第26話 五里霧中
「……話には聞いておったが、
山梔花園から脱出した
元は
この状態を一番快く思っていないのはベネディクト当人なのだが、南市は華界だ。聖桀洋行が南市に加療院を置いただけでも反感を買ったらしく、口出しは難しいとのことだった。
野分も窓越しに外の様子を眺めてみると、基督教の神父だか牧師だかが数人の修道女と共に施しをしているところだった。
「野分よ、ぬしはこんなところで油を売っていてよいのか?」
金蓮が細い首を仰向けにして尋ねてくる。
「軍も色々複雑や。下手に話したらかえって危ない」
ふうんと金蓮はつまらなそうに相づちを打つ。興味をなくしたのか、また外に視線を向けた。
野分は設えられた椅子に腰かけ、思案する。
本来であれば軍部に顔を出すところだが、報告する相手は慎重に選んだほうがいい。せめて常葉の話を聞いてから判断するべきだろう。
「そういえばお前、黄金栄に何かされなかったか?」
ふと思いついて口にした野分を、金蓮が睨みつける。
「聟花であれば真っ先に訊くべきじゃが、ようやく口にしたか」
「……悪かった」
言い訳しようと思ったが、言い訳してもこじれるだけだ。野分が素直に詫びると、金蓮は「まあよいわ」と、大仰にため息を吐いた。
「ぬしに窮状を訴えるほどの目には遭うてはおらぬ。外出の自由はなかったが、不満はそれくらいじゃ」
「そうか」
やつれた様子もないし、外傷の類いも見当たらない。意外と待遇は悪くなかったようだ。
「……のう、野分よ」
「なんや」
「わしはずっと考えておった。蚕女とは何か、聟花とは何かとな」
当事者なのに知らなさすぎる、とベネディクトは言った。言われてみれば確かに、作為を感じる。
父は野分に使命を負わねばならないと言った。野分はそれをおかしな縁組のことだと思っていたのだが、それだけではなさそうだ。養子だったという事実を受け止めることに気を取られ、他の細かなことは見過ごしていた。
「夜な夜な、夢を見る。歴代の蚕女の生涯を、わしは夢の中で繰り返す。これも前世の記憶というものなのかの」
金蓮はそこに大事なものがあるかのように、そっと胸を押さえた。
「里では蚕女を
問われた野分は眉根を寄せる。あの集落には年輩の女たちがいた。蚕を育て、糸を紡ぐのは基本的に女の仕事とされている。
「……そのまま村に住むんやないのか」
野分の返答に、金蓮は苦く笑った。
「生き埋めにする。繭を望めぬ蚕女など、ただの金食い虫じゃからの。殺して、次の巫女を育てる。代わりが絶えぬよう、富士風穴に姉妹が眠っておるのよ。そも、蚕女がなにゆえ乙女の姿を取るか? なにゆえ足が小さく、逃げられぬようになっておる?」
「……知らん。考えたこともない」
野分は嫌な予感がして、少し突き放すように答えた。すると案の定、金蓮は「阿呆」と冷ややかに突っ込んでくる。
「少しは頭を使わぬか。女の細腕でも簡単に縊り殺せるからじゃ。おとぎ話のように見えて、実に合理的よの」
薄々勘づいてはいたものの、金蓮の口から直接聞かされると、何とも暗澹たる気持ちになる。翻って、金蓮は至って淡泊なものだ。
「
「それは……あり得るな」
明治新政府の出した神仏分離令は『御一新』のために発された。民衆の迷蒙を啓くため、という名目の下、土着の習俗・信仰を悪弊、旧習と呼んで一掃しようとしたのである。生園社もまたその対象となったのだろう。
「紅蚕を利用したい人間が、
明確に仁保里を標的にしたかはわからないが、法令に託けて手出しができると考えた者がいてもおかしくはない。野分の思いつきに、金蓮は眉を跳ね上げ、不快そうに唸った。
「わしらの生み出す『橘』はただ今上のみに捧げるもの。それを取り上げるは玉体を損なうも同じよ。その不届き者は国賊の謗りを受けても文句はいえんぞ」
「『橘』の存在を知ってるのは
まったく低俗な、と金蓮が吐き捨てたのも束の間、怪訝そうに野分を見やる。
「蚕女はともかく、聟はどうじゃ? その血筋なり系譜なりを担保せねばならぬはず。ぬしの素性が分かれば糸口になりそうなものじゃが」
「生みの親が誰かは知らん。知る必要はないと思うてたが……」
こんなことなら聞き出しておけば良かったと後悔したが、果たして問うたところで答えたかどうか。
「里子に出したからとて、大事な聟花を野放しにするかえ? ぬしの生家とて、生園衆と無縁ではなかろう。何ぞ思い当たる節はないのか?」
問われた野分は腕を組んで黙考する。商売柄、来客の絶えない家だ。見知らぬ人物がいたからといって、取り立てて気に留めたことはない。
だが、金蓮の言うとおり、飯田商店が単なる扶養先とは考えにくい。金華茶楼や資生茶館が
(まずは常連客。近所に住んでいて、おれの様子をうかがっている)
最もありそうではあるが、飯田商店は地元密着、三代に渡って贔屓にしてくれている顧客も珍しくない。どこそこの某はいつこの町に来た、などという情報もあっという間に筒抜けだ。
野分が特別耳をそばだてずとも、近辺の人間の素性の大凡は把握できてしまう。その顔ぶれのなかに、これといって引っかかる人物はいない。
(元々うちが『目』だか『耳』やったから、扶養先になったんか?)
飯田家の面々の顔を思い浮かべる。脳裏で彼らに問うても答えが返ってくるはずもない。生家はどこまで生園衆と縁があるのだろうか。
(他に考えられるとしたら、医者か製薬会社か)
看板薬の『
本来は後者が主軸で、医者の来訪はごく自然なことだ。薬の原料を買い付けに、製薬会社の営業が顔を覗かせるのも飯田家ではよく見られる光景だ。
(毎年、同じ時期に東京の出店を持ちかけてくる製薬会社は……ニギタ製薬やったか?)
引っかかるといえば引っかかる。が、手がかりがない状態では、何もかもが怪しく感じる。
「……さっぱりわからん」
「頼りない聟殿じゃの」
「頭使うんはおれの得手やない。にしても、いつまでここに隠れていればええんやろな」
「もうすぐ終わるようじゃぞ」
金蓮の台詞に野分が首を傾げた瞬間、扉を叩く音がした。思わず身構えた野分に、金蓮はおっとりと「招いてやるがよい」と告げる。
「神の御使いじゃ。丁重にな」
訳が分からないまま扉を開くと、老年の牧師と背の高い修道女の二人組が控えていた。見慣れぬ衣装だが、流石に間近にいる彼らの顔を見誤ることはない。ベネディクトとマクラーレンだった。
長身の修道女が悪戯っぽく笑うと、それまで女に見えていたのが不思議なほど、ふてぶてしい青年の顔に戻った。
「迎えに上がりましたよ、お二方。遅くなって申し訳ありません」
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