終章

風急天高《フォンジーティエンガオ》

 昼時を迎えた金華茶楼には大勢の客が列を成している。


 四馬路スーマールーで、かつて高級娼館として栄えた三階建ての楼閣、その偉容に見合う立派な垂花門もんには往時の風情を残す『金華楼』の扁額を掲げている。


 敷居の高さに気後れしてしまいそうな垂花門に、粗末な風体の男たちが続々と吸い込まれていく姿は、ここ数ヶ月の上海で新しく見られるようになった光景のひとつだ。


小姐シャオジエ油炸排骨ユーティパイグゥ菜飯ツァイファン!」

「はい、ただいま!」


 店内を埋め尽くす男たちに混じって、揃いの白い旗袍きほうをまとった少女たちが、料理の乗った皿を手にあっちこっちへ奔走する。

 日銭稼ぎの苦力クーリー黄江浦ホワンプーシャンで働く水夫たちが押しかける中、野分のわきが顔を出す。


「いらっしゃいませ」

 愛想よく笑って応対したのは女給ではなく、まだ十五、六と思われる少年だった。金華茶楼に男の給仕がいただろうか、と考えていたら、少年は続けた。


風先生ふうせんせいですね。方師兄ほうしけいがお待ちです」

 少年は丁寧に一礼すると、野分を茶楼の花庁ひろまの奥から通じる四合院の方へ案内する。院子にわには、鍛錬に励む香幇員たちと雲雕うんちょうがいた。


小仁しょうじん、悪いな。使い走りさせて」

 雲雕の労いに、小仁と呼ばれた少年は「別にいいよ」とくだけた口調で応じた。

「じゃ、オレ仕事に戻るから。あとで朱小姐シャオジエにも来るように伝えるね」


 少年はひらりと手を振って、踵を返す。去り際、小仁は野分に目配せをして、妙に艶っぽい笑顔を見せた。その顔をどこかで見たような気がしたが、よく思い出せなかった。


風生ふうせいは上海を離れるんだってな」

「ああ」

 野分は背負った行李を降ろしながら答える。


 全てが終わった後、野分は無事に蚕女を確保したことを報告するため、憲兵隊本部の恩田少佐の元に出向いた。今までの変装じみた格好ではなく、軍服を着て訪ねた野分に対する恩田の第一声は、

「なんだ、戻ってきたのか」

 という淡泊なものだった。


 上海に巣くった謎の怪物の存在は、瞬く間に世界中に報じられたが、その真相に迫る記事は一切出ていない。表向きには連工局が怪物を退治したことになっており、地を這うような評価しかなかった混四フンス―軍の名声がほんのわずかに回復したが、それだけだった。


 市民の関心は、蒋介石による北伐軍の進度と市内で頻発する共産主義者のデモに移り、近々上海を襲うかもしれない戦乱に怯えつつも、いつも通りの賑やかさを取り戻していた。


 恩田少佐によると、嫦鬼チャングイの原因となる例の抗血清は、関東軍から張作霖、張作霖から徐陶鈞じょとうきんへと横流しされた形跡があるという。主犯は関東軍防疫班の軍医少尉だった。


「現在取り調べ中だが、廃棄されたはずのアンプルが秘匿されていたらしい。張作霖の他にも複数の取引相手がいる」

「そんな大それたことを一人で……?」

「可能性としてはゼロではないが、背後関係を慎重に調べているところだ。貴官には廃棄アンプルの確保のため、至急天津に向かってもらう」


 ――かくして、次の辞令を受けた野分は義豊里ぎほうりのアパートを引き払い、わずかな私物と金蓮を連れての移動となった。

 本当は金蓮を仁保里におりに帰したいのだが、また攫われても厄介だ。恩田からも「細君の面倒を見るのは夫の義務だ」と、押しつけられた次第である。


「そちらこそ、上海を離れるのではなかったか?」

 花香琳かこうりんは娘を危険にさらしたくないから、と杭州に逃げる算段をつけていたはずだ。


「そのつもりだったんだがな……」

 雲雕が苦笑し、言葉を濁したところで「風先生!」と呼びかけられた。

 振り向けば、白い旗袍の少女が、軽やかな足取りで四合院の門をくぐっているところだった。


「よかったあ。離れる前に挨拶したかったから」

 朱雅文しゅがもんは、その華やかな顔立ちをいっそう輝かせて微笑む。再び金華茶楼で働き始めたことが、彼女の生活に張り合いをもたらしていることが一目でわかった。


「雅文、なんで上海を離れないんだって風生が不思議がってるぞ」

「ええ? なんでって言われても、離れたくないんだからしょうがないじゃない」

 雅文は至極当然のように言い切った。


「今更、他の土地に移るなんて想像つかないもの。でもそうね、杭州に金華茶楼二号店を開くなら考えてもいいかも」

 雅文はにっこりと笑い、金蓮は元気かと尋ねてくる。野分が行李を開けると、繭の少女があくびをしながら立ち上がった。


「相変わらずうるさい小娘じゃな」

「金蓮にだけは言われたくないよ」

「二度とその生意気な口を利けぬよう、縫うてやろうか?」

「あら。そこまで針の腕が上がったなんて知らなかったわ」

 少女二人は憎まれ口を叩きつつ、楽しそうに何やら話し込み始めた。


「ま、こんな感じで残ることになった」

 一時期険悪となっていた青幇チンパンとの関係だが、こちらは花香琳が蒋介石に仲介を頼んだことで一応の解決を見たという。


「そうか……危険がなければいいが」

 黄金栄が本心から香幇シャンパンを許しているとは思えない。今は蒋介石の顔を立てつつ、自身を襲ってきた共産党への報復を優先しているだけだろう。いつ何時、香幇に牙を剥くかわかったものではない。


「のっぴきならなくなったら引きずってでも逃げるさ。李少爺も戻ってきたし、しばらくは安泰だろう」

 燭陰の一件以降、嫦鬼チャングイの出現は目に見えて減った。それにともなって、香幇の活躍が紙面に躍ることもなくなった。


『上海の瑤姫』と謳われていた少女の存在も、やがて薄れて消えてゆくのだろう。平和な証拠ではあるが、少しばかり残念なような気もする。

 野分がちらりと雅文のほうをうかがうと、彼女は清々しい笑みを浮かべ、熱心に話し込んでいる。


「――でね、うちもそろそろ本格的に酒店を目指そうと思って、給仕を増やすことにしたの。マナーの老師せんせいは李少爺に頼んでて……」

 金蓮相手に未来の展望を明るく語っている雅文を見ていると、これでよかったのだろうと思う。


 化け物相手に命を削る生活などしないに越したことはない。これから先の彼女の人生が、幸せなものであって欲しい。それは恐らく、雲雕や劉清穆りゅうせいぼくの願いでもあるだろう。


「方師兄、劉大人はいるのか?」

「忙しいお人だからなあ。伝言があるなら聞いておこう」

「そうだな……ではこう伝えてくれ。おれがやるべきことはまだ見いだせていないが、逃げるつもりはない」


 野分はまだ、自分の立場にどの程度の価値があり、何が為せるのかを模索している途中だ。ただひとつ言えるのは――

(おれは、最後の仁保里の聟花だ)

 仁保里を取り巻くあれこれを紐解くのは容易ではないだろう。全く厄介なことに巻き込まれたものだが、全てを投げ出して逃げる段階はとうに過ぎた。


 ならばせめて、自分たちと同じような定めを、後世の人間に背負わせないよう始末をつけるのが、己の役目だ。


 野分の伝言に、雲雕は首を傾げつつもわかった、と頷いた。そして、まだ話に花を咲かせている少女二人を振り返る。


「おーい、話は済んだか? 風生はこれから仕事で遠方にいくんだぞ」

「もうちょっとだけ!」

「あのなあ……」


 嫦鬼が出なくなったところで、上海が落ち着いたとは言えない。嫦鬼が上海に与えた傷は大きく、不穏な話題には事欠かない。だが、晴れ渡った空に、少女たちの笑い声が高く昇っていくのを聞いていると、まだまだしぶとく生き続けていくような気がしてくる。


 放っておいたら日暮れまでかかってしまいそうだ。名残惜しいが、そろそろ上海を去らなくてはならない。

 野分は少女たちに足を向けた。潮まじりの風の中には、もうあの橘の香りはしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【完結】千年蚕娘 上海蠢爾編 乾羊 @inuiyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画