第35話 橘の呪縛

 上海市内を巨躯の怪物が這い回っている。

 県城を巣穴と定めた怪物は、昼はその中で息を潜めて眠り、夜になると城壁から這い出て嫦鬼チャングイを貪り喰う。


 その身体は日毎に肥大し、そのうち、上海市そのものを飲み込んでしまうかもしれない。人々はこれを燭陰ヂュインと呼び、恐れた。


 かつて県城から追い出された南市ナンシーの住民は、さらに外側の共同租界へと逃げ込んだ。南市に複数の加療院を抱える聖傑洋行も対応に追われ、ベネディクトは崔良と古星、そして天籟を連絡役に置いて、早々に資生茶館を後にした。


「おそらく、あれは人の手に余る。祓うのはわしにしかできまい」

 一昼夜眠りこけていた金蓮はまだ眠そうな瞼をこすりながら、はっきりと言い切った。


「しかし……わしの術は直に触れねば意味がない。あのような巨大な生き物を捕らえることができるものかの?」

 金蓮は雅文がもんから渡された熱い白湯を冷ましながら首を傾げる。


「決行するなら数日中だ。放置すればするほど対処が難しくなる」

「だが、県城周辺は日本軍が封鎖している。昼日中に訪ねていって、どうぞと入れてくれるとは思えない」

「確かになあ。張道士、何とかならないか? 山梔花園の時みたいによ」

「方法がないとは言いませんが……」

 雲雕に水を向けられた天籟は考えるように顎に手を添える。


「さすが張道士、現代の呂洞賓りょどうひん

 雲雕に煽てられた天籟は、だが、その若さに見合わぬ冷静さで首を振った。


「あまりご期待なさらぬよう。本来なら、ひと月はかかる呪法です。簡略的なものでどれほどの効力があるのか測りかねます」

「なにも倒せとは申さぬ。世の不浄を祓うは我が業よ。任せるがよい」

 金蓮が薄い胸を張り、ひらひらと手を振った。ともすれば高慢な態度だが、実績がある分説得力はあった。


「準備に数日いただきます。場所は被害が及ばぬよう、なるべく広く、人目につかない所が望ましいのですが」

「県城くらいしか、ないわよね……」

 今まで黙っていた雅文が独り言のようにつぶやいた。


「そうだな。今、県城内はがら空きだ。万が一のことがあっても被害を最小限にできる」

 野分が頷けば、雲雕はよし、と手を叩いた。

「張道士の準備が終わり次第、作戦に入る。それまでは自由行動ってことで」

 その台詞でお開きとなった。ほどなくして、雲雕の元に小者がやってきて来客を告げた。


「一体誰だ?」

「馬漢堂の葉建ようけんと名乗ってました。こちらに風生ふうせいという男はいないかと」

「葉建?」

 首を傾げる雲雕の横で、野分が反応した。


「風生の知り合いか?」

「ああ。悪いが少し席を外す」

「気にすんな。大したもてなしはできねえが、席くらいはあるさ」

 そうして資生茶館の一角を借りて対面した馬漢堂の葉建こと、常葉は野分の顔を見るなりおお、と手を上げた。


「お疲れんとこ悪いなあ。探すん苦労したんやでえ」

「すいません。常葉さん、まだ上海におらはったんですね」

「馬漢堂はのうなっても仕事あるんや。せやけどあないおかしなもん出てきたら、そろそろ上海でようかいう気ぃにもなるわ」

 常葉は大げさにため息をついてみせる。彼のいまいち真剣味の欠ける話し方に懐かしささえ覚えた。


「常葉さん、なんかあったんですか?」

「わしは伝言頼まれただけの使いっ走りや。『報告に来い』やと」

 常葉は肝心の『誰が』を口にしなかったが、その台詞を言いそうな人物には心当たりがある。


「……今からですか?」

「はよ済ませたほうがええやろ? 案内したる」

 性急だとは思ったが、常葉の言にも一理ある。野分は雲雕に出かける旨を伝え、常葉と共に資生茶館を出た。


 金蓮を連れて行くべきか迷ったが、道中嫦鬼に遭遇しないとも限らない。資生茶館に置いておくほうがいくらか安全だろう。


 常葉に連れられ、十数分。南京路に平行する細い香粉弄シャンフェンロンにその店はあった。


 すっかり色あせた扁額には『魚腸房ぎょちょうぼう』と記されている。外見を裏切らない古ぼけた店だった。

 壁には一昔前の映画のポスターがまばらに張られており、脂にまみれて茶色くくすんでいた。昼時だというのに、客は狭い店の隅に座っていた男ひとりだけだった。


「恩田少佐、つれて参りました」

 常葉がそう呼びかけると恩田は鷹揚に頷く。

「ご苦労」

 恩田はいつもの軍服姿だった。野分が恩田に敬礼すると、一瞬面食らったような表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻った。


「座りたまえ」

 恩田に席を勧められ、野分は恐る恐る対面に座る。

「ほな、わしはこの辺で」

 常葉はわざとらしく拱手すると、早々に店を出て行った。


 残された野分はなんとなく落ち着かず、軍刀の柄頭の感触を確かめた。恩田はその様子を眺めながら、眉一つ動かさずに告げる。

「何故、私に報告に来なかった?」

 恩田の平静な口調に、冷や水を浴びせられたかのように緊張する。言い訳がいくつも脳裏を巡ったものの、上手く取り繕える気がしなかった。


「……少佐を信用するべきかを迷いました」

 野分の回答を吟味するような間があった。やがて、ふっと恩田が息を吐く。

「常に疑い、警戒する慎重さがあるのはいいことだ」

 恩田が店の奥に声をかけると、のそのそと老爺が出てきた。


 茶と点心を頼むと、老爺はうっとおしそうに頷き、背を向けた。恩田は老爺の不躾な態度を気にした風もなく、野分に向き直る。


「今日呼んだのは……生園衆しょうおんしゅうの一人として、貴君に話さなければならないと思ったからだ。神樹計画について」

「軍服を着て、ですか」

 皮肉のつもりはなかった。あまりに不用心だとは思ったが。その考えが顔に出ていたのか、恩田はうっすらと笑った。


「仕方あるまい。私は軍人で、生園衆の『足』となることを期待されたからな。……一服良いか?」

 野分が頷くと、恩田は慣れた手つきでマッチを摺り、バットを美味そうに吸う。その姿は、驚くほどくだけた人物に見えた。恩田はゆっくりと一本目を吸い終えると、にわかに口を開いた。


「仁保里の古参は焦っていた。蚕女が上手く育たず『橘』の輩出は年々滞る一方。『橘』を絶やさぬため第二第三の仁保里を、と帝に奏上したのを皮切りに、各地で植樹が試みられた」

「……その計画は、今どうなっているのですか?」

「白紙に戻った。楠木大将の一存でな」

 恩田は二本目に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出してから続ける。


「楠木大将は仁保里の実態を知り、蚕女そのものを本邦から排除すべきだと仰った。だが、今上の不死性を担保しているのは蚕女の存在そのもの。閣下は玉体を損なう国賊との声も多い」

「仁保里の繭の紛失は、楠木大将の指示で?」


「いや。楠木閣下の動きを警戒した生園衆の保守派が、先んじて貴君との仮祝言を挙げさせた。繭の在所を移す途中、何らかの邪魔が入り、徐陶鈞じょとうきんの手に渡った。経緯については目下捜査中だ」

「そこまでつかんでいながら、なぜわざわざおれに繭を探せなどと命じたのですか」

「都合がよかったからだ」

 恩田が声を低くする。


「聟花は橘氏の嫡男のみ。富士風穴に蚕女の代わりはあれど、聟花なしでは意味がない。聟花の系譜が絶えれば、自然と蚕女も消えるというもの」

 野分は先日の金蓮とのやり取りで覚えた怖気を思いだす。蚕女がなぜ足の弱い女なのか考えたことはあるか、と問われたときの、ひやりとした感触を。


「もとより上海は情勢不安定だ。蚕女を探す聟花が、不慮の事故で亡くなったとて、さほど不自然ではあるまい」

 野分は素早く軍刀に手を添えた。それを見た恩田は薄く笑う。


「そう構えるな。心配せずとも、私が貴君の心臓を撃つより、貴君が私の首を撥ねるほうが早い。私の射撃の腕は、自慢できるほどではないから」

 恩田の声に自嘲が滲む。野分がゆっくりと柄から手を離すのを見て取ると、話を続けた。


「生園衆とて一枚岩ではない。貴君の性急な排除をよしとせぬ者もある。赤間長官がそうだが、いずれ消滅することを目的としている点では相違ない」

 恩田は素っ気なく言い捨て、煙を吐く。濃いラムの香りがした。


(ああ……これか)

 ――もう疲れたんだ。

 そう漏らした橘野火の、長年の鬱屈にようやく思い至った。


 己の意思だと信じていた選択が、自分の知らないあまたの誰かの都合と駆け引きの結果選ばされただけ。それがこの先一生続くのだと悟ったら、逃げ出したくもなるだろう。


 橘の呪縛は野分をも縛っている。上海赴任も、飯田商店に預けられたことも生園衆の思惑の内にあった。それと知らされぬままに。


 会話の切れ間を見計らったかのように店主が注文の品を持ってきた。些末な茶器と縁の欠けた皿に盛った小吃をいくつか、使い込んだ蒸籠二つを無造作に置くと、さっさと奥へと引っ込んだ。


 恩田は手ずから香片かへん茶を注いでこちらに寄越してくる。唖然とする野分をよそに、恩田は蒸籠の蓋を取り、食事を始めた。


「遠慮するな。食えるときに食っておけ」

「……はい」

 野分はしばらく食事に専念することにした。事実空腹だったのでありがたくはある。この際、どんな出来であろうとかまわなかったが、想定に反して湯気と共に美味そうな香りが広がった。


 ふっくらと蒸した饅頭、蝦餃は薄い皮からその桜色が透けて輝いて見えた。上海発祥だという小籠包は蟹の風味が効いている。小皿で供された大根餅、春巻、葱餅、いずれも劣らぬ美味で、軍の粗食に馴れきっている身には毒なほど贅沢な晩餐だった。


「上海ではこの店が一番だ」

 締めの粥を腹に収めたのち、恩田が珍しく満足そうに笑った。野分をここへ呼んだのは人目につかないからだと思っていたが、単に食事を楽しみたかっただけなのかもしれなかった。


 恩田が食後の一服をしながら、懐から封書を差し出す。野分は封書を受け取り、内容を読むなり息を呑んだ。


「飯田伍長。貴官は無事に任務を果たしたがあえなく凶弾に倒れて殉職、二階級特進だ。ご家族に貴君を偲べるよう、遺髪を用意するかね?」

 恩田のからかいにも、野分はしばらく物が言えなかった。


「こんなものが事前に用意される程度には貴君の暗殺は計画的だった。詰めが甘い計画だがな」

「全く気がつきませんでした」

 到着早々市内で付け狙われたが、あれは本当に崔良と古星だったのだろうか。もしかすると別口だったのかもしれない。


「我が連隊にも貴君を狙う人間はいたのだがな。眼中にも入れんとは情けない。山梔花園の襲撃はまたとない機会だったというのにふいにした」

「はあ……」

 当の標的に向かって話すようなことではないはずだが、あけすけな恩田の物言いは不思議と小気味よかった。


「恩田少佐はあの場に私がいたことをご存じだったのですか」

 山梔花園では変装をしていたし、あの混乱ではばれまいと高を括っていたのだが。

「貴君がいると分かったから乗り込んだようなものだ。……怪訝な顔をしているな。どこから嗅ぎつけたのかと考えているのか?」

「ええ、はい。そうです」

 今日の恩田はいやに饒舌だ。心なしか機嫌がよさそうでもある。


「『目』をもっているのは何も常葉殿だけではない。貴君は一時期、李家天主堂に匿われていただろう」

「!」

 そのことを知っている人間はそう多くない。


 咄嗟に浮かんだのは小慈だが、彼に恩田とのつながりがあるなら県署を出るのは容易だっただろう。ベネディクトも独自の情報網を持っているようだが、生園衆との繋がりは薄い。となると可能性があるのは――


「崔良か古星か、もしくは二人とも少佐の『目』……?」

 恩田は肯定しなかったが否定もしなかった。ただ、ゆっくりと煙を吹かすだけだ。


「このようなことを私に漏らしていいのですか? どなたからか許可を?」

「私用でここを訪ねたら、偶然貴君と会っただけだ」

 つまり恩田の独断ということだ。


 目を丸くした野分に、恩田は軽く口の端を持ち上げたが、すぐに難しい顔になる。彼が咥えた煙草から立ち上る煙が複雑にゆらめく。そこに彼自身の迷いが混ざっているように見えた。


「……私は、逃げればいいと思ったのだ。橘野火のように」

 長い沈黙ののち、恩田が漏らしたのは意外な台詞だった。

「貴君の進退ついては私の関与するところではない。『あれ』は我々が責任をもって処理する」

 それが恩田なりの背中の押し方なのだとわかった。


「今すぐには決めかねます」

 封書を恩田に突き返すと、彼はそうか、とすんなりと懐にしまい込んだ。

「恩田少佐、燭陰ヂュインは蚕女にしか祓えないそうです。県城をお借りできますか?」

「借りるも何も、我々の物ではないからな。県城で何が行われようと我々とは無関係だ」

 それにしても、と恩田は小さく笑った。


燭陰ヂュインか……まあ、女媧と呼ぶよりは相応しい。似ても似つかぬ偽物だしな」

「まさかとは思いますが、あれも蚕女なのですか?」


「なりそこないだ。仁保里の連中は神樹計画の立案前から、里の存続に躍起になっていたようだが、よりによって富士風穴の赤蚕を大陸に流していた。保身のためならなりふり構わぬ姿には眩暈がする……生園衆などというものは、さっさと消えたほうが世のためだ」


 ついさっき野分を逃がそうとした人間の言葉とも思えなかったが、憤りを隠せないところを見ると、こちらのほうが本音なのかもしれない。


 恩田は半分になったバットを、いささか荒っぽい仕草で消すと立ち上がる。慌てて懐を探った野分を押し留め、支払いを終えると店を出て行った。


 まだ茶器に残っていた香片茶を飲み干し、野分も店を出る。静まりかえった通りの左右に目を向けたが、とうに恩田の姿は消えていた。


 ――あなたはどうぞ、あなたの責務を果たして下さい。

 ふと、劉清穆りゅうせいぼくの声が蘇る。野分の責務とは何なのだろうか。何をどうすれば果たしたことになるのだろうか。


 野分は細く、薄暗く、複雑に入り組んだ道を踏みしめ、資生茶館へと足を向けた。

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