第28話 茫漠の城

「おい、いつになったら出られるんだよ?」

 しびれを切らしたように詰め寄る少年を、日本兵がうるさそうに追い払う。


 言葉は通じなくても、何を言われているかはわかっているのだろう、静かにしろ、というようなことを横柄な口調で命じて去って行く。その後ろ姿に少年――李仁りじんが唾を吐いた。


 山梔花園さんしかえんに忍んでいた雅文は、偶然知り合った李仁と共に捕まった。公董局の警官かと思いきや、頭上で交わされる会話が日本語だったので驚いた。


 そのまま装甲車に詰められ、牢代わりの房室へやに放り込まれたのが三日前だ。その当日に、鷹を思わせる鋭い風貌の男が現れて、帝国陸軍上海駐在憲兵隊の恩田と名乗った。


 恩田はなめらかな上海語で、風紀を乱した罪で捕らえた、と告げた。調書を取り、しかるべき処分を下すという。


 状況が上手く飲み込めない雅文をよそに、李仁少年が真っ先に自分たちはただの使用人で、閉じ込めるのは不当だ違法だとわめき、周囲も李仁に同調して恩田少佐を非難した。


 が、恩田少佐はこちらがどれだけ騒いでも一切反論せず、表情も変えない。やがて気味悪がった李仁たちが黙り込んでしまうと、さっさと踵を返してしまった。


 その直後から数名ずつ引き立てられ、戻ってきた者はいない。釈放されたのか、別の場所に送られたのかは定かではない。


(何を訊かれるのかしら……)

 山梔花園の宴に香幇シャンパンが関わっていることを隠すため、雅文も偽名を使っていたが、それはどれほどの罪になるのだろう。


 広い房室に家財はなかったが、瀟洒な壁紙に見事な臨書があるところを見ると、本来は貴賓室なのかもしれない。中には雅文や李仁と同じく、十代半ばの少年ばかりが十数名詰めていた。皆、山梔花園で給仕をしていた少年たちだ。


「おれたち、無事に出られるよな……?」

 誰とも知れぬ不安な声が房室に響く。それに答えられる者はいない。夜は雑魚寝、二度でてくる些末な食事。罪人よりはまし、というだけで決して居心地のいい場所ではない。一刻も早く出たいのは雅文も同じだが、脱出する術はない。


「ったく、らちがあかねえ。だいたいなんで日本軍なんだ? あいつら、公董局こうとうきょくに喧嘩売ってんのかよ」

 雅文の隣で、李仁がいらだたしげに吐き捨てた。確かに、彼の言うとおりだ。


 租界不介入の原則を破ってまで山梔花園に踏み込んだ理由が、単なる『風紀の紊乱』だなんて、五歳の子供でも信じるものか。


 上海にいて黄金栄の放蕩ぶりが聞こえない日はない。今まで黙認されていたのは、黄金栄を使うほうが租界を治めるのに都合がよかっただけで、日本軍もそれを承知しているはずだ。公董局刑事・黄金栄の面子を潰したことで、国際問題になっても構わないのだろうか。


 不意に房室の鍵が外され、扉が開く。一人の日本兵がぬっと姿を現した。

王文おうもん、出ろ」

 山梔花園での偽名を呼ばれて、雅文の肩が跳ねた。固まる雅文の肩を李仁が強めに叩いた。しっかりしろ、と叱りつけるような調子だったので、思わず李仁を見返した。


 一緒に給仕をしたというだけの間柄だが、房室に閉じ込められてからというもの、雅文を守るかのようにぴったりとそばについて、周囲を牽制してくれていたのだ。


 なんとなく申し訳ない気がしたが、李仁は「また会えるって」と飄々と言い放つ。確かにこの少年なら、のらりくらりと生き延びそうだ。雅文はひとつ頷いて、促されるままに房室を出た。


 意外なことに、兵は一人だけだった。不審に思いつつも後をついて行く――このまま逃げ出せるかもしれない。でも、ここがどこなのか見当もつかない……。


 房室も暗かったが、出てもなお薄暗い。季節はそろそろ夏を迎えるというのに妙にひんやりとしていて、人の気配もほとんど感じない。そのくせ足下から、低いうめき声のようなものが響めく。立ち上る不気味な空気に寒気を覚え、雅文は自らの腕を軽くさすった。


 どれほど進んだ頃だろうか、雅文を先導する兵がくるりとこちらに向き直った。とっさに身構えた雅文に、にっと笑いかける顔には見覚えがあった。


「小慈……!?」

「遅くなってすみませんね。なかなか機会がなくって」

 どうやって忍んだのか、小慈はいつも神出鬼没だ。今はそれが何よりも頼もしい。


「手短に話しますと、ここは上海県署です」

 上海県署が連合工部局の本拠地であることは知っているが、なぜ混四軍の代わりに日本軍がいるの?


「びっくりするのも無理はないです。朱小姐シャオジエが連行されるのを見て、とっさに紛れたのはいいんですが、県署に向かうなんてさすがに予想もつきませんでしたよ」

「じゃあ、小慈も閉じ込められてるの?」

「そういうことになりますかね」


 二人の会話は小声で交わされた。誰かが耳を澄ませば聞こえてしまうのではないか、あの通りの角から別の兵が出てくるのではないか、と気が気でない雅文に、小慈は気軽に笑いかける。


「安心してくだせえ。連中の巡回時間やルートなんかは頭にたたき込んでますし、県署全体を守るにゃ兵の数が少なすぎる――人の耳目が及ばない場所なら、いくらでも」


 軽く胸を張って見せた小慈がふと足を止める。雅文に黙るよう手振りで示し、そろそろと開いた房室に入り込む。ほどなくして巡回の兵の足音がした。息を詰めてそれをやり過ごし、二人は同時に息をつく。


「このまま出口を目指します。県署を出ちまえばあとはなんとかなるでしょうよ」

「県署は出られても、県城の門は閉まってるんじゃない?」

 県城はぐるりと壁に囲まれており、七つある門のいずれかを通るしかない。


 以前は朝から夕刻までは出入りできたのだが、今は昼夜を問わず閉め切っているのか、喧噪が全く聞こえない。


「いざとなったら壁を登るしかないですね。ま、花仙姑かせんこ聖傑洋行せいけつようこう少爺しょうやあたりが手ぇ打ってくれるでしょうよ」

 小慈はあっけらかんと告げ、懐から爪のついた縄を取り出す。その準備のよさにかえって呆れてしまった。


「ねえ、小慈はなんで日本軍が山梔花園に来たか、知ってる?」

「報道じゃあ共産主義者の暴動を鎮圧したってことになってますね」

「日本軍が? なんで?」

「知りませんよ。どうも連中、香幇員を探してるようで。心当たり、あるんじゃないですか?」

 小慈がいたずらっぽく笑う。思い当たることは一つしかない。


 徐陶鈞じょとうきんが金華茶楼に持ち込んだあの赤い大繭――金蓮の朱金にきらめく虹彩を思い出し、雅文はこくりと頷いた。

 出会ったときからわかっていた。金蓮が人ではない、何か得体の知れない生き物で、それゆえに狙われていることを。


「……風先生と関係、あるのかな」

 不意に脳裏に浮かんだのは、無骨で生真面目そうな青年の顔だ。日本人にしては彫りの深い面差しと、意志の固そうな口元は、恩田の薄い顔とは似ても似つかないが、両者の雰囲気には同種のものを感じる。


 鍛錬の跡がうかがえる隙のない身ごなしも、一朝一夕で獲得できるものではない。上海日報の記者と聞いているが、雅文が日々相対している記者とは性質が違うことは明らかだった。


「さて、さすがにそこまでは……と、ここでのんびり話してる場合じゃないですね。行きましょう」

 小慈に促され、雅文は頷いた。いずれ『王文』と印象の薄い日本兵が姿を消したことがばれるだろう。その前にさっさと脱出しなくては。


 気合いを入れるために、雅文は両頬を手のひらで軽く叩き、立ち上がった。

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