第32話 百鬼夜行

 資生茶館を出るなり、その騒々しさに野分のわきは瞠目する。


 大馬路ダ―マールーは圧倒されるほどの賑やかさから一転、パニックの様相を呈している。

 人々は怯えや恐怖を浮かべて往来を駆け回り、逆行してきた野分たちにぶつかって「邪魔だ!」と悪態をつく。


 ざっと見回しただけでも猩猩しょうじょうが三頭。犀渠さいきょ天犬てんけんの数もこれまでの比ではない。


「こいつあ……尋常じゃねえな」

 雲雕うんちょうの声も心なしか固い。常日頃、嫦鬼チャングイ退治に精を出し、対処に馴れている香幇員が泡を食って駆け込んでくるのも無理はない。


「大馬路に戦える奴らを集めろ。その際、なるべく嫦鬼をこちらに引き寄せるんだ。上海市民の避難は花仙姑が引き受けてくれるだろう」

 雲雕の命を受けて、腰に香球をつけた伝令が散った。


「まずは、ここを片付ける!」

 雲雕が大刀の柄を地面に打ち付けるのが合図になった。野分は金蓮を崔良と古星に任せ、そばを離れぬよう告げると、二人は心得たように頷いた。


 野分たちが襲い来る嫦鬼を片付けて、どれほど経ったか。波が引くように南京路の混乱が落ち着き始めた。ようやく一息ついた野分らの元に、雲雕の部下が当惑した様子で帰ってきた。


「誘導しようとしたんですが、上手くいきません」

 戻ってきた香幇員たちはそろって同じ報告をもたらした。曰く、嫦鬼は県城方面に向かっているという。


「県城だと? まずいな……」

 雲雕の顔が険しくなる。県署内に囚われている雅文がもんの救出が難しくなってしまう。


「仕方ねえ、俺たちも県城に向かう!」

 雲雕の判断は素早かった。馬を駆る者もいれば、店先に転がっていた自転車を拝借する者もいる。雲雕と野分は香幇員が用意したフォードに乗り込む。運転は崔良が請け負った。


 この騒ぎの中でも、共産党のピケ隊が巡捕房や、外資企業の店舗や工場を手当たり次第に壊して回っているのが目に入った。租界警察は嫦鬼だけでなくピケ隊を相手にせねばならず、あちこちで銃声と爆竹のけたたましい音が重なる。


 小競り合いのそばで怪我人がうずくまり、それを介抱する人々の中には銀の香球を腰に下げた香幇員もいた。逃げ惑う市民を近くの民家や店舗に避難させる者、果敢に暴動を止めようとする者が入り乱れていた。


「なんと惨い……」

 力ない声に振り向けば、金蓮は瞬きを忘れたようにじっと市内の様子を眺めていた。

「あまり見るな」

 年端のいかない少女にとっては刺激が強すぎる。野分の忠告を金蓮は頑なに拒絶したので、仕方なく好きにさせた。


 実のところ、胸の悪くなるようなすえた臭いに耐えるのが精一杯だった。呼吸した端から身内を穢されてしまうような気すらする。県城に近づくにつれて不快感は増していくばかりで、これまで乗り物酔いとは縁がなかったのに、車に揺られているだけで吐き気がしてきた。


「ずいぶん、具合が悪そうじゃの」

 いつの間にか金蓮がにじり寄ってきて、野分の額に手を伸ばした。金蓮の手は思いのほか冷たく、心地よかった。


 そうこうしているうちに、県城の偉容が眼前に迫る。高く築かれた壁の向こう、楼閣の反り返った飛宇ひうが、鎌のように薄暮の空を切り取っている。


 その県城の周囲は嫦鬼で溢れていた。

 市内に潜んでいた黒毛の猩猩、赤毛の天犬、青毛の犀渠……異形の化け物たちは野分らに興味を示さず、ふらふらと酔ったような足取りで県城へと歩を進める。さながら異界に巻き込まれてしまったかのようだ。


「何なんだ、一体……」

 めったなことで動揺しない雲雕も、喉が詰まったかのように続く言葉を失っている。


 不意に金蓮の両手が野分の腕を掴んだ。目線を向けると、金蓮は嫦鬼の群れをじっと見つめていた。その横顔には不安と恐れ、憐れみの色があった。


 なんとなくそうしたほうがいい、という直感に従って金蓮の手を握り返してやった。すると、少女は目を丸くして驚き、次いで嬉しそうに笑った。いつもの人を小馬鹿にするような様子がなかったことにむずがゆさを覚えたが、ずっと機嫌が悪いよりはましだ。


「一度、戻りますか?」

 ただならぬ様子に耐えかねたのか、崔良が控えめに提案する。雲雕が難しそうに唸ったそのとき、聞き覚えのある青年の声が、野分たちを呼び止めた。

「張道士?」

 天籟はいつもの黒の道服姿である。雅文救出のため、県署に潜入するはずではなかったか。


 何をしているのかという問いが口先に上るより先に、天籟が「しばらく、そのまま」と押し留めた。そして、すっと県城を囲む城壁の一点を指さした。


『それ』は、蜈蚣むかでのように見えた。

 細長い体躯に無数に生えた足が、城壁にぴたりと張り付いている。その赤錆色の体躯は薄闇の中でもぬらりとした光沢を放ち、何かしらの粘膜に覆われているのだとわかった。


 特筆すべきはその巨体で、城壁の高さから鑑みるに、ゆうに四、五間ほどある。その『蜈蚣』は巨躯に見合わぬ素早い動きで、城壁に群がる嫦鬼に大口を開けて食らいつく。


「――!?」

 しばし悲鳴と咀嚼音が響いたかと思うと、蜈蚣は瞬く間に城壁の内側へと姿を消した。呆然と見送るしかない野分たちに天籟が「参りましょう」と促す。


「お二方をお待ちしておりました。主公の元へお連れいたします」

 そう言って天籟が案内したのは、県城近くの天主カトリック教会だ。建物自体は古びていたが、中は思ったより整然としていた。


「説明もなしにすみません。一度見てもらったほうが早いかと思いまして」

 ベネディクトが野分たちを出迎えた。規則正しく床榻しょうとうが並べられているところを見るに、彼が所有している加療院なのだろうか。ベネディクトの他には武装した香幇員が数名おり、雲雕に対して拱手した。


「そりゃ、説明されても信じられねえが、見たところで現実とは思えねえよ」

 がしがしと頭をかく雲雕に、ベネディクトは「ですよねえ」と緊張感のない相づちを打った。


「貴公らはとっくに県城の中にいるものとばかり」

「いざ県城に乗り込もうとしたところで嫦鬼が集まり始めて……機を伺っていたらあの蜈蚣のご登場というわけです。城内で討伐が始まっているようです」


 県城の内側で篝火が焚かれているのか、空がほのかに赤く染まっているのが講堂の窓からも視認できる。下見に出向いた天籟も、城内の兵が嫦鬼と交戦しているのを目撃したという。


「小勢で人を連れ出すだけ、とはいかなくなってしまった。県城の門まで破られたとなると、いささか僕たちだけでは頼りない」

「アテにされてるみてえだが、頭数揃えたところでどうにかなるのかねえ?」

「露払いくらいにはなるだろう。それで、どうやって忍び込む?」


「南の跨龍門こりゅうもん付近はまだ手薄のようなのでそこから侵入します。ところで……」

 ベネディクトはそこで言葉を切って、一同を見回す。

「皆さんは当然、壁を登るくらいはできますよね?」


 ――ほどなくして一行は嫦鬼を避け、大回りで南へと向かう。案の定、跨龍門はぴたりと閉じられていた。

 天籟がすかさず城壁の女墻目がけて鉤縄を放り投げる。いとも簡単に引っかけたかと思うと、するすると壁の上まで上っていった。間を置かず、上から縄が降ってくる。


 先頭を走っていた野分が素早く縄を掴み、ぐっと引っ張る。確かな手応えを感じた野分は、縄を頼りに一気に壁を駆け上がった。他の面子も後に続く。最後に古星が金蓮を縄に結びつけるのを確認してから、慎重に引っ張り上げた。


 ほどいた縄を反対側に垂らし、同じ要領で県城内に入り込んだ。どう考えても無茶無謀な方法だったが、この程度で息を切らす者はいない。

 県城の内側は篝火が焚かれていたが、視界を確保できるほどではなかった。ところどころで日本兵と嫦鬼が交戦している気配がする。


 天籟が手招きするのに従って、身を低くしながら光啓南路グゥァンチーナンルーを北へ駆ける。彼らの行く手を猩猩が塞ぎ、それを認めた野分の腰の刀が鞘走る。

 こちらに気づいて威嚇する猩猩の口腔に、真っ直ぐ刃先を突き込み、左へ払う。

 仰け反った猩猩に蹴りを入れ、後ろに倒すとその左胸に躊躇いなく刃を突き立てて仕留めた。


風生ふうせいは相変わらず、無駄がない。惚れ惚れするぜ」

 雲雕が感嘆して言えば、金蓮が眉を顰める。

「殺してしまうことはなかろう」

「全ての嫦鬼を祓いたい、か? お前の血は無限やないのに」

 軍刀の露を払いながら、野分は淡々と応えた。


「祓えんのやったらせめて苦しまんようとどめをさすのが礼儀や。……おれにはそれくらいしかできん」

「でも」

 異を唱える金蓮と、文句があるのか、と睨みつける野分との間に流れる険悪さを感じ取ってか、ベネディクトが口を挟んだ。


「無駄な戦闘は避けるに越したことはありません。日本兵の目につきやすくなりますし、消耗は少ないほうがいい」

 ベネディクトの正論に両者は口を噤み、先を急いだ。


 戦闘を避けて小路を折れ、上海県署に近づく。ひとまず近くの書院に潜んで様子を伺うのとほぼ時を同じくして、県署内から銃声が響いた。一つや二つではない。中で戦闘が行われているようだった。


 真っ先に天籟が飛び出し、県署の入り口を探る。ややあって天籟の合図を受けた野分たちも県署の正門へとたどり着いた。

 そこで目の当たりにしたのは、凄惨な殺人現場だった。


「なんだこれは……」

「惨い。人の手……によるものではなさそうですね」

 死体はもはや人の形をなしていなかった。四肢が力任せに引きちぎられ、踏みつぶされていて、何人死んでいるのかもわからない。


 麻痺しそうなほど濃い血臭が漂う中、野分は別の香りをも嗅ぎ取っていた。――橘だ。

 そのとき、近くで銃声がした。野分はほとんどためらうことなく県署の中に踏み込んだ。

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