第34話 再会

雅文がもん! 無事だったんだね!」

 資生茶館に戻ると、香琳が駆け寄ってきて雅文を抱きしめた。

「……うん、ただいま」

 ひとしきり再会を喜んだのち、香琳は「こうしちゃいられない!」と叫んだ。


「市内を得体の知れない化け物が暴れてるってんで大騒ぎだよ! 恐ろしくでかくて不気味な蜈蚣むかでみたいな……!」

「やっぱり、県城から逃げていたか」


 金蓮が異形の少女を祓ったあとの県署は静かなものだった。日本軍の姿はなく、『蜈蚣』の気配も消えていた。猩猩の行方も見失った一行は、ひとまず資生茶館に戻ることにしたのだった。


「『蜈蚣あれ』を退治するには、軍の力を借りるより他ないだろう」

 口火を切ったのは野分だ。彼の腕の中には金蓮が収まっている。県署を出た後、急に眠ってしまった。先ほどの術で体力を消耗したらしい。


「その通りですが、そもそもあれに対処する義務はないでしょう。特に、香幇シャンパンには」

「李先生、ちょっと」

 ベネディクトの淡泊な態度に雅文のほうが慌てたが、野分は「貴兄の仰るとおりだ」とあっさり認めてしまった。


「本来ならあれは恩田少佐が処分すべきだった。それは恩田少佐自身がよくわかっているはずだ」

 だから、と野分は続ける。


「おれはそろそろ本来の場所に戻る。花仙姑かせんこも上海を離れると聞いたが……」

「そうなの!?」

 雅文が香琳に目を向けると、母は頷いた。


「もしかして、あたしが余計なことをしたから……?」

 好奇心で徐陶鈞の荷を――金蓮を持ち出したことが全ての始まりだった。あの一件がなければこうはならなかったのではないか。


「それは違う」

 真っ先に否定したのは、意外にも風生ふうせいだった。雅文はもちろん、他の面々まで驚いたように彼を見た。


「朱小姐シャオジエが金蓮を……おれの妻を救った。そうでなければ今頃どうなっていたのかわからない。感謝こそすれ、責めるなどありえない」

「一言相談があってもよかったとは思うけどね」

「う……これからは気をつけます」

 香琳に釘を刺されて小さくなる雅文を見た雲雕が笑い、その場の空気がふっと緩んだ。


「上海を離れるのは、蒋同志が共産党員のデモ鎮圧に兵を出しそうだからさ。金華茶楼を手放すのは惜しいけど、背に腹は代えられないからね」

 蒋介石による清党の意思は堅い。香琳は以前から劉大人と示し合わせて、財産を杭州や香港の拠点に移していたという。


「とはいえ、今日明日いきなりやってくるわけじゃないだろ?」

 声を上げた人物を見て、香琳は呆れた様に首を振った。

「雲雕……まだ徐陶鈞じょとうきんを追うつもりかい?」


「ああ。できることはしておきてえんだ。でねえと一生後悔しそうでさ。風生にゃ悪いが、もう少しつき合ってくれると助かる」

「おれは構わないが、どう探す?」

 それなんだが、と雲雕は指を立てて見せた。


「最近の嫦鬼の動きは変だ。今まではそんなことなかったのに、何かに操られているように見える。といっても、連中の知能では指揮官なんてわかっちゃいないだろう。例外は徐師兄じょしけいだが、あんなのがほいほいいてたまるか」

「県署では前より反応が落ちていた。時間経過とともに鈍るのかもしれない」

 風生の指摘に今更ながらぞっとする。あれでも最初よりましだなんて。


「だな。だから徐師兄が操っているわけではない。とすると、もっと別の物に反応していると考えるべきだ。たとえば……匂い」

 雲雕は自身が帯に下げている香球を軽く振った。香燈会はこれまで香球を使って嫦鬼をある程度誘導することに成功している。


「連中、法租界でも目的があるかのような動きをした。県城でもそうだ。法租界で狙われていたのはそこの公主で、その公主は県署にいた娘を姉だという。無関係であるはずがない」

 だんだん表情が険しくなっていく風生を見て、雲雕が慌てたように手を振った。


「おっと、この件に関して追及する気はねえぜ。面倒ごとはごりごりなんだ」

「今でも十分関わっているが……」

「言ってくれるな。まあ乗りかかった船ってやつだ。降りるには遅すぎる。まあとにかく、『蜈蚣』のいるところに徐師兄もやってくるはずだ」


「口で言うのは簡単だけど……」

 雅文はちらりと眠りこける金蓮に目を向けた。かつて徐陶鈞を釣り上げるために環龍路ファンロンルーの屋敷で撒いた餌は、金蓮の存在そのものだった。まさかまた同じことを繰り返すのだろうか。


「ひとまず、今日のところは休んだらどうだい? 疲れてちゃ頭も働かないだろ?」

 その香琳の一言で、話し合いは切り上げることになった。集まっていた面々が三々五々散っていく中、香琳がそばにやってきた。


「蔡老もこっちに来てる。後で顔出してやりな」

「うん」

 蔡栄が雅文の安否を気にしていることは聞いていた。今は厨房で香幇員の食事はもちろん、避難した人々や怪我人のために粥を作っているということだった。


 香琳に疲れただろう、と座るように言われて、雅文は今更ながら体力が限界であることに気づく。数日拘束された上に、県署を走り回らされたのだ。一歩でも動くのが億劫に感じられた。


「……ねえ媽媽かあさん。金華茶楼、閉めちゃうの?」

 本音を言えば、上海を出たくなかった。雅文は上海で育ち、いずれ茶楼を継ぐつもりでいたのだ。上海こそが自分の居場所だと信じて疑ったことなどなかった。


「あたしは……あんたが連れ去られて生きた心地がしなかった」

「……」

「金華茶楼のことは惜しいけど、あんたをこのまま上海に置いておくなんてあたしにはできないよ……」


 いつもの威勢がなくなって背を丸める香琳は、急に老けたように見えた。寂しさやら申し訳なさがない交ぜになって、言葉を失う雅文に気づいたのか、香琳は明るく笑った。


「茶楼なら他の場所でも続けられる。落ち着いたら上海に戻ればいいんだ。なに、少しの間さ」

「そう……だよね。いつか、戻れるよね」

「もちろんさ」

 香琳が力強く頷くのを見て、ようやく雅文の顔にも笑みが浮かんだ。


「――花仙姑、朱小姐」

 呼びかけてきたのはベネディクトだった。

「もしよろしければ、金華茶楼は僕が預かりましょうか?」

 唐突な申し出に雅文と香琳は顔を合わせる。


「僕はこのまま上海に留まります。香幇が不在の間、管理するくらいはできますから」

 聖傑洋行ほどの大商会の御曹司ともなると、軽々に上海を離れるわけにはいかないのだろう。


「李先生の厚意はありがたいけど……どうする?」

 香琳の目配せを受けて、雅文は戸惑った。あたしが決めてもいいの?

「そりゃあ、誰かの手に渡っちゃうのは嫌だけど、李先生にそこまでしてもらう理由もないし……」


「僕は金華茶楼にはずいぶん世話になりました。あそこは居心地がよかった。上海に戻ってきたら再開してください」

李少爺リーシャオイェは注文の多い客だったからなあ。どうしようかな?」

 雅文がからかうと、ベネディクトはおかしそうに笑った。


「次はなるべく迷惑をかけないようにしますから、お願いします」

「そこまで言われちゃ断れないわね」

「決まりだね。正式な書面は後日取り交わすとして、まずは『蜈蚣』の対処方法を考えよう」


好来不如好去発つ鳥後を濁さずってやつだね。あんなのに街をめちゃくちゃにされちゃあ気分が悪い。とはいえ、今日はもうくたくただ。難しいことは明日にしよう」

「うん。早く蔡老のご飯が食べたい。やっぱり美味しいもん」

「蔡老に言ってやんな。今ならあんたのために満漢全席を用意するよ」

 香琳の軽口に雅文は笑い、厨房へと足を向けた。

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