。それは隣に座る彼もどうやら同じらしく、視界の端に映った白い体操着は汗のせいでぼんやりと肌色に透けていた。袖には深い藍色の糸で刺繍された‪『篠原しのはら』という文字がくっきりと浮かんでいる。


 篠原梨星しのはらりせ。成績は常にトップで運動神経も高く、美術や書道の作品は必ずと言っていいほど賞を取れるほどの完璧さを兼ね備えるハイスペ男子。


 それなのにも関わらず、基本的に友達と群れることを好まないでいつも一人でいる孤高の天才。色んな意味でクラスの中でも一際目立っている。


「あ、音羽おとは!」

「まゆじゃん。暑い中ご苦労さん」


 かの言う私もクラスの中では目立っている方だと思う。いわゆる陽キャというやつに分類される類の者だ。


「音羽またプール休むの?今年一回も入ってないじゃん」

「確かに。せめて地獄のシャワーだけでも浴びて帰りたいわ」

「それ結局入んないんじゃん笑。もしやカナヅチなのばれたくないんだ?」

「いや、長期型の女の子の日なだけだから」

「それ男子の前で言うんか笑」


 そう目の前で笑うこの中川茉由佳なかがわまゆかとは中学からの縁だ。私の中の唯一のよき理解者でもある。


「てかまゆ太ったよね」

「あ、黙れ?プール投げたろか」

「じょーだんだよ笑」


 猛暑のせいで酸素が回っていなかった頭が、彼女と話すことで徐々に活性してくる。やっぱりさっき彼に話しかけられた時も、脱水症状の心配より互いに会話という名の生存確認を交わした方がよかったのかもしれないと今更ながらに後悔した。


「あ、やばい。おにぎりがこっち見てる」


 まゆはプールのために整えたのかしらないがいつもより形の良い自身の眉毛を寄せ、体育教師である鬼藤きとう先生の方をちらちらと見ながら誤魔化すようにタオルで顔を拭い始めた。


 私たちの学校の風紀委員顧問でもある鬼藤先生は、名前通り厳しくて威圧的な性格と職員室でよくコンビニで買った鮭おにぎりを食べていることから一部の生徒におにぎりなどと呼ばれている。


 鬼とおにぎりをかけているのだろうけど、本人の前でそのあだ名を口にすると丸坊主にされるとか、次の体育の授業で校庭15周させられるとか、色々滅茶苦茶な噂があったりもする。


 大抵あの人の授業では私語を慎まないといけないという暗黙のルールがあるため、体育の時間であんまり長く友達と立ち話をする勇者はそう多くない。まゆが怯えるのも無理はないだろう。


「じゃあ、もう行くね」

「うん。頑張れ」


 私はバレないように小さく手を振った後、プールサイドに行き交うクラスメイトに話しかけられては答えるという次なる任務をこなし始めた。



 ────────────────────



 帰宅部には放課後教室に残る用事も義理もないため、足早に家に向かうことくらいが許されている。残念ながら私もその中の一員なので、いつもはホームルームが終わると同時に教室を去るか、そのまま友達と遊びに行くというのが普通だった。


 しかしその平穏な日常が終わりを告げたのは、あの日プールを見学してから一週間後のことだ。



【 補習のお知らせ 7日間の放課後残留

  2年B組 音羽一咲おとはかずさ篠原梨星しのはらりせ 】



 そんな貼り紙がうちのクラスの黒板に貼ってあるのを見て、絶望しないわけがない。しかもあの成績トップの篠原梨星と補習をするだなんて、こんな残酷なことがあるだろうか。


「あちゃ…………音羽もとうとう補習組になっちゃったかぁ」


 黒板の目の前で、まるで世界の終わりが告げられたかのように立ち尽くす私の横からまゆがひょこっと顔を覗かせた。


「音羽いつも赤点ギリギリだもんな」

「まぁ、今回のテストが上手くいかなかっただけでしょ。元気出して?」

桜良さくらの言う通りだよー」


 まゆに慰められていると、気付いたら黒板の周りには人だかりができていた。みんながみんな、私を肯定してくれている。その優しさに、心のどこかがチクリと痛むような気がした。


 私を慰めてくれている。しかしその言葉の裏ではお前は馬鹿なんだと周囲に軽蔑されているのかもしれない。そんなありもしないようなことがどうしても頭をよぎってしまうのだ。


「…………ありがと、みんな!まぁ、夏休み潰されるよりはましだからいいや笑」


 そう笑って胸の痛みを誤魔化す。これで周囲の目にはポジティブで馬鹿な‪『音羽』‬だけが映ったはずだ。陽キャである私がもう一人の『一咲』を見せることは許されない。いいや、私が許さない。


「やっぱ音羽ってすごいわぁ」

「さっきまで世界の終わりみたいな顔してたのに立ち直るのはやすぎだろ笑」

「いや、さすがに補習だけで死なないから」


 わちゃわちゃとしたみんなの声が、先程まで静かだった教室を再び生き返らせるように飛び交う。まるで私の一言がこの場の空気を変えたみたいで、少し背筋が凍った気がした。



 ────────────────────



 帰りのホームルームが終わり、急かすように学校のチャイムが鳴り響いた。私は鉛のように重くなった足を動かしながら、昼休みに先生から持って来いと言われた数学の問題集や英語の暗記帳などを少し乱暴に鞄に詰め込んでいた。


「痛っ………」


 補習のせいでいらいらしていたせいか物に当たるようなことをしてしまった罰を与えられたらしい。小指の第一関節あたりに割と深い切り傷が残ってしまった。恐らく鞄に入れた教科書のページで思いきり切ってしまったのだろう。


 私は常に絆創膏を持ち歩くような女子力は持ち合わせていないため、適当に鞄の奥底に眠っていた白いハンカチを傷口に押し当てた。なんでこんな時に限ってハンカチの色が白なんだとまたいらいらしそうになりながら、私は血が止まるのをしばらく待っていた。


「あれ。音羽補習行かないの?」


 すると後ろの席の方からクラスメイトの瑞月みづきが不思議そうに尋ねてきた。


「なんか指切っちゃって」

「まじ。絆創膏あるけどいる?」

「え、いいの?」


 あわよくばこのまま時間が過ぎるのを待って補習をさぼろうという考えが一瞬頭をよぎったが瑞月の好意をそんなくだらない理由で断るわけにもいかず、私はありがたく彼女から小さめの絆創膏を受け取った。


「むっちゃ感謝すぎる!まじありがとう」

「いえいえー。補習頑張って」

「うん、頑張る!また明日ね」

「ばいばーい」


 瑞月はひらひらと手を振りながら教室を去って行った。絆創膏を貼り、私も補習へ向かうために席を立つ。


 ─────ガタッ。


 教室にはもう私一人しか残っていないためか、椅子を引いた音がやけに大きく聞こえる。その音が響き渡った瞬間、急に孤独感のような何かが私の体を支配した。



 怖い。苦しい。なぜだかそう思ってしまう。


 一人でいることに恐怖を覚えた私は、足早に補習が行われる2年E組へと急いだ。


 静まり返った教室はこんなにも孤独を感じさせるのだと気付いた時には、もうすでに私の心は空っぽになっていたのかもしれない。



 ────────────────────



「おい、音羽。お前どんだけ遅いんだ。まさかさぼろうとしてたなんて言わないよな?」


 教室から離れたいと思うがあまり、廊下を無我夢中に走ってきた私はぜいぜいと肩を上下させながら扉を開ける。教卓の前で仁王立ちしている先生の顔を見て、思わず「げっ」と声を漏らしそうになった。


 まさか補習の監督があのおにぎりだなんて一体誰が想像できただろうか。この人はただでさえ厳しいのに、遅刻なんてしたら何を言われるか分かったもんじゃない。


「すみません。遅れました」

「次遅れたら反省文1万文字だからなー」


 両手を広げ、教卓のかどを急かすようにトントンと人差し指でつつくおにぎりが容赦なくそう告げる。顔色一つ変えずにこんな恐ろしいことを平気で言うおにぎりの頭の中を一度覗いて見たい気分だった。


 まぁ、取り敢えず何もペナルティを課せられることはなくて安心だ。悪魔で今のところはの話だが。


 私は教卓の真ん前から数えて3番目の左側の席に座って大人しく自習する篠原梨星の姿を見つけた。


 なんとなくいている右側の席に座らなければいけない気がしたので、私は音を鳴らさないようにそっと彼の隣に腰を下ろす。


「二人にはこの補習の最終日に小テストを受けてもらう。そこで8割以上点を取れなかったら夏休みの土日にも学校に来てもらうぞ」

「えっ………まじか」


 私は殆ど無意識でそう呟いてしまった。


「なんだ、音羽。お前もしや貴重な高校生の夏休みを補習で潰したいのか。中々やるな」


 そして瞬時に自分の失態に気付く。しかしにやりとわざとらしく口端を上げてそう尋ねるおにぎりを見て、私は思わず笑ってしまった。


「ははっ、そんなわけないじゃないですか。キラキラJKの夏休み舐めないでください」

「まぁ、お前は毎日カラオケ三昧でもしてるんだろうな」

「よくぞお分かりで笑」


 いつも能のお面のようにかたい顔をしているおにぎりを笑かすことくらい、私の手にかかれば一瞬だ。体育の時の険しい表情はどこへ行ったのか、おにぎりはふにゃりと笑い出した。


「………って、音羽はいつになったら自習するんだ!」

「あ、ごめんなさい。補習ってこと忘れてました」


 反省文を恐れた私はとぼけるように言いながら鞄の中をあさり始めた。


「………ったくもう。小テストの科目は主要3科目で範囲は前回のテストと同じだ。俺は今から職員会議があるから二人で仲良く勉強するように」

「えっ、補習って他のクラスの人はいないんですか?」


 B組は私と篠原梨星しかいないが、他のクラスの補習組も一人や二人ずつくらいはいるはずだ。


「今回はお前らだけだ。しかも赤点取ったのはこの学年で音羽だけだぞ。もう少し篠原を見習うように」


 おにぎりは顔を元通りにしながら、それだけ言い残して教室を去って行った。


「えっ………まじですか」


 つまり今この空間には私と篠原梨星しかいないということだ。去年同じクラスだった妃菜ひな雅斗まさとは赤点常習犯だったというのに、もう補習組を卒業したんだろうか。


 一応今回初めて赤点を取ったはずなのにあの二人に裏切られたような、上を行かれたような気がして少し悔しくなった。


「というか、赤点取ってないのになんで補習いるの?日光アレルギーの篠原くん」


 左隣にいる彼の肩をちょんちょんとつついて声をかけてみた。この前のプールで話しかけられて以来、こうして二人になるのは初めてだったのでなんとなく緊張する。


「……………テストの日、風邪引いちゃってさ。あと………自分から言っといて何だけど、あの時のことは忘れてくれ」


 いつも一人で涼しい顔をしているあの篠原梨星が珍しく耳を赤く染めている。こんなレアな姿なんてめったに見れないと思った私は、写真を撮る代わりに彼の赤い横顔をじっくりと目に焼き付けておいた。


「そうなんだ。優等生なのになんでいるんだろうってずっと思ってたんだよねー」


 言いながら私は解く気もない数学の問題集を開いた。別になんの才もない私がたった7日間勉強しただけで補習を乗り越えられるだなんて微塵も思っていない。最初から分かりきっていることなら、わざわざ努力なんてしなくてもいいのだ。


「…………先に謝っとくけど私、君の言ったことは忘れられないと思う」


 無意識のうちにそんなことを言ってしまい、私は一気に恥ずかしさに駆られた。代わりになんの変哲もないただの白いシャーペンをペンケースから取り出し、カチカチと押し出した芯で遊んでいるふりをして誤魔化す。


「だって、私も太陽嫌いだもん。日焼けするし暑いし肌だって荒れるし」


 本当に…………嫌いだ。


 これでもかと思うくらいに光って自分を主張する太陽も、その背景に佇む晴れた青空も。


「私には、眩しすぎる」


 手を伸ばしても決して届くことはない。まるであなたのような本当の意味で輝ける人間に、偽りの輝きを持つ私みたいな人間が憧れてはいけないのだ。


「………………うん」


 彼はそれだけ呟いた。もしかしたらよく分からないことを言う私を気遣ってくれたのかもしれない。でもそれにしてはあまりにも含みのある言い方だったので、私は彼の思っていることがうまく読み取れずにいた。


「ごめん、勝手にペラペラと喋っちゃって。私たちプール以来初めてだよね?話すの」


 ノートに文字を書く彼の手が止まったのを見計らって、私はまた話しかける。真面目に勉強をしているのに迷惑かもしれないと思ったが、それよりももっと彼のことを知りたいという好奇心の方が勝ってしまったようだ。


「私、音羽一咲おとはかずさ音羽おとはって呼んで!ねぇ、君のこと梨星りせって呼んでもいい?」

「………………どうぞ」


 梨星がこちらを向く。目が合った瞬間、全身に電気が走るような衝撃が走った感じがした。初めて彼とこうして目を合わせて話すことに不覚にもドキドキしてしまう自分がいる。


 男の子には珍しい陶器のような白い肌。形の良い薄い唇。少し茶色がかった瞳は私とよく似ている。


 梨星がいつも一人で行動している理由が分かったような気がした。きっと彼のこのミステリアスで神秘的な容姿と纏う雰囲気が、周囲を寄せつけないのだろう。


「短い間だけど、これからよろしくね!」


 私は思い切り手を伸ばして握手を促す。少し一方的だったが、私たちは確かに7日間という限られた時間の中での友情を誓い合った。





 ────────今思えば、これが私たちの全ての始まりだった。


 彼と共にいることを選ばなければ、もしかするとあのようなバッドエンドを迎える日は来なかったのかもしれない。

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ペルセウスの記憶 琴吹いお @io-kotobuki

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