第27話 神樹計画
「馬漢堂に寄れるか?」
常葉に調査の進展を確かめたかったのだが、ベネディクトは「馬漢堂は先日、店を畳みました」と告げる。
さっと顔色を変えた野分に、ベネディクトは笑いかける。
「常葉殿はご無事です。どうも、以前から嫌がらせを受けていた形跡があります。馬漢堂の老葉といえばあの辺りでは顔役とも言えますが、日本人ということで目をつけられていたのでしょう」
反面、常葉に親身な客も多いという。馬漢堂が排日の空気の中でも続けられたのは常連客の存在が大きい。
「常葉さんが雇っていた用心棒は?
「彼らも無事ですよ。今はクロウリー家で下働きのようなことをやっています」
そこでベネディクトは少し笑った。
「込み入った話は後ほどゆっくりと。お二人ともお疲れでしょうから」
やがてたどり着いたのは李家天主堂という教会だった。ベネディクトの先導で聖堂の奥、牧師の執務室に通される。
「よう、ご苦労やったなあ」
出迎えたのは我が物顔でソファに座り、煙草を吹かしている常葉だった。いつかのお大尽風の衣装でそうしていると妙な風格すら漂う。
「常葉さん、ここは禁煙です」
ベネディクトが室内の煙臭さに顔をしかめながら部屋の窓を開ける。マクラーレンもそれを手伝い、室内に涼やかな風が流れ込んできた。
「相変わらずのようで安心しました」
野分が金蓮を降ろしながら声をかける。店を畳んだと聞いて多少は萎れているかと思いきや、いつも通りの様子に拍子抜けする。
「聟花殿も姫御前もご無事で何よりでございます」
常葉に頭を下げられたが、素直に受け入れる気になれなかった。仁保里にとって重要なのは蚕女と聟花の番であって、野分や金蓮自身ではない。丁重に扱われたところで、茶番でしかない。
「それにしても、
「ええ。女装は化粧で印象を変えられるので重宝します」
「危険ではないのか?」
上海は犯罪が多発している。女の独り身など格好の標的になりそうなものだが。
「不思議とトラブルはないですね。もっとも、簡単にやられてあげるほど僕も親切ではありませんが」
修道服の長いスカートの下にはしっかりとズボンとブーツを着込み、愛用しているらしいウェブリーをちらつかせた。物騒な尼僧である。
「さてと、これから長話に入るわけですが、その前にさっぱりしたほうが良いでしょう」
ベネディクトがベルを鳴らすと、ほどなくして修道女が姿を見せた。青年が修道女に湯と着替えを用意するように言いつける。
戸惑う野分を余所に、金蓮は「さすがに心得ておるわ」と満足げに笑う。
「遠慮は無用です。病気を持ち込まれるほうが困るので」
そういうことなら仕方ない。正直なところ、風呂に入れるのは有り難い。汗ばむ季節を迎え、潮風のいっそうべとついた感じにはあまりいい気はしない。
人心地ついたところで、再び執務室に集まった面子の中に、
「金蓮殿、これを」
呼びかけたのは張天籟だ。彼が手にした馬頭観音の護符を見るなり、金蓮は嫌な顔をした。
「その札はなにやら居心地が悪い。こう、力が入らぬような気がする」
「ですが、これがなければ居場所を知られます。どうぞご寛恕願います」
天籟に丁重に申し入れられて、金蓮は渋々承諾する。大人しく札を貼られた途端に、金蓮の肌から立ち上る橘の香が消え失せた。
「その札貼ると匂いが消えんのは何でやろうな」
野分が額の札を軽く指先で突くと、金蓮はその手を払いつつ唇を尖らせた。
「わしが神仏の化身というのはあながち間違いでもないのじゃろう。仏は衆生を済度せしむるが本性、己に加護など求めぬもの。もしも仏が本性に背き己に加護を求むるとき、仏としての性を失う……ということかの」
「つまり只人になる、か?」
「さてのう。野分、おぬしはわしが只人に見えるかえ?」
金蓮の問いに、野分は黙り込んだ。確かに、見てくれだけなら人の形ではあるが。
「仲が良うてええこっちゃなあ」
「新婚ですしねえ」
「ところで常葉さん、ニギタ製薬は知ってますか?」
野分が強引に話を切ると、二人は面白くなさそうな顔をしたが構うものか。
「ニギタ製薬、な。東京の製薬会社や。飯田商店と同じで調剤と小売やっとった江戸の老舗やな。明治になってから、多額の出資を背景に全国で支店を増やしとる。倒産寸前の店から看板薬を買い取って再販したり、やり方には賛否両論やけど、まあまあ評判はええ」
「方向性がかなり違いますね。代が変わったのかな?」
「少爺のご指摘通りですわ。先代がえらい進歩的なお方で、商売の仕方も店の名前も変えてしまはった。古参の番頭も調剤方も離れて大騒ぎやったけど、いつの間にやら大手の仲間入りや。先代はかなりのやり手やな」
そこで常葉はつと手を伸ばした。癖で煙管を取ろうとしたようだが、禁煙を言い渡されたことを思い出したらしい。諦めて卓に出ていた紅茶のカップを手にした。
「東京出店は口実で、『
両親は反発しただろう。特に母は『金虎散』に強い自負を抱いている。これがあるからやっていけるんや、と毎朝手ずから調合した『金虎散』を神棚に飾っているほどだ。
「ニギタ製薬の有力な出資者は楠木伯爵やそうや」
楠木伯爵と言えば、一人しかいない。現関東軍司令官・
「蚕花の確保に関する決裁書にも楠木正影大将の名がある。あのお方が生園衆に関わってることは間違いないやろう」
楠木大将の立案が決裁され、最終的に恩田少佐から野分に命が下った、ということになる。
「楠木大将は赤間機関所属……?」
言い止した野分はいや、と口を噤んで顎に手を添える。
赤間機関の前身は、
今上の世話を職掌とする斎宮寮において、舎人司は斎宮警護の任に当たる。構成員は近衛兵と侍従武官の五名、有事の際には侍従武官が軍事顧問を務め、東宮との連絡役を担う。
だが、斎宮内に軍人を置くことに宮内省が反発し、斎宮警護の任は皇宮警察に引き渡されることになった。
移管後も近衛兵としての性格が強く、天保銭組からすると目障りな存在だ。楠木大将も赤間機関の設立には反対の立場を取っていたはずだ。そも、赤間機関の長官は佐官だから別口だろう。
「前にも言うたやろ、『頭』がおらへんから身体ばっかりでかなってもうたって。
常葉はおもむろに懐を探り、紙束を卓上に広げる。
野分が手近な書類を取り上げると、そこには『軍令陸甲第××号』の一文があり、目を剥いた。陸軍の軍令書、しかも甲ならば軍事機密事項に相当する内容だ。
「こんなもの、どうやって」
「もちろん写しや。誰からの垂れ込みかを突っ込むような野暮は堪忍やで」
憲兵の端くれとしては見過ごすわけにはいかないが、赤間機関の任務を帯びている身としては致し方ない。野分は矛盾をぐっと飲み込んで、書類を見据えた。
「『
読み進めていくと、京都府綾部市仁保里村在所の神樹零号の老朽化に伴い、大陸に新たな神樹を移植するという内容だった。
「神樹……? そんなもの村にあったか?」
橘の木はたくさんあった。その中で特別に祀られている木があっただろうか。野分が金蓮に目を向けると、少女は足をぷらぷらと揺らしながら頷く。
「神樹という呼び名に心覚えはないが、おそらく仁保里の古橘のことじゃろ。村で最初に植えられた橘じゃ。村の奥にある故、見覚えがなくともおかしゅうない」
「今更だが、普通、蚕は桑やろう?」
首をひねる野分に、金蓮はうむ、と頷いた。
「唐渡りの
そしてそれは奇跡的に上手くいった。秦氏は太秦を本拠とし、仁保里における養蚕の基を築いたとされる。
「紅蚕は家蚕ではなく、野蚕の一種なのですね」
桑の葉で飼育される種を家蚕、それ以外で飼育する種を野蚕と呼び分けるのだとベネディクトが言う。
「……貴兄は博識だな」
ベネディクトにしても常葉にしても、聞けば打てば響くように答えが返ってくる。彼らの人脈と知識には助けられてばかりだ。
「少しばかり好奇心が強いというだけです。僕にはあなたのように
「そうそう。ちまちまとしたことはわしらに任しといたらよろしい。表出てやっとうすんのは聟花殿の領分ですわ」
「はあ……」
釈然としない野分をよそに、常葉が「話を元に戻すで」と、卓上に出ていた軍令書の写しを指先で弾く。
「この神樹の移植先候補の第一が東京や。別の橘に零号神樹を接ぎ木して、赤蚕が生るかどうかの研究をニギタに――正確には和田薬科大学っちゅう私大に一任してたらしい」
当初はニギタ製薬の先代社長が生薬の確保や改良のために作った私的な研究所であったが、学びたいという社員が増えたため、いっそ学校にしてしまったのだという。
それ以前に会社を全国展開するにあたり、事業者を集めて教育するために和田商業なる大学を興していた。和田薬科大学もその流れで設立されたようである。
「その研究は上手くいったんですか?」
野分の問いに、常葉が両手を上げた。お手上げ、ということか。
「わしからの報告はこれで仕舞いや」
新しい情報と言えばそうだが、謎が増えただけで、事の真相に近づいているような手応えがない。
坂井
(坂井医師の専門は細菌学と血液学だ。ニギタの件とは無縁のようにも思えるが……)
腕組みをしたまま黙り込む野分は、腿に重みを感じて目線を落とす。と、金蓮が枕よろしく頭を乗せており、ソファに寝転がっている。
「お前な……」
人が真剣に話し合っている時に、いやそもそも余所様に邪魔をしている時に取っていい態度ではない。軽く肩を揺すって起こそうとしたが、金蓮はいやいやと首を振ってしがみついてくる始末だ。
どうしたものか、と困惑する野分にベネディクトが声をかけた。
「部屋を用意させます。話の続きは明日にでも」
「ところで、
野分の問いにベネディクトはかすかに眉根を寄せた。
「ひとまずは無事……と言いたいところですが、
新聞の記事によると、
「彼女の居場所には見当がついています。上海
「上海県署?」
連合工部局の本拠地だ。なぜそんなところに朱雅文がいるのか。
「そういや、こんな時やっちゅうのに県城は静かやな。まあ連中に仕事せえいうても無駄か」
常葉は唇をへの字に曲げながら窓の向こう、その先にあるはずの県城に目をやった。
「県城には県知と道台がいますが影響力は無きに等しい。その県城に近頃日本軍が出入りしているようです」
「確証があるわけではないんだな」
責めたつもりはなかったが、ベネディクトは申し訳なさそうに頭を下げた。
「時間がないんです。山梔花園の一件で市内がぴりぴりしていて……衝突が起きる前に、雅文を救い出したい」
そこには浙江財閥と繋がりが深く、清党を目論む蒋介石の思惑も絡んでいることは想像に難くない。
加えて、大勢の目の前で黄金栄を欺き、
一方の共産党も黙ってはいない。山梔花園に乗り込んだ同志を『
「県城へ踏み込む手筈はこちらで整えますので、今のうちに英気を養っていただかなければ。戦働きは聟花殿の領分ですからね」
ようやくベネディクトにいつもの笑顔が戻った。
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