第28話 茫漠の城
「おい、いつになったら出られるんだよ?」
しびれを切らしたように詰め寄る少年を、日本兵がうるさそうに追い払う。
言葉は通じなくても、何を言われているかはわかっているのだろう、静かにしろ、というようなことを横柄な口調で命じて去って行く。その後ろ姿に少年――
そのまま装甲車に詰められ、牢代わりの
恩田はなめらかな上海語で、風紀を乱した罪で捕らえた、と告げた。調書を取り、しかるべき処分を下すという。
状況が上手く飲み込めない雅文をよそに、李仁少年が真っ先に自分たちはただの使用人で、閉じ込めるのは不当だ違法だとわめき、周囲も李仁に同調して恩田少佐を非難した。
が、恩田少佐はこちらがどれだけ騒いでも一切反論せず、表情も変えない。やがて気味悪がった李仁たちが黙り込んでしまうと、さっさと踵を返してしまった。
その直後から数名ずつ引き立てられ、戻ってきた者はいない。釈放されたのか、別の場所に送られたのかは定かではない。
(何を訊かれるのかしら……)
山梔花園の宴に
広い房室に家財はなかったが、瀟洒な壁紙に見事な臨書があるところを見ると、本来は貴賓室なのかもしれない。中には雅文や李仁と同じく、十代半ばの少年ばかりが十数名詰めていた。皆、山梔花園で給仕をしていた少年たちだ。
「おれたち、無事に出られるよな……?」
誰とも知れぬ不安な声が房室に響く。それに答えられる者はいない。夜は雑魚寝、二度でてくる些末な食事。罪人よりはまし、というだけで決して居心地のいい場所ではない。一刻も早く出たいのは雅文も同じだが、脱出する術はない。
「ったく、らちがあかねえ。だいたいなんで日本軍なんだ? あいつら、
雅文の隣で、李仁がいらだたしげに吐き捨てた。確かに、彼の言うとおりだ。
租界不介入の原則を破ってまで山梔花園に踏み込んだ理由が、単なる『風紀の紊乱』だなんて、五歳の子供でも信じるものか。
上海にいて黄金栄の放蕩ぶりが聞こえない日はない。今まで黙認されていたのは、黄金栄を使うほうが租界を治めるのに都合がよかっただけで、日本軍もそれを承知しているはずだ。公董局刑事・黄金栄の面子を潰したことで、国際問題になっても構わないのだろうか。
不意に房室の鍵が外され、扉が開く。一人の日本兵がぬっと姿を現した。
「
山梔花園での偽名を呼ばれて、雅文の肩が跳ねた。固まる雅文の肩を李仁が強めに叩いた。しっかりしろ、と叱りつけるような調子だったので、思わず李仁を見返した。
一緒に給仕をしたというだけの間柄だが、房室に閉じ込められてからというもの、雅文を守るかのようにぴったりとそばについて、周囲を牽制してくれていたのだ。
なんとなく申し訳ない気がしたが、李仁は「また会えるって」と飄々と言い放つ。確かにこの少年なら、のらりくらりと生き延びそうだ。雅文はひとつ頷いて、促されるままに房室を出た。
意外なことに、兵は一人だけだった。不審に思いつつも後をついて行く――このまま逃げ出せるかもしれない。でも、ここがどこなのか見当もつかない……。
房室も暗かったが、出てもなお薄暗い。季節はそろそろ夏を迎えるというのに妙にひんやりとしていて、人の気配もほとんど感じない。そのくせ足下から、低いうめき声のようなものが響めく。立ち上る不気味な空気に寒気を覚え、雅文は自らの腕を軽くさすった。
どれほど進んだ頃だろうか、雅文を先導する兵がくるりとこちらに向き直った。とっさに身構えた雅文に、にっと笑いかける顔には見覚えがあった。
「小慈……!?」
「遅くなってすみませんね。なかなか機会がなくって」
どうやって忍んだのか、小慈はいつも神出鬼没だ。今はそれが何よりも頼もしい。
「手短に話しますと、ここは上海県署です」
上海県署が連合工部局の本拠地であることは知っているが、なぜ混四軍の代わりに日本軍がいるの?
「びっくりするのも無理はないです。朱
「じゃあ、小慈も閉じ込められてるの?」
「そういうことになりますかね」
二人の会話は小声で交わされた。誰かが耳を澄ませば聞こえてしまうのではないか、あの通りの角から別の兵が出てくるのではないか、と気が気でない雅文に、小慈は気軽に笑いかける。
「安心してくだせえ。連中の巡回時間やルートなんかは頭にたたき込んでますし、県署全体を守るにゃ兵の数が少なすぎる――人の耳目が及ばない場所なら、いくらでも」
軽く胸を張って見せた小慈がふと足を止める。雅文に黙るよう手振りで示し、そろそろと開いた房室に入り込む。ほどなくして巡回の兵の足音がした。息を詰めてそれをやり過ごし、二人は同時に息をつく。
「このまま出口を目指します。県署を出ちまえばあとはなんとかなるでしょうよ」
「県署は出られても、県城の門は閉まってるんじゃない?」
県城はぐるりと壁に囲まれており、七つある門のいずれかを通るしかない。
以前は朝から夕刻までは出入りできたのだが、今は昼夜を問わず閉め切っているのか、喧噪が全く聞こえない。
「いざとなったら壁を登るしかないですね。ま、
小慈はあっけらかんと告げ、懐から爪のついた縄を取り出す。その準備のよさにかえって呆れてしまった。
「ねえ、小慈はなんで日本軍が山梔花園に来たか、知ってる?」
「報道じゃあ共産主義者の暴動を鎮圧したってことになってますね」
「日本軍が? なんで?」
「知りませんよ。どうも連中、香幇員を探してるようで。心当たり、あるんじゃないですか?」
小慈がいたずらっぽく笑う。思い当たることは一つしかない。
出会ったときからわかっていた。金蓮が人ではない、何か得体の知れない生き物で、それゆえに狙われていることを。
「……風先生と関係、あるのかな」
不意に脳裏に浮かんだのは、無骨で生真面目そうな青年の顔だ。日本人にしては彫りの深い面差しと、意志の固そうな口元は、恩田の薄い顔とは似ても似つかないが、両者の雰囲気には同種のものを感じる。
鍛錬の跡がうかがえる隙のない身ごなしも、一朝一夕で獲得できるものではない。上海日報の記者と聞いているが、雅文が日々相対している記者とは性質が違うことは明らかだった。
「さて、さすがにそこまでは……と、ここでのんびり話してる場合じゃないですね。行きましょう」
小慈に促され、雅文は頷いた。いずれ『王文』と印象の薄い日本兵が姿を消したことがばれるだろう。その前にさっさと脱出しなくては。
気合いを入れるために、雅文は両頬を手のひらで軽く叩き、立ち上がった。
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