第31話 闇に棲む者
「連工局は仕事をしない、なんて言っていたけど、人がいないんじゃあ仕事のしようもないわね……」
抜け殻のような県署内を歩きながら、
上海県署は市行政の中枢だ。楼閣を備えた四階建ての庁舎で、東西二つの棟と連なっていてそこそこ広い。それなのに知県や道台はおろか、役人の一人も見当たらないのだ。
「やむを得んでしょう。こんなところに閉じ込められるなんざ、冗談じゃねえ」
怖い怖い、とおどけるように小慈が二の腕をさすった。いつも飄々としている彼の顔も強ばって見えた。
――さっきからずっと、足下が振動しているような気がする。
初めは地震かと思ったが違う。胎動や脈拍のように規則正しい振動だ。その振動に合わせて、道や壁がたわんで歪んでいるように感じる。まるで県署の庁舎そのものが呼吸をしているかのように。
今、雅文たちは県署の三階にいた。小慈が言うには最初に捕らわれていたのは四階の
「――おい!」
突然、鋭く声をかけられて、雅文の肩が大きく跳ねた。小慈が素早く雅文の腕を取り、手近な房室に逃げ込むと二人は身を屈めた。
「脱走した……。兵……足りない……すぐに……出せ!」
房室の外で日本兵たちが何事か言い交わしている。辛うじて聞き取れた単語から、雅文と小慈がいなくなったことに気づいたのかと思ったが、彼らの声にはもっと緊迫した事態が起きたことが窺えた。
足音が増えて、他の兵たちが集まったのだとわかった。上官が何事かを命じ、部下が「はっ」と応じて散っていく。
「何かあったのかしら……?」
「只事じゃあなさそうですね」
ややあって、また大勢の人間が移動する気配があった。会話の内容は相変わらず理解できないが、その中に恩田の声も混ざっていた。感情を一切悟らせない淡泊な声音にも、かすかに焦りが滲んでいる。
彼らは雅文と小慈が潜んだ房室の前を通り過ぎ、東棟のほうへと向かっていった。気配が遠ざかるのを待って小慈が立ち上がる。
「何が起きたかわかりませんが、県署を出るなら今です」
「う、うん」
慌てて続く雅文の耳が、奇妙な音を捉えた。
地面を這う、ずるり、という音。呼吸のような空気の振動音。始めは気のせいかと思ったが、小慈も怪訝そうに耳を澄ませている。
ずり、ずり、と何かを引きずって、移動している。まるで恩田の後をつけるかのように、こちらに近づいてくる気配がある――
緊張で息が詰まる。心臓が跳ねる。背中に嫌な汗が伝う。雅文たちが隠れる房室の前で、その気配は躊躇うように歩みを止め、雅文は息を殺す。
『それ』が立ち止まっていたのはほんの数秒に過ぎなかったが、雅文には永遠に感じられるほど長かった。やがてゆっくりと反転し、遠のいていく。そこでようやく呼吸を思い出し、長い息を吐いた。
「な……んだったんですかね……今の……」
心なしか青ざめた顔の小慈に、雅文は首を振った。まだどきどきする胸を押さえていると、恩田たちが戻ってきた。彼らは慌てた様子で房室の前を駆け抜けていく。
気配が絶えてから雅文と小慈が房室を出る。と、足下の通路が黒く濡れていた。幅は三尺ほど、濡れた跡を視線でたどると、うねうねと曲がって奥へと続いている。ぞっとした。さっきまでここにいたのは『何』なのだろう?
「――お前たち、何をしている!」
鋭い誰何の声に振り向くと、そこには恩田少佐とその部下たちが小銃を手に立っていた。反射的に逃げ出そうとした二人に銃を向けた兵を、恩田が制した。
「まだ民間人が残っていたのか……。逃げ出したことは感心せんが、不問にしよう。我々は県署を放棄し撤退する。ついてきなさい」
「えっ、でも……」
戸惑う雅文に恩田はちらりと一瞥をくれたが、相変わらずその表情からは何を考えているのかわからない。
「説明する猶予はない。急げ」
恩田が一方的に言い捨てると背を向ける。わけがわからないが、この不気味な場所から出られるのなら否やはない。銃剣を手にした兵に囲まれて、雅文たちは足早に出入口を目指した。
二階への階段を目指していると、不意に電灯が切れた。急に視界が暗くなり、雅文は小さく悲鳴を上げた。が、消えたのは数秒だけですぐに復活した。
走り出したい衝動を殺しながら移動していると、背後からひたひたと足音が聞こえた。素足で床を歩いているかのようなひっそりとした音だ。その足音が不意に止んだ。何かにつけられている――?
雅文がごくりとつばを飲み込んだ、その瞬間。複数の足音が一斉にこちらに向かってくる!
「構え!」
恩田の号令の元、兵たちが隊列を組んで小銃を構えた。通路の奥から長い影がうねるように躍りかかる。
「放て!」
銃声が鳴り渡る。とっさに身を伏せ、耳を押さえた雅文が見たのは、鉛玉を食らって悶える怪物の姿だった。
その身幅は通路の半分を占め、平べったい大きな頭は蛇に似ているが、のけぞった生白い横腹から手足のようなものが生える様は蜈蚣を連想させた。ただ、その手足は虫のそれではなく、人間の手足の形をしていた。
頭から生える二本の触手に見えるものは、それぞれが人間の男女の上半身をもっている。長い尾は山椒魚のように太く、赤黒く濡れていて、淫靡な音を立てながらのたうち回る。
「ひっ……」
悲鳴が喉につっかえてうまく出せなかった。すぐに逃げなきゃ、と思うのに膝が震えるばかりでままならない。その雅文の二の腕がつかまれ、ぐいっと持ち上げられる。恩田だった。
「ここは我々が引き受ける」
「で、でも……」
「早くしろ! 民間人の手には余る事態だ。――案内を頼む」
恩田に命じられた兵のひとりがこちらへ、と上海語で先導する。
「朱
小慈の台詞をかき消すように、低いうなり声が通路に響く。
例の化け物がその図体に見合わず勢いよく跳ね起きたところで、二回目の発砲音がけたたましく鳴り響いた。
銃弾を受けた化け物は、赤ん坊のような甲高い悲鳴を上げ、陸に揚げられた魚のように勢いよく跳ね上がる。
雅文はまだ震える膝を打ち、化け物から背を向けると急いでその場を離れた。
小走りで兵の後をついていく。早くここから出たい。その一念で二階の踊り場にたどり着いた雅文たちの前に、ぬっと黒い影が現れた。兵士が咄嗟に銃を構える。
白熱灯に照らされていたのは、ひときわ巨体の
「
兵士が叫んで発砲する。猩猩は凄まじい反射神経で鉛玉をかわし、襲いかかってくる。
振り下ろされた長い鉤爪を、兵士が銃身で受け止めるも、猩猩はその銃身を握りしめ、いとも簡単にねじ曲げた。そのまま力任せに兵を振り払うと、ごきりと嫌な音がした。
壁にぶつかった衝撃で、兵の首が不自然に折れ曲がり、身体ごとずるりと崩れ落ちる。壁に生々しい赤黒い染みができた。
「朱小姐!」
小慈の呼びかけに、猩猩がぴくりと耳を動かし、ぐるりとこちらに目を向けた。まずい、と考える間もなく二人は猩猩に背を向け、一階へと駆け下りる。
「小慈! 何か、武器とか、ないの!?」
「そんなもん、あったらとっくに出してますよ!」
猩猩がくぐもった声で何か叫びながら追ってくる。
(何か、何か、この場を切り抜けるものがあれば……!!)
雅文は必死に頭を巡らせながら、意味もなく服を探ってみる。ああ、もう! 匕首のひとつでも持ち込んでおくんだった!
いらだちを紛らわすために拳を振り上げようとした瞬間、何か堅い物に指先をぶつけた。思わず「痛っ」と声が出て、ひらめいた。すっかり頭の中から抜け落ちていたが、李仁からもらった短銃がある!
給仕の子供が武器を隠し持っていると考えなかったのか、ろくに調べられなかったのは幸運だった。銃の使い方は覚えている。実戦で使ったことはないけれど、これほど頼もしいものもない。
「小慈!」
雅文が短銃を見せると、小慈がにやりと笑った。
「朱小姐! このままいけば突き当たりだ! 右に曲がってくだせえ!」
「何するの!?」
「ちっとばかし、足止めを」
小慈は飛爪をちらりと雅文に見せ、小慈の意図を察した雅文は頷いた。
小慈の言葉通り、眼前に壁が見えてきた。雅文は通路を右に曲がり、距離を取ると振り返って銃を両手に構える。
小慈は恐るべき速さで窓枠にかぎ爪を食い込ませると、反対側の壁に身を寄せ、縄を思い切り引っ張った。ほどなくして追ってきた猩猩の太腿あたりに縄が引っかかり、つんのめったところにすかさず雅文が発砲した。
胴体を狙ったが、猩猩が身をよじったため、弾は肩の辺りを掠めただけだった。こんなに機敏な反応をする猩猩がいるなんて!
だが、体勢は崩せた。続けて二発、三発と撃ち込む。ぎゃっと悲鳴のような声があがったので、どこかに当たったようだが、致命傷ではなかった。
雅文が応戦している間に、小慈がじりじりと下がってこちらに近寄ってくる。今にも猩猩が跳ね起きて、小慈を吹っ飛ばすのではないか――先ほどの兵士の死に様が脳裏に蘇って吐き気がした。歯を食いしばりながら短銃の引き金を引き続けたが、やがてむなしくカチッと鳴き、弾が尽きた。
「小慈!」
雅文の呼びかけに応えた小慈が駆け出すのと、猩猩がぐいと上体を起こしたのが同時だった。猩猩の腕が伸び、小慈に掴みかかろうとした瞬間、背後で銃声が響いた。
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