第37話 祓除

 雷鳴が響き、雨が降り始めた。

 雅文がもんが窓を見やると、細かな雨粒がまだら模様をつくっている。


 窓越しに空を見上げると、先ほどまであった細い三日月は厚い雲の奥に隠れ、その雲の中には紫電が走る。時刻は夜明けの直前頃か。昼間に比べればましとはいえ、じっとりした湿気がまとわりつくのが不快だった。


「不安かえ?」

呼びかけられた雅文が振り返ると、金蓮の朱金の瞳とかち合った。

「当然でしょ。雲雕うんちょう風先生ふうせんせいたちのことも心配だし」


 金蓮は適当な長椅子に腰かけ、つまらなそうに足をぶらぶらさせている。常の緋衣の上に薄衣を重ね、頭に小冠を乗せた姿は天女のようだ。この装束は山梔花園で金蓮が身につけていたもので、まさか返すわけにもいかず、くすねたままになっていた。


 わざわざ着飾る必要はないのに、と雅文は呆れたが、当の金蓮は「こういうのは形が大事なのじゃ」と譲らなかった。


「これまでも無事であった。これからも無事であろうよ」

「……だといいけど」


 雲雕と風生ふうせいは市中で徘徊する燭陰ヂュインから市民を守り、嫦鬼チャングイを排除すると言っていたが、口で言うほどたやすいことではない。こうしてただ無事を祈るしかないのがもどかしい。


 つい先日、天籟てんらいの準備が整った頃合いを見計らったように、県城周辺から日本軍の姿がすっと波が引くようになくなった。理由はわからないが好都合には違いない。雅文たちは障川門から県城に入り、湖心亭に潜むことになった。


 天籟は術の下準備のために出払っており、湖心亭には雲雕手下の精鋭が護衛として詰めている。


「朱小姐シャオジエ、そろそろ燭陰のお戻りですぜ。っと、これはこれは……見違えましたな、公主。天からの使いかと思いやしたぜ」

「そなた、小慈か」

 金蓮の言葉に小慈が破顔する。


「いやはや、覚えてくだすったとはありがたい」

「人の顔を覚えるのは得意じゃ。そなたが来たということは準備ができたのかの?」

「へえ。居心地はよろしくありませんが、我慢してくださいよ」

「仕方あるまい」


 金蓮は頷いて、長椅子から降りる。雅文は金蓮を抱き上げると愛用の棍を握り、小慈に続いて湖心亭を出た。ちょうど九曲橋の前に、馬を引いたベネディクトがいた。


聖傑洋行せいけつようこうの御曹司に見張りさせたなんて知れたら、あたしたちのほうが怒られそう」

「平気だよ。結構みんな、慣れてるから」

「……李先生って、実は結構不良なんだね」

 雅文の軽口にベネディクトが笑う。それにつられて雅文も少し笑った。肩の力が抜けて、緊張していたことを知る。


 雅文が馬に跨がり、前に金蓮を座らせるのを確認したベネディクトが馬を引いた。

 細い、糸のような雨が視界をうっすらと遮り、雅文の頬を打つ。雨のせいでわかりにくかったが、県城のあちこちに遺体が放置されていた。


 雅文が県署に捕らわれていた時、外では日本兵と嫦鬼が交戦していたというから、その残滓なのだろう。


 西園を抜けた一行は方浜路ファンバンルーを西に歩を進め、北の晏海門から続く大街ダージェとの交差点近くの廃寺にたどり着いた。小さな廟門には広福講寺とある。馬を下りて門を抜けると、入り口に比して広い境内に出た。


 中央に常香炉がぽつんと置かれ、火が焚かれている。境内を臨む四方の堂には呪符らしきものが張られ、炎に照らされて赤く染まっていた。


「お呼び立てして申し訳ありません」

 常香炉の前に立っていた天籟は振り返り、拱手した。ずっとそこにいたのかずぶ濡れだった。


「この雨って、張道士が呼んだのよね?」

「自然の摂理を曲げることはできません。望気による予測です」

 天籟によると、常香炉の火は鬼神招来のための霊符を焼べるためのものらしい。雷神の召喚は天籟一人の身に余るため、なるべく自然の力を借りるのだという。


「あっしはちょいと燭陰の様子を見てきます」

「気をつけてね」

 小慈は拱手し、するりと姿を消した。ほどなくして馬蹄の音が遠ざかっていった。


 雅文と金蓮、ベネディクトは小慈が戻るまでの間、雨を避けて堂の軒先を借りた。天籟は、といえば雨の中でじっと佇み、経文のようなものを呟いている。声量はさほどないのに、彼の玲瓏な声はこの雨の中でもよく響いた。


 敵が近くにいる。その恐怖と緊張を前に、軽口を叩く気も湧かず、ただ金蓮の手を握る手に力を込めた。金蓮もまだ雅文と同じように感じているのか、彼女にしては珍しく文句の一つも言わず、じっとその時を待っていた。


「――朱小姐、李少爺! 来ましたぜ! これから晏海門を抜けてきます!」

「わしの出番じゃな」

 小慈の先ぶれを受けた金蓮は、特に気負った様子もなく言うと、雅文の手をするりとほどき、境内の中央に進み出た。着いていこうとした雅文をベネディクトが引き留めた。

「これは彼女の仕事だ」


 金蓮が迎え撃つかのように廟門の方を向き、額の護符を取り払ったその刹那、地響きのような音が聞こえた。あの燭陰が発したものなのか、それとも雷鳴なのかわからない。いっそう激しい雨が、常香炉の屋根を境内を、金蓮たちを打つ。


 やがて、泥まみれになった燭陰が、数多の嫦鬼チャングイを引き連れて境内に入ってきた。

 こちらに飛びかかってくる天犬を、雅文が棍で打ち落とす横で、ベネディクトもまた細剣を抜いて応戦する。一瞬で混乱に飲まれた境内に、朗々たる天籟の声が響き渡る。


「――閃!」


 たった一言。それは天籟の声だったが、人の声には聞こえず、まるで雷鳴そのものの音のようだった。


 刹那、凄まじい轟音と閃光が散る。雅文は咄嗟にその場に伏せ、目を閉じ、耳を塞いだ。距離はそれなりにあったはずだが、強い衝撃があった。

 耳の奥で耳鳴りがして頭がくらくらする。ようやく雨の音が聞こえるようになって、雅文ははっと上体を起こす。


「金蓮と張道士は……!?」

 境内の中央に目を向けると、金蓮は何事もないように立っている。小さな少女の足下には、燭陰の赤黒い巨体が力なく横たわっていた。まだ煙が上がっていて、少し焦げた匂いがする。


 さすがに、あの雷撃を受けて無傷ではいられないだろうが、痙攣を起こしているところを見るとまだ生きているのか。


「……哀れなものよの」

 金蓮が感情のない声でそう呟くと辿々しい足取りで一歩二歩、燭陰に近づく。金蓮の手には匕首が握られていた。何をするかはわかっていたが、止められない。そうさせない気迫が金蓮にはあった。


 金蓮は息も絶え絶えの燭陰のそばで匕首を抜き放ち、衣の袖をまくりあげると無造作に腕を切り裂いた。燭陰の平らな頭に、血塗れの小さな手をそっと乗せ、ゆっくりと撫でた。まるで母が子を慈しむような仕草だった。


「甘露発生尊に貴命し奉る――」

 金蓮のまじないの言葉に応じて、ゆっくりと金色の炎が立ち上がり、燭陰の全身を舐めるように包み込む。地上にあらざる不可思議な黄金色の火は天の底を焦がし、やがて消えた。


 後に残った燭陰の骸は、小雨に打たれてぼろぼろと崩れた。塵のような黒い塊、その一つ一つが小さな芋虫の形をしている。金蓮がしゃがみ込み、そっと掬い上げたが、ただの土塊となって手のひらに黒い染みをつくっただけだった。


 空が白み始めると共に雨脚は急速に弱まり、上海を覆っていた厚い雲は東の果てへと去って行った。

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