第36話 決別

 県城から彩光弾が上がった、と報告を受けたのは深更になってからだった。


「じゃあ、行くか」

 まるで近所の飯店に出向くかのような軽い調子で雲雕うんちょうが言う。


 長衫に胴や脛に革当てをつけたちぐはぐな装備だったが、大刀を携えた姿は武将然としており風格すら漂う。

 香幇員たちも吊り下げた銀の香球以外は、雲雕同様あり合わせの武器や防具を身につけている。


 一方で、野分のわきの獲物は、常葉から借りた『白露』と拳銃が二丁。動きにくいからとジャケットも脱ぎ捨て、シャツとズボンにゲートルという雲雕よりもさらに身軽な格好だった。素性がばれないよう、深夜にもかかわらず鳥打ち帽を目深に被った。


「風生、馬に乗れるか? いざってとき車じゃ小回りが効かねえ」

「ああ」

 資生茶館を出ると、大馬路ダ―マールーは静まりかえっていた。


 人々は化け物の影を恐れ、夜になると窓や扉を閉ざして息を潜めている。それでも香幇の姿を見ると声をかけ、差し入れをしていく市民も多かった。


 野分も香幇員だと思われたのか、感謝や応援を受け、粽のようなものを受け取るなどしていたら、軽やかな馬蹄の音が近づいてくる。


方師兄ほうしけい風先生ふうせんせい燭陰ヂュインの位置がわかりましたよ」

 ベネディクトだ。一度は聖傑洋行せいけつようこうに戻った彼だが、商会の諸事を総買弁に指示した後、手伝えることはないかと顔を出した。


 いつもなら天籟てんらいが止めるところだが、あいにく彼は金蓮や雅文と共に県城内にいる。遠慮のない雲雕は、ベネディクトに小慈を付けて市内の様子を探らせていたのだった。


老北門ラオベイメン付近から出現、公館馬路ゴングァンマールーに出てから西に進路を取りました。おそらく大世界ダスカ付近で遭遇するかと」

「よし。徐陶鈞が現れたら知らせろ。後は俺と風生が引き受ける。お前たちは県城に入り込む嫦鬼をなるべく減らすんだ」


 雲雕の指示に香幇員たちが頷くと、さっと馬上の人となった。野分と雲雕もそれぞれ小者から手綱を受け取ると鞍に跨がり、馬首をめぐらせて大新街ダーシンジェを南へと下った。


 馬蹄を響かせ、四馬路スーマールーとの交差点を過ぎる。いつもなら窮屈さを覚えるほど人が多く、夜になっても往来が絶えない通りが広く感じ、いささか寂しいほどだ。


 大世界の塔屋が間近に迫ったとき、あの臭気が野分の鼻孔をつく。腐乱した果実のような橘香と、潮の生臭さが綯い交ぜになって、胸が悪くなる。


 ふと視界の端を黒い影がよぎり、巨大な物が動く気配が迫る。ずるずると地を這う音が、否応なく不快感と悍ましさを喚起する。

 常葉はかつて生園衆しょうおんしゅうをして『頭のないままでかくなった』と例えたことがあったが、野分にはそれがあの燭陰のことに思えてならなかった。


 敏体尼蔭路ミンティニーインルー法大馬路ファダーマールーの交差点付近に差しかかったところで燭陰が姿を現した。

 燭陰は野分たちの存在に気付いたのか、その場で立ち止まると、何かを探すようにその平べったく丸い頭をめぐらせる。が、その場で何度も回ったかと思えば、突然道なりに蛇行したり、と無軌道な動きを繰り返す。


 よく見るとその巨体のあちこちがすりむけて、生白い肉が見えている。燭陰のやってきたほうをちらと覗くと壁の一部が崩れ、街灯がひしゃげていた。身体が急激に大きくなったせいで距離感をつかめず、持て余しているのかもしれない。


 その燭陰に追従するように、数多の影が集まり、野分たちの足元をすくった。怯えて暴れる馬をなんとか宥めているうちにも、次から次へと嫦鬼がやってきて、燭陰に取りすがるように手を伸ばす。


 燭陰は邪魔な羽虫を追い払うよう、尾を振り回し影を喰らう。そうして再び、法大馬路を引き返していった。


「なんだありゃ?」

 雲雕が肩透かしを食らったように頭をかいた。

「俺たちのことなんかまるで眼中にねえって風情だな」

 それどころか、野分の目には燭陰が嫦鬼に怯えて、逃げ回っているように映った。


「――方師兄、来ましたぜ!」

 取り残された一行が、燭陰を追うことも忘れていると、小慈の鋭い声が飛んだ。この闇夜の中でも小慈の目はよく利く。小慈の指し示した方向に一際大きな猩猩しょうじょうの影があった。


 ふらふらと酔っ払ったかのような足取りの猩猩と視線がかち合った瞬間、猩猩が歯をむき出しにして雄叫びを上げた。


 馬上から滑り降りた野分は、崔良と古星を呼ぶ。

「お前たちも香幇員について、燭陰を追え」

 崔良は空馬の手綱を取ると「好的はい」と応え、古星と共にその場を去った。


「僕と小慈は一足先に県城へ向かいます。ご武運を」

「方師兄ともども、無茶せんでくださいよ」

「ああ」

 野分が軽く手を上げて応じると、ベネディクトは馬上から丁寧に頭を下げ、東へと向かった。


「よお、また会えたな」

 巨躯の猩猩――徐陶鈞は身体を左右に揺らし、そのたびに不揃いの長い腕も柳のように揺れた。ゆっくりと身構えたその右手の鉤爪は数が減っていた。


「大したものだな。まだ話せるのか」

 野分は『白露』の鞘を払う。県署での様子から、すでに人としての理性を失っているだろうと思っていた。


「腕の借りを返してもらうぜ!」

「徐師兄!」

 躍りかかってくる徐陶鈞の前に雲雕が飛び出した。振りかぶった右の鉤爪を大刀の柄で受け止め、躱す。徐陶鈞がすかさず身をよじって繰り出した蹴りを、雲雕がすんでのところで避けた。


 身をかがめた体勢から大刀を薙ぎ払うも、徐陶鈞は後ろに飛んで空振りに終わった。着地時に軽く手をついたのを見て、片足を損傷していることを思い出したが、それでもなお互角だった。


 雲雕は大刀を構え直し、野分は攻勢の機会を伺う。徐陶鈞もまたこちらの出方を探って、じりじりと距離を測る。

 果たしてどちらが先だったか。野分が踏み込むと同時に徐陶鈞も動いた。


 長さの足りない左腕を鞭のように振り下ろしてくる。あっさりと避けるとすぐさま右腕の攻撃。ぐん、と腕が伸びたような錯覚にひやりとした。眼前を鉤爪の先が過ぎる。少しでも遅れていたら目をえぐられていた。


 立て続けの攻撃で野分は防戦一方だ。飛んでくる鉤爪を避け、白露の刃で受け流すと火花が散った。


 右腕の攻撃を押しのけて、体勢を崩そうとしたが、その前に徐陶鈞が飛び上がり、宙返りをしてのけた。軽業師が見せるような技だが、強烈な蹴りを食らわせてくる。


 なんとか後ろに避けて威力を削いだ。まともに受けていたらひとたまりもない。ただ、万全の状態の徐陶鈞相手だったら避けられていたかも怪しかった。


 続いて雲雕が繰り出した大刀を、徐陶鈞は難なく躱す。互いの手の内がわかっているからか、その動きは演武のようにも見える。


 ともに決定打が与えられずにいると、先ほどまで晴れ渡っていた空に雲が差しかかり、遠雷が聞こえてきた。かすかに雨の匂いがする。


「もう終わりか?」

 煽る徐陶鈞に雲雕は大刀を構え直しながら「まさか」と笑った。

「今のは小手調べですよ」

 徐陶鈞はにや、と笑うと地を蹴り、雲雕を狙う。素早さには徐陶鈞のほうに分がある。


 徐陶鈞が右爪を振りかぶり、そちらに意識を奪われた雲雕の腹に徐陶鈞の膝が吸い込まれる。雲雕はくぐもった声を吐き出した。

 強烈な一撃にも屈せず大刀を振るった雲雕も規格外だが、それを軽々と避けて顎を蹴り上げた徐陶鈞は人外のそれだ。


 くずおれそうになるのをぐっとこらえ、雲雕が大刀を突き出す。徐陶鈞は素早く反応したが、避けきれずに脇腹を裂いた。傷口から血しぶきの代わりに靄のような紅い糸が吹き出た。


 徐陶鈞が大きくよろめいたのを好機ととらえて、野分が飛び出す。あのやっかいな右腕を潰せば戦況は有利になるはずだ。勢いよく鞘を引く。刃先が閃光を描く。手応えはあった。だが――


「……!!」

 うなじのあたりが寒け立つ。そのときの自分がどう動いたのかわからない。気づけば背中を徐陶鈞の爪に抉られていた。おそらく、徐陶鈞に首を狙われたのを間一髪で免れたのだろう。


「風生、大丈夫か!?」

「……問題ない」

 痛みをこらえて応じる。首を抉られることに比べればどうということもない。


 雲が厚くなり、雨脚が強くなり始めた。夜目が利く方だという自負はあるが、長引けばそれだけ不利になる。

 刃の露を払い、鞘に収めると改めて徐陶鈞を見据える。左腕が更に短くなっている。右腕を失うよりはましだと判断したのだろうが、なんという執念か。


 しばし、にらみ合いが続いた後、次は雲雕から仕掛けた。すくい上げるような大刀の一閃は、雨粒の幕をはねのけて徐陶鈞の胸元を狙う。その攻撃を読んでいたかのように、徐陶鈞は余裕をもって避けた。


 二度、三度と追撃した後、雲雕が一息ついたのを見逃さず、徐陶鈞が右腕を振りかぶる。

 あわや、というところで雲雕は握っていた大刀を放り出し、徐陶鈞の右腕を取った。そのまま流れるように徐陶鈞の巨体を地面に叩きつけると、すかさず馬乗りになり、徐陶鈞を押さえつける。


「風生!」

 徐陶鈞の動きを止めるだけで手一杯の雲雕に代わって、野分が徐陶鈞の右手に白露の切っ先を突き立てる。徐陶鈞の絶叫が辺りに響き渡った。


 徐陶鈞は雲雕を振り落とそうともがくが、右腕の自由を奪われたことが効いたのか、次第に抵抗をやめた。


「……この期に及んで首も落とせねえとは、腑抜けたやつらだ」

 徐陶鈞は苦しげな呼気の合間に悪態をついた。

「情けをかけたつもりはない。効ける口があるうちに訊いておこうと思っただけだ」


「俺が誰に唆された、か? くだらねえ」

「吐くというなら、助けてやれるかもしれない。……確約はできないが」

 野分の提案に徐陶鈞は笑ったようだったが、途中から激しく咳き込んだ。湿った咳を繰り返し、苦しそうに吐いた唾はどす黒かった。


「徐師兄!」

「やめろ雲雕、気が滅入る……」

 うんざりと応じる徐陶鈞の声には力がなかった。


「簡単に言うな。元に戻れるわけがねえだろうが」

「やってみなければわからない」

「ずいぶんと都合の良い話があったもんだ」

「このままだと死ぬことくらいはわかるだろう。その前に試してみる価値はある」

 金蓮の血を使えば、少なくとも人の姿を取り戻すことは可能なはずだ。だが、野分の説得に徐陶鈞は黙り込むだけだった。


「徐師兄、頼む。むざむざ死なせたくないんだ」

 雲雕の懇願には心を動かされたようで、表情のわかりにくい徐陶鈞の顔にはっきりと逡巡が浮かんだ。


「……わかったよ」

 長い沈黙ののち、徐陶鈞はかつての弟分の言い分を受け入れた。

「ひとまず、どけ。邪魔だ」

 徐陶鈞の心が変わらぬうちに、と雲雕は立ち上がった。徐陶鈞が荒い呼吸を繰り返しながら、刃先が食い込んだ右手をちらりと見た。


「――雲雕、お前は人がよすぎる」

 にわかに、徐陶鈞の右腕に力が入る。

「……っ!」

 野分は白露の柄を握る手に力を込めた。だが、徐陶鈞の動きにためらいはなかった。ぶちぶちと繊維がちぎれる嫌な音を立てながら、力任せに右手の自由を取り戻すと、辛うじて残っていた爪で自らの首を掻き切った。


「徐師兄‼」

 引き留める暇もなかった。徐陶鈞はあっけなく絶命し、動かなくなる。


 野分と雲雕はしばらく口もきけなかった。骸となった徐陶鈞の身体が雨に浚われ、消えてゆくのをただ見送るより他なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る