第30話 資生茶館にて

「……私の罪は」

 静かな聖堂に劉の声が響く。彼は十字架を仰ぎ、目を閉じる。


「私の罪は、義務から逃げ出したことです。研究を続けることができず、血清病の原因を突き止めることを放棄した。私は義務よりも保身を優先してしまった……」

 劉は研究資料を独断で破棄し、防疫業務の途中で逃げ出した。芋づる式に野火の逃亡を幇助したことが明らかになり、軍から追われる身となった。


坂井陽厚きよあつ』は故郷に戻れず、上海人医師・劉清穆りゅうせいぼくを名乗った。行く先々で医療技術を提供し、その礼に宿や食事の提供を受け、また次の土地へ流れる生活を送った。


「私が日本を離れて半年後、天津を訪ねたときです。折しも義和団の乱の最中でした。そこで偶然、橘くんと再会したんです」

 劉を追っ手と疑う橘野火に、かいつまんで経緯を話すと呆れたように『きみもたいがい、無茶だ』と笑ったそうだ。


「彼は義和団の一員として防疫や治療に携わっていました。彼は名も経歴も捨て、朱虞淵しゅぐえんを名乗っていました」

「!」

 朱虞淵といえば花香琳かこうりんの夫、朱雅文の父親の名だ。


「橘くんは今の支那は大変だ、逃げてしまいたいけれど、花仙姑かせんこを放ってはおけないと笑っていました。……実子であるあなたにとっては複雑かもしれませんが」

「とんでもない。顔を知らぬ父親ですが、幸せであったのならそれに越したことはありません」


 野分は本心から告げた。実父が個人的な幸せも掴めず、無念の内に死んだと聞かされるより遙かにましだ。


「そう言っていただけると、私も救われた気持ちになります。彼を逃がしてよかった、意味があったと思えますから」

 劉はかすかに笑みのようなものを浮かべ、それきり口を噤んだ。もう話すべき事はすべて話しきった様子だ。


 野分は今聞いた話を整理していたが、ふと気づく。

嫦鬼チャングイは出現から七十年経っていますが、これに関わっている可能性は……?」

 野分の疑念に、劉は首を横に振る。


「神樹計画そのものは三十年ほど前に始まったことで、本邦の軍部が小刀会に関わったという客観的な事実はありません。私もこちらに来てから知ったことです」

 恐らくですが、と劉は続ける。


「大陸に渡った者の中には仁保里におりの民もいたでしょう。彼らの末裔の血液が傷口に触れて発症した、とも考えられます。きっと、小刀会蜂起以前から嫦鬼はいた。今ほど多くはなかったでしょうが」


 事実を人口に膾炙するしかなかった時代、件の血清病の症状は破傷風の一種と見なされていたのだろう。輸血という技術が、かえって嫦鬼の数を増やしてしまった可能性が高い、と劉は語った。


「他にご質問はありますか?」

 まるで講義後の教師のような台詞だ。その口ぶりからは、彼の波乱に満ちた半生を想像するのは難しかった。


「あなたは逃げ出したことを罪だと仰った。それを償うつもりはありますか? つまり、もう一度、仁保里の研究に携わりたいと考えたことは……」

 劉は野分の言葉を吟味するようにゆっくりと瞬きをする。


「それを考えない日はありません。私が逃げ出さなければ、あるいは今の上海の混乱はなかったかもしれない。けれどもう……」

 劉はちらりと、聖堂の入口近くで背を向けている雲雕に視線を投げかけた。


「ここを離れることはできない。橘くんの忘れ形見を、彼に代わって守ることが今の私の生きがいなのです」

「……そのようですね」

 ではそろそろ、と劉が去る素振りを見せたが、動こうとしない。怪訝な表情を浮かべる野分に、劉は少し笑った。


「私を捕まえなくてよろしいのですか?」

「検束せよとは命じられていません。居所を掴むのが任務なので」

 野分の返答にそうですか、と頷いて、劉は懐から矢立と懐紙を取り出した。懐紙にさらさらと何かを書き付けると、墨も乾かぬうちに野分に差し出す。


「私の拠点です」

「受け取れません」

「この期に及んで嘘などつきませんよ」

「そうではなく……」

 どう断ったものかをあぐねる野分の手に、劉が懐紙を押しつける。


「あなたはどうぞ、あなたの責務を果たして下さい。私と同じ轍は踏まぬよう」

 このまま野分が諾というまで、劉は引かないだろう。観念した野分が受け取ると、今度こそ劉は立ち上がった。


「劉大人、話は終わったか?」

「ええ、雲雕。つきあわせてすみません」

「構わねえよ。久しぶりに風生の顔も見れたしな」


 連れ立って聖堂を後にする二人を見送るため、野分も立ち上がる。雲雕が聖堂の扉を開くと、そこにはひと目見たら忘れようもない麗人の姿があった。


「よう、李先生。邪魔してるぜ」

「ひどいですね。僕を通さず、勝手に客人とお会いになるなんて」

「礼を欠いたことは謝る。でもうちの老板が、どうしても風生だけに話したいって言うからよ……」

 うろたえる雲雕の前に劉が乗りだし、ベネディクトに丁寧に一礼する。


「咎めるのであれば私を。方師兄ほうしけいは私のわがままに応えただけです」

「別に怒ってはいません。堅苦しいのはやめましょう、こんな若造相手に」

「ご謙遜を。聖傑洋行の少爺は、とかく聡明だとお伺いしております」

 劉が取り繕っている横で、雲雕がひらめいたように「ちょうどいい」と手を打った。


「これから雅文を助けに行くんだけどよ、李先生も手伝ってくれねえか? 聞いたぜ? あんた見かけによらず相当やるみてえじゃねえか」

 まるで飲みに誘うかのような口ぶりだ。ベネディクトは少し困ったように眉を下げた。


「とんでもない。方師兄に自慢できるような腕前ではないですよ」

「過ぎた謙遜は嫌味だぜ?」

「雲雕、失礼ですよ」

 ベネディクトと雲雕の遠慮ないやり取りに慌てた劉が割り込んだが、ベネディクト自身が制止した。


「いいんですよ。朱小姐シャオジエを危険にさらしたという意味では、僕にも責任がある」

「話が早くて助かる。風生も来るか? ついでだ、あの公主も連れてこい。しばらくうちにいてもいい」


「そうだな……」

 このまま居座っていたら、李家天主堂の人間を巻き込みかねない。世話になったカタリナたちに迷惑をかけるのは不本意だ。


「僕からも頼みます。香幇シャンパンが嗅ぎつけたくらいですから、いずれあなたの居所は知れる。場所を変えたほうがいい」

 ベネディクトの後押しが決め手になった。


 元より長居する気はなかったので、野分の私物はほとんどない。繭のままの少女を行李に押し込み、素早く出立の準備を整えた。カタリナは突然の辞去に驚いていたが、野分たちの無事を祈って十字を切ってくれた。


 こうして一行は資生茶館に向かった。

 資生茶館はこぢんまりとした古びた店で、華やかな大馬路ダ―マールーの一角に小さな扁額を掲げ、身を縮めるようにして収まっていた。


 香燈会こうとうかいが上海で再出発を宣言した場所が、狭くうら寂れた茶館であるところに、彼らの歩んできた道のりが平坦でなかったことを物語っていた。

 その首領である花香琳かこうりんは、新たに増えた面々を見て、ため息を吐いた。


「全く、勝手に部外者を巻き込むとはね……」

「腕の立つ助っ人がいたら頼りになるだろ?」

「腕が立ちゃあいいってもんでもない。信用できるのかい?」

 こちらを一瞥する。見た目は小柄な婦人でも、その視線には長年人を束ねてきた者特有の強い光が宿っている。


「俺はできると思ってる。ま、素性についちゃ不確かだが」

「不確かじゃ困るんだけどねえ。ひとまず、名を訊こうか。まさか名無しってわけじゃないだろ?」

 香琳と目が合った野分は一礼する。


「今は風生ふうせいと呼ばれているが、本名は飯田野分だ。所属は……」

 野分は一瞬言い淀んだが、覚悟を決めた。

「上海駐在憲兵隊、階級は伍長だ」

 そう告げた瞬間、空気が音を立てて変わったが、構わずに続ける。


「任務の途中、はからずも方師兄ほうしけいに関わることになった。ここにいるのは偶然だが、疑われるのは無理もない。おれを信用するかどうかは花仙姑の判断に委ねる」

 香琳が雲雕を睨む。


「雲雕、あんた知ってたのかい?」

「まさか。初めて聞いた」

「その割には平然としてるじゃないか」

「十分驚いてるぜ。まあ記者より軍人のほうが納得できるな、うん」

「落ち着いてる場合じゃないだろう!? 雅文を連れ去ったのは日本軍なんだ、無関係とは言い切れない!」

「俺は雅文の連れ去りについちゃ、風生は無実だと思う。劉大人を狙ってるんじゃないかと勘ぐってたが、そうでもなさそうだ。なあ、風生?」

「任務内容は開示できない」

 きっぱりと返す野分に、雲雕は堅いな、と肩をすくめた。


「朱雅文を巻き込こんだことに責任を感じている。彼女を救う間だけでも、こちらに寄せてもらえるとありがたい」

 軍紀違反を問われるかもしれないが、野分に下された命令そのものがどこからでているのかわからない。本当に軍部の意向だったのかも疑わしい。


「なるほどね。で、そっちは確か……聖桀洋行せいけつようこうの放蕩息子」

「……僕の評判、あまりよくないみたいですね。優良な店子のつもりだったんだけどなあ」

「優良な店子は刃傷沙汰を起こしたりしないよ」

「反論のしようもありません」

 ベネディクトはしおらしく応じたが、香琳は軽く鼻を鳴らすだけだった。


「劉大人はどう思う?」

「人手が足りないのは事実です。方師兄が手放しで賞賛するほどです、腕のほうは心配ないでしょう。人柄についてお疑いであれば私自身を担保にしても構いません」

 さらりと重いことを口にする劉に、香琳の目つきに真剣さが宿る。


「花仙姑のご懸念は重々承知。その上で申し上げております。彼らは我々を裏切りません。少なくとも、朱小姐を取り戻すまでは」

 朗らかに笑う劉だが、その内容は釘を刺しているように聞こえる。


「――まあ、いいだろう」

 長い沈黙の後、香琳は絞り出すように承諾した。


「では花仙姑、朱小姐が上海県署にいることは?」

 口火を切ったベネディクトに、香琳は「ずいぶんな早耳だね」と呆れと感心半々の嘆息をもらした。


「このまま暴動が収まらなければ革命軍がやってくる。そうなったらここは戦場だ。雅文を助け出したら、あたしらは杭州に退避する」

「そのことなんだけどよ……」

 言いにくそうに切り出したのは雲雕だった。


「俺は上海に残ろうと思ってる。ちょいとやり残したことがあるんだ」

 香琳はまさか雲雕が杭州行きを拒むと思っていなかったのか、目を丸くした。

「やり残したことだって? まさか……」

「徐陶鈞のことなら、協力するのにやぶさかでない」

 野分が香琳に先んじて口を挟むと、雲雕は首を傾げる。


「そういや、風生は徐師兄じょしけいにご執心だったな。任務に関係あるのか?」

「その質問には答えられない」

「そりゃ、あるっていってるようなもんだ」

「少なくとも、今の上海の混乱に徐陶鈞が噛んでいる可能性が高い。それだけでも手を組む価値はある」

 野分の言い分に雲雕は納得したが、香琳は渋い顔をして首を振った。


「徐陶鈞に会って説得でもするのかい? あんたが話せば改心して戻ってくるとでも?」

「まさか。だけど、このまま放り出すのは……嫌なんだ」

 唇を引き結ぶ雲雕を見て思うところがあったのか、香琳は「好きにしな」とため息をついた。


「あんたら二人が抜けたくらいでどうってことないさ。雅文のほうはあたしたちがなんとかするから、徐陶鈞をふん縛って煮るなり焼くなり好きにしてきたらいい」

 いささか乱暴な励ましに、雲雕は少し笑って礼を言った。


「そこの放蕩息子も手伝ってくれるんだろう?」

「もちろん」

 ベネディクトが応じたところに、茶館を訪ねてくる者があった。室内に緊張が走る中、ベネディクトが軽く手を上げた。


「おそらく天籟だと思います。県署の様子を探らせていたので」

「……また余計な人間が増えた」

「張道士も頼りになるぞ。山梔花園でも助けてもらったしな」


 不満をもらす香琳を雲雕がとりなしている間に、ベネディクト自ら扉を開くと、そこには確かに黒い道袍姿の張天籟、加えて崔良と古星の姿もあった。彼らはその場に集まった面子におのおの礼を取った。


「県署の中は日本兵が詰めております。その数五十あまり。責任者は上海駐在憲兵隊の恩田少佐なる人物です」

 天籟の報告に、その場の全員が顔を見合わせた。野分も驚いた。まさか、恩田少佐の名が出てくるとは。


「朱小姐には会えた?」

「日本軍の保護下にあり、接触は不可能でした。囚われてはおりますが、あくまで勾留のようです。釈放された者もおります」

 香琳と雲雕が軽く安堵の息を吐いたが、当の天籟はかすかに眉のあたりを曇らせた。


「一刻も早く県署から連れ出されたほうがよろしいかと。なんというか……妙な雰囲気でしたから」

「妙、とは?」

 問われた天籟は、言葉を探すようにしばらく口をつぐんだ。


「県署に詰めているのはほんの小勢。中には渾四フンス―軍はおろか、知県も道台も見当たらないのです。いったいどこに消えてしまったのでしょう……」

 天籟の台詞を受けた香琳が、ちらりと野分に目線を送ってくる。あんた何か知ってるんじゃないだろうね?


 野分は首を横に振る。今の恩田がどんな命令を受け、どういう作戦を展開しているのか、知る術はない。


「県署には小慈もいる。今頃、合流してるかもしれないね」

「では、もう一度天籟を県署にやって……」

 ベネディクトの台詞を遮って、慌ただしく資生茶館の扉が開いた。振り返ると雲雕の手下の男たちだった。おのおの獲物を携え、顔には焦燥を浮かべている。


花仙姑かせんこ方師兄ほうしけい嫦鬼チャングイがあちこちに出現して手が回りません! 租界警察も出動してますが、大馬路は大混乱ですよ!」

「……悠長に話し合っている時間はなさそうだね」


 県署に捕らわれた雅文のことも心配だが、まずは嫦鬼の対処が先決だ。野分が雲雕に目配せすると、彼は謝意を示すように軽く頭を下げた。


「花仙姑、悪いが風生を借りてくぜ」

「ああ。徐師兄のこと、頼んだよ」

 雲雕は力強く頷き、香琳に拱手した。

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