第33話 地下の異形

「二人とも、伏せろ!」


 馴染みのある声と銃声はほぼ同時だった。雅文がもんはすぐさま床に伏せ、両手で頭を守ると、風を切る音が頭上を越え、猩猩しょうじょうに向かっていくのがわかった。


 猩猩はその場でくずおれるが、肩が上下している。まだ息絶えていない。動けずにいる雅文のそばを複数の足音が駆け抜ける。その見覚えのある背中を見て、全身の力が抜けるほど安堵した。


「朱小姐シャオジエ、無事でよかった」

 雅文のそばに膝をついたのはベネディクトだ。こんな血なまぐさい場所で彼の美貌を見ると、天使と言われても信じてしまうだろうな、とつい余計なことを考えた。


「遅くなって悪かったね。もう、大丈夫だよ」

 膝を突いて、目線を合わせて、ベネディクトは笑う。堰を切って溢れそうになる涙をごまかすために首を振った。


「怪我でもした?」

 首を振ったのを勘違いしたのか、ベネディクトの心配そうな声が降ってくる。

「びっくりして、腰が抜けちゃっただけ。急に、色んな事が起きるし……」

「手を貸しましょうか、お嬢さん?」

 こんな時でもいちいち許可を取るのが彼らしい。親切なのか嫌がらせなのか分からない。でも、少し意地が悪いくらいでちょうど良いとも思う。


「うん。お願い」

 まさか諾の返事が来ると思ってなかったのか、ベネディクトはちょっと驚いていた。泥だらけの手を躊躇いなく握る力強さは、雅文が求めていた安心感に他ならない。

 立ち上がるのにふらつく身体をベネディクトが支えてくれた。


「おぬし、なかなか図太いのう」

 見覚えのない若い男に抱きかかえられてやってきたのは金蓮だ。

「減らず口は相変わらずね」

 雅文の返しに金蓮はふふん、と顎をそらせて笑う。そのいつも通りの仕草につられて、ようやく雅文の顔に笑みが浮かんだ。


「――くそっ、逃げられた!」

 しばらくして、悪態をついて戻ってきたのは雲雕と風生だ。

「逃げられた、とは先ほどの猩猩ですか?」

「ああ、恐ろしくしぶとい。しかも動きに見覚えがある」


 ベネディクトの問いに答えたのは風生だ。彼は刀を鞘に戻すとこちらに目を向けた。言葉はなくとも、その表情からは安堵がにじみ出ていた。険が取れると、意外なほど優しげに見える。


「猩猩だけじゃねえ、もっとおっかねえ化け物がここにいますぜ」

 口を挟んだのは小慈だ。擦りむいたのか腕をさすっているが、大した怪我はないようだ。


「ああ、さっき俺たちも見た。県署の中にいるのか」

「うん。でも恩田って人が逃がしてくれて……それからどうなったかわからないんだけど」

 恩田の名が出た瞬間、風生の顔がかすかに曇った。やはり、知り合いなのだろうか。


「ここで立ち話は危険だ。李先生は朱小姐を連れて県城を出たほうがいい。おれと方師兄は猩猩を追う」

「――のう、野分よ」

「なんだ」

 金蓮の唐突な呼びかけに風生が顔をしかめたが、少女はお構いないしにうーん、と唸る。


「泣き声……かの? むこうの方から聞こえてくる」

 と東棟のほうを指さす。風生が不審そうに眉根を寄せたが、一応聞き耳を立てる。

「案内せよ」

「そんな暇はない」

 風生がすかざす制止する。彼の言葉ももっともである。いくら手勢が増えたといっても、あの化け物と対峙するにはあまりにも心許ない。


「頼む。わしはその者を救わねばならぬ」

 それでもなお金蓮は食い下がる。珍しく真剣な懇願だった。無下にできないと思ったのか、風生は苦虫を噛みつぶしたような顔をしつつも承諾した。


 一行は東棟に向かった。東棟に続く扉は閉ざされていたが、野分が押すと案外あっけなく開いた。兵がいないことを確認し、東棟の中へと滑り込む。


 中は予想に反して明るかった。東棟は講堂のような建物で、何故か真ん中に白砂の庭があるのだった。

(なんで県署の中に庭が?)

 驚きと共に見渡すと、雅文の足が竦んだ。


 空間の中央に一本の紅い木が立っていた。高さは凡そ二丈ほど。葉や実の類いはなく、枯れ木のように見えるが、細く頼りない枝を懸命に広げているさまは生への歪な執着を匂わせた。


 その木の幹の中央、半ば埋もれるようにして白い少女の上半身があった。しゃくりあげる少女の顔立ちは年の頃十四、五で、驚くほど金蓮に似ていた。

 人の気配を察した少女は雅文たちの姿を捉えるなり、甲高く鳴いた。見開いた瞳は真っ黒で、異様な大きさの瞳孔が爬虫類の目に似ている。


 少女は懸命に鳴きながら細い腕を伸ばす。哀願するような響きに心が痛んだが、雅文にはどうすることもできない。


 少女の下腹部は大きく裂け、鮮血にまみれた生々しい腸が、引きちぎられたかのように垂れている。彼女の腹の下からすんなりとした伸びる白い大腿が、人の原型を留めている最後の箇所で、膝から下は異形という他なかった。


 小さな膝の皿から下は、蛇腹のように伸縮する肉の管に繋がっている。木の根がそうであるように、複雑に絡み合いながらうねり、大地に根付いている様は、悍ましいという一言では到底足りない。


「……これは一体、何……」

 そう呟くのが精一杯で、舌の裏側から酸がじわりとにじみ出す。吐き気をやり過ごそうと口元を覆う雅文の肩を、ベネディクトの掌が労るようにさする。心なしか、彼の手も震えているように感じた。


「……無体なことをする」

 紅い木に埋もれた少女は、泣き腫らした目を金蓮に向けた。彼女の両目から止めどなく流れる涙と弱々しいすすり泣きは、その異形の姿をもってなお哀れに見えた。


 誰も動けずにいるなか、ただ一人金蓮だけが男に降ろすよう告げ、その素足が血に汚れるのも厭わずに少女に近づいていく。

「おい――」

 慌てたように引き留める風生に、金蓮が「寄るでない」とぴしゃりと告げる。


「ぬしを巻き込むのは不本意なのでな」

 金蓮はたどたどしい足取りで、凹凸の激しい場所をゆっくりと進む。途中、ずるりと足を滑らせたのを見て、雅文が素早く助けに入った。


「別に構わぬというに」

「見てらんないよ」

「おれが変わる」

 風生が申し出たが、雅文は少女を見やって迷った。


「……男の人はちょっと……あの子がかわいそうかも」

 下半身はともかく、上半身は年相応の少女の体つきで、一糸まとわぬ姿である。間近で異性の視線にさらされるのは忍びない。


「そうじゃな。ちと、男どもには遠慮してもらおう」

 金蓮にも雅文の意図が通じたらしく、はっきりと断られては引き下がるしかない。

「雲雕も李先生も、離れて、離れて」

 雅文に追い立てられて、渋々といった風情で離れていく面子を見送ってから、金蓮と共に少女の方へと歩み寄った。


 紅色の木は近くで見れば玉のような硬質な光沢を放っている。その中に半分埋まっている少女の腹は、思わず目を背けたくなるほどの惨状だった。


 破れた腹から溢れる血の奥から、新しい肉が盛り上がり、新しい桃色の断面を見せている。普通の人間だったらとうに死んでいるのに、この少女には死という救いすらなく、苦しみは終わることがないのだろう。


 雅文はたまらず、羽織っていた馬掛を脱ぐと、少女の身体を隠すように、首に手を回して袖を結んだ。苦しそうな少女の顔が、心なしか和らいだように見えたのは雅文の気のせいだろうか。


 隣で金蓮が精一杯背を伸ばして、少女に触れようとしているのに気づいて、雅文は金蓮を抱き上げる。


「長きに渡り囚わるるは屈辱であったろう。のう、姉君」

 同じ年頃、同じ顔立ちの少女が向き合う。金蓮に呼びかけられたやせっぽちの娘の目に、また新たな涙が浮かんだ。


 金蓮は懐から針を取り出し指をつく。血の珠が浮かぶ指先で、少女の頬に触れると、そこから金の炎がゆるりと立ち上る。

「今、楽にしてやろうほどに」

 琥珀に輝く炎は紅の木の全てを燃やし、地下の底を焦がす。


 やがて全てが炭化した中に、紅色の虫の遺骸だけが残った。金蓮は恭しく膝をつき、小さな遺骸を両の掌に包む。それを宝物のように懐に差し入れると、そっと胸を押さえた。

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