第29話 懺悔
李家天主堂は女子修道院で、院長のカタリナを筆頭に現在十六名の修道女が日がな一日祈りと労働に捧げている。本来なら男性の滞在は歓迎されないが、
ゆっくりお過ごしくださいと言われたが、大人しく部屋に篭もるだけというのは性に合わない。遠慮はいらないからと、薪割りなどの力仕事を回してもらっていた。
金蓮はわざわざ労を買って出ずとも、と呆れていたが、彼女も暇を持てあましていたのか、時々針を使っているのを見かけた。およそ処世のことなど興味の外だと思っていたが、どうも
「風先生、あなたにお客様ですよ」
薪割りをあらかた終え、一息ついた頃。カタリナから声をかけられた。
「客? おれにですか?」
そもそも、野分が李家天主堂にいることは知られていないはずである。
「
出てきた名前に驚いて、野分は急いで聖堂に向かう。
「よお、久しぶりだな」
声をかけられて、野分ははい、と応じる。
「あの赤い公主も元気かい?」
「ええまあ……お陰様で」
その金蓮は今、札を貼られるのが気に入らないのか、ふて腐れて寝ている。
くたびれたシャツに手ぬぐいを巻いた野分に、雲雕が怪訝そうな顔をするので、教会で雑用をしていることを伝えると「
「実は用があるのは俺じゃない」
と、雲雕の大柄な姿に隠れるようにして控えていた人物をあごで示す。
「
男は穏やかな声で名乗り、拱手した。仕草も名も支那人そのものだったが、彼の口からこぼれたのは日本語だった。
「罪を告白しに参りました」
ずっと探していた本人が現れた上、神妙な態度で深く腰を折るので弱ってしまった。
「ひとまず、顔を上げて下さい」
野分が劉の肩に触れる。飯田の養父と年頃が変わらない男の肩は、野分の想像よりも細く頼りない。そのことに、必要以上に動揺してしまった。
野分に促されて顔を上げた劉は、その両目にうっすらと涙を湛えていた。彼は基督教の祭壇――十字架に貼り付けられた神の子を一瞥すると、穏やかな笑みを刻む。
「まさか、
野分に目線を戻した劉の眼からは迷いが消えており、重責から解き放たれたような清々しさがあった。
「あなたは、坂井
確かめると、劉清穆はゆっくりと頷いた。
「こうして、恥もなくまかり出たことをお許し下さい」
話が長くなりそうだ。野分が場所を移すよう申し出ると、劉は「それには及びません」と拒んだ。
「できれば神の御前にて申し開きをしたい。……不思議ですね、棄教して何年も経つのに、今が一番、神を信じられる気がします」
「……おれは、神父ではないんですが」
困惑した野分に、劉はああ、と懐かしそうに笑った。
「君は本当に、お父上にそっくりですね。いつもこうして、橘くんのことを見上げていたことを思い出します。私は、
生園衆、という単語にはっとして、椅子に座るように勧めると、劉がゆっくりと腰を下ろす。野分が隣に座るのを待って、劉は口を開いた。
「突然のことで驚かれたでしょう」
「はい。ここに来てから、驚くことばかりです」
野分の答えに、劉は笑みを深くする。
「あなたの専門は細菌学と血液学だと伺いました。橘氏もですか?」
「橘くん……
「その……橘というのは、やはり
「ええ、聟花の系譜です。橘氏は皇孫の家系で、橘くんは次期家長と目されていました。ですが生家との関係は、控えめにいっても良くありませんでした」
劉曰く、橘野火は橘家を継ぐ者としての重責と期待を一身に背負っていた。父親の方針で、文武両道を強いられていたものの、野火はあまり身体が丈夫とは言えぬ質であったらしい。父親の要求を満たせなかった彼は療養という名目で、遠方の祖父母の元へ送られた。実質的な勘当だ。
だが、生家の軛から解き放たれたことで野火は本当にやるべきことを見つけた。それが細菌学・血液学だ。彼は祖父母の支援のもと勉学に打ち込み、伝染病研究所に入所した。
「それを知った橘くんのお父上が、当時陸軍病院を転々としていた私を橘くんの目付役として送り込んだのです」
「断れなかったのですか?」
野分の問いに、劉はかすかに眉を曇らせたが、一瞬だった。
「私の父は橘くんの父親に恩義がありましてね。私自身、留学の援助や陸軍病院への推薦状をいただいた恩がある。『目』役も生活費の足しになるならありがたい、とその程度で。……ただ、結果的に橘くんを騙すことになってしまった」
「橘野火はあなたが『目』だと知らなかったのですか」
野分は至って平静に応じたつもりだったが、詰問の色を帯びてしまったようだ。劉はぐっと唇を引き結び、束の間沈黙した。
「私が橘くんの生家の使いだと知ったら、きっと彼は私を裏切り者だと思う。友誼を断ち切り、どこかへ逃げていたに違いない。それが分かっていて、真実を告げることはできなかった」
劉の口調は淡々としたものだが、そこに橘野火と彼の生家との断絶の深さを見るようで、野分は息を呑む。
橘家の息がかかっているというだけで縁を切り、行方をくらましてしまいたいと願うほどに、橘野火は追い詰められていたのか。
(しかもそれが、おれの実父だと……)
橘野火に降りかかった重責も圧力も、本来なら野分にもあるはずだ。それなのに、野分は飯田家で不自由な思いをしたことがない。
血の繋がりがないとわかった今でも、家族との縁が切れたとは思わない。実父の置かれた状況と比べ、己はどれほど恵まれいたのか。ちらりと、後ろめたさを覚えた。
「それに、私はいつしか彼の研究に協力する立場になりました。彼を助けるのに『目』役は都合がよかった」
「橘氏は、具体的には何の研究を?」
「仁保里に住む人間の血液に関する研究を長年続けていました」
意外だった。野分も軍に入った際、血液検査を受けた。だが、それだけだ。
(昔、中隊長が愚痴を言っていたな……)
関東軍にいた頃のことだ。人間の血液には四つの型があり、それぞれ性質が異なるという。それを軍の編成に応用できないか、と同じ血液型の小隊、あるいは異なる血液型の小隊を編成し、演習の成果を比較していたらしい。
中隊長は、そんなもので兵がまとまるなら隊長なんて役職は要らない、と呆れていたし、野分も同意見だ。野分にとって血液とはその程度の印象で、わざわざ目付役まで送り込んでまで詮索するようなものとは思えなかった。
「そもそもの始まりは徴兵検査でした。並べて発育がよく、壮健で病にも強い、理想的な若者たち――甲種合格のおよそ三割が、京都綾部の仁保里村に本籍がありました。彼らの生まれ育った場所は別々で、本人たちは養子だと知らされていなかった」
野分は首を捻る。徴兵逃れなら養子の事実を隠す必要はない。
「むろん、単なる偶然かもしれません。軍医であった私に医学的見地から、彼らの共通点を探るよう命じられました。何から手をつけるべきかと模索していた私に紹介されたのが、橘くんです」
当時の橘野火は、血清中の抗体を抽出する方法を研究していた。並行して仁保里について調べていたのは、自身のルーツを知るためだったと劉は言う。
「昔の仁保里には風土病があり、男児が長く生きられず短命だった。それが、いつの間にか逆になったのはなぜか。橘くんはそういうことに興味があったようです」
橘野火は血液の研究者であると同時に、在野の民俗学者でもあったらしい。
生園社が祀る馬頭観音は、畜産道を化益すると同時に、悪鬼と悪業を鎮める。仁保里が馬頭観音を信仰するのは風土病を悪業と捉え、これを祓うためであったのだろう、というのが橘野火の見立てだ。
「もしかして、仁保里と呼ばれる地域が二つあるのは、風土病を理由に離村したからですか?」
ベネディクトが行政上の区分としての仁保里と、実際の集落が存在している場所が違うことを指摘したことを思い出す。
「恐らく、そうでしょう。仁保里で生まれた男児を里子に出すのも、苦肉の策であったのかもしれません」
「その風土病の原因は……」
劉はゆっくりと首を横に振る。
「病状の記録自体が少なく、精査できていないのが現状です。橘くんが調べたところ、仁保里出身者の血液は特殊でした。赤血球……馴染みのない言葉でしょうが、酸素や栄養分を全身に運ぶ、重要な役割を果たしています。これの形に異常が見つかったのです」
通常、赤血球というのは丸餅の中央を押し潰したような形状だが、仁保里出身者のものは、アラビア数字の8を引き伸ばしたような形をしているらしい。
「橘くんは、寄生虫の一種が原因ではないかと仮説を立てていました。血球異常は寄生虫への抵抗性を示すもので、自然選択の結果ではないか、と。それを立証する前に、日本から離れてしまいました。自分の研究がご家族に、ひいては陸軍に利用されることを嫌ったのです」
仁保里の民は生まれつき体格が良く、概ね長生きで病にかかりにくい。遺伝性の血球異常に伴う合併症の兆候もない。富国強兵を目指す新政府にとって、仁保里の研究は重要課題となっていった。自分のルーツを知りたいという橘野火の私的な研究は、またたく間に陸軍省の方策に取り込まれていった。
「仁保里の研究は、当時の陸軍参謀総長、
「仁保里の橘の植樹も計画の一部分でしかない?」
「そんなことまでご存じだったのですね」
「行きがかり上、知ったというだけですが……」
本来、野分の立場では知ることのなかった内容だ。後ろめたさで語尾が濁った。そこで、野分ははたと気づく。
「橘氏の生家は、楠木家なのですか?」
「はい。橘姓そのものは聟花に儀礼的に授けられるもので、彼の本籍は楠木姓です。異母兄の楠木正影大将から神樹計画への参加を命じられた橘くんは、ほとほとうんざりした、と言っていました」
――もう疲れたんだ。
日本にいればいつまでも生家の手の内だ。自分のルーツなどもうどうでもいい。橘野火は名も経歴も捨て、逃げ出すことを選んだ。
「私に、橘くんを止める力はなかった。私にできるのは楠木家や生園衆の人間に悟られぬよう、橘くんを大陸に送り出すことだけでした」
劉は何食わぬ顔で業務をこなしつつ、橘野火の希望を叶えた。
「その後、私は関東軍の給水防疫班に配属され、仁保里出身者の血液から抗血清を精製する研究を行っていました。彼らの血は様々な細菌に対する抗体を作り出す能力に長けていて、この抗血清を用いた治療法は本邦の医学界に革新をもたらすだろう、と期待されていたのです」
「……その口ぶりでは上手くいかなかったようですね」
ええ、と頷き、劉は深く息をつく。長く話しすぎたせいだろう、声が少し枯れている。
「少し休みましょうか」
「いえ、お気遣いなく」
「おれが疲れただけです。飲み物を頼んできます」
野分は中座して、カタリナにお茶の用意を頼む。しばらくして茶器を乗せた銀盆を抱えたカタリナがやってきた。
日本のものとも支那のものとも違う、独特の柑橘香のする茶だ。二人はしばし無言で味わう。カチャリと硝子の触れあう音が休憩の終わりを告げた。
「新しい抗血清は、破傷風治療を目的としていました。それまでの血清はウマ由来で、副作用がありました。ヒト由来であればその心配もないだろう、と」
それが終わりのない逃亡劇の始まりになろうとは夢にも思っていなかった、と劉は目を伏せた。
「異常は数時間で現れました。急激な痙攣、続いて毛髪・体毛の発達と筋肥大、それに伴う運動能力の増進。反面、言葉も理性も失い、暴れる彼らを止める術はひとつしかなかった……」
治療のために光を遮断した部屋の中で、数時間に渡り殺戮が行われた。ようやく静まった後に広がっていたのは、獣じみた姿と化した患者たちが、繊維状となった血の海で折り重なっている光景だった。
「もう、おわかりでしょう。今日、嫦鬼と呼び習わされている化け物は、未知の血清病を発症した人間の、成れの果てなのです」
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