第三章 偽神燭陰《ウェイシェンヂュイン》

第25話 一炊之夢

波那女はなめ、悪う思わんどくれな」

 そう言われて倉の中に閉じ込められてから、幾日経ったのか。


 口に布を噛まされ、手足は縄で縛られたまま飲まず食わずで、抵抗したくともその気力が萎えていた。つい先日まで、波那女を姫御前ひめごぜと呼んで絹の衣を着せていたのに、ずいぶんと扱いが変わったものだ。


 波那女の心はすでに乾ききり、涙すらも涸れてしまった。今の波那女の心にあるのは怒りのみ。それが歪に固まったままの心をゆっくりと燻るのがわかった。


 波那女は生まれた瞬間から、己が使命を理解していた。村のために聟を迎え、繭生みをする。それが波那女の生そのものなのだと。

 なのに、波那女は何も為すことはできなかった。聟をどれだけ迎えても繭は生らず、役立たずの烙印と共にこの倉に押し込められたのだ。


 ――代わりはあかん。定められた聟やないと……。

 ――でももう帰ってこん。豊臣なぞにつくのではなかったわ。

 ――番わせても繭が生らんでは、村はたちゆかん。

 ――ではいっそ、巫女を代えるか。


 村の女たちが車座になってそう語るのを、知らぬ波那女ではなかった。

 関ヶ原で西軍についた波那女の聟は、あろうことか宇喜多の手勢に斬られて死んだらしい。


 これには波那女よりも古老たちのほうが恐れをなした。慌てて彼の兄弟を聟に据えたが、波那女の胎はついぞ膨れることはなかった。

 聟の役目をなせなかったその男はもういない。二人目も、三人目も波那女の番いとはなれず姿を消した。


(わしはこれからどうなる?)

 もともと、波那女の寿命は長くない。四、五年がせいぜいだ。もしや、このまま忘れ去られるのだろうか。波那女の肉体が腐り落ち、虫に全て食われて骨になるまで。


 ち、ち、と小さく鳴くのは鼠だろうか。全く動かぬ波那女を餌と思い、囓りに来たのか。鼠の小さな鼻先が、波那女の土踏まずを探る。その数は一匹二匹ではない。ぞっとして足先で振り払うと、ささっと物陰に消えていった。


 ああ、嫌だ。鼠への嫌悪感は、古老たちへの恨みにすり替わる。惨めな扱いへの不満や己の不遇、あらゆる感情をひっくるめた涙がこぼれた。いっそひと思いに縊り殺してくれたほうが楽なのに。ああ、そうだ、それがいい。誰か、早くわしを殺しておくれ!


「――波那女」


 自分の願望が届いたのか、倉の戸が開いて光が差した。暗闇にいた波那女の目には蝋燭の火が後光に、人影が菩薩に見えた。

 やがて慣れた目が捉えた相手は、波那女を閉じ込めた古老たちであった。期待がしぼみ、かろうじて持ち上げた頭は、絶望と共に床に落ちた。


 古老たちは、いそいそと波那女の猿ぐつわを外し、縄を解く。ゆっくりと抱き起こされた波那女は何事かと周囲を見回した。

 蚕女の命を貪って生きている、傲慢なおうなたちはそろって膝を突き、面を伏せた。


「何用じゃ。今更わしに許しを乞うつもりか!」

 居並ぶ白髪頭に向かって、殊更居丈高に波那女は告げた。

 老婆たちは、怯えるように身体を震わせるだけで、顔を上げることすらできない。そのことに少しばかり満足した。


「早う、わしに聟を迎えよ。次の満月までに繭生みはなろうぞ。これまでの無礼は見逃す故、く連れて参れ」

「――然様さようならば、姫御前の仰せのままに」

 真ん中の媼が応じ、ゆっくりと身体を起こす。調虫つきむしという名の最古老だ。


 匂里におりの長という、地位相応の着物を纏っていても見栄えのしない痩せぎすの身体、こしのないぺったりとした白髪が縁取る冴えない容貌を見やり、波那女は悪意を込めて鼻を鳴らした。


 波那女は美しい。赤い繭から生まれ落ちたときから、波那女はうら若き十四、五の乙女の姿をしていた。春の花々のごとき美貌は、調虫たちが望んでも手に入れられぬ絶対的なものとして、彼女たちを圧倒した。


 聟たちもみな波那女の美しさに息を呑み、寝所で伏して拝んだ者さえいた。次の聟もきっと波那女を気に入って、今度こそ繭生みが成るに違いない。否、成るまでは諦めぬ。波那女は誇り高き赤蚕せきさんの娘なのだから。


「調虫。脇息を持て。腹が空いた。否、その前に湯浴みじゃ。鼠に餌と違えられるなど耐えられぬわ」

 毅然と命じる波那女に、媼たちは無言で従った。


 匂里の女はおのおの名に『虫』をつけるのが習いで、命じられていそいそと立ち働く姿は確かに虫のようだった。匂里という巣穴にひしめき、たった一人の女王を守るためだけに生きて死ぬ。


 やがて湯桶を抱えた女がやってきて、鏡や櫛、髪油、替えの衣も運ばれる。女たちに世話されるままの波那女は、ふと自分の手に目をとめる。人差し指の爪が欠けていた。鳥の蹴爪のようだった。


(この指先で、お前たちの面の皮を剥いでやりたい)

 調虫の目を突き、瞼の裂け目から皮膚の下に指を潜り込ませれば、皺の筋に添ってぴりぴりと剥がせるに違いない。波那女は嗜虐の愉悦に唇を緩ませた。傍目には花が綻んだようにしか思えぬ、優美な笑みだった。


 湯浴みを終え、すきとおるような白い肌に化粧を施し、衣装を調えた波那女は、まるで古い皮を脱ぎ捨てたかのようだった。


 金の天冠をつけ、五色の紐と珠のふれあうかすかな音楽が、波那女の耳に心地よく響く。真紅の打掛には八重の雲気文が沸き立ち、橘の花が咲く。爽やかな柑橘の香気を体中に満たすように、波那女は深く呼吸をした。

 波那女がひらりと差し出した手のひらに、橘の糸花で飾られた檜扇が渡される。


「今宵、この時より婚礼にございますれば」

 調虫が慎ましく呼びかける。この衣装も四度目だが、袖に通すのはもうこれきりだ。

「ささ、お前たち、姫御前に神饌しんせんを進ぜなさい」

 調虫が手を叩いて外へ呼びかけると倉の扉が開いた。


 身支度を手伝った女たちが出て行くのと入れ替わりに、手燭と膳を抱えたわらわが数名が現れた。

 幾つもの花灯籠がうら寂しい倉を明るく満たし、にわかづくりの華燭の典が始まった。


 緋袴に水干で着飾った十ほどの稚児が、覚束ない足取りで漆の膳を波那女の前に置く。膳に載っているのは、重湯と塗り箸のみ。神饌にしてはつましい内容は、数日何も口にしていない波那女への配慮だろう。


 ゆっくりと重湯を飲み干したのを見届けた調虫が、波那女のそばににじり寄る。

「刻限にございます。今ぞ黄昏、妻夫めおととあい成り候こと、誠に祝着至極に存じます」

 波那女が立ち上がる。足が弱く、近眼ちかめの波那女を調虫が支えた。


 調虫に手を引かれ、しずしずと歩む波那女の後に稚児が続く。その後ろからさらに灯籠を掲げる者、鈴を鳴らして邪気を払う者が続く。密やかな花嫁行列が粗末な蔵の戸から始まり、村中を練り歩く。


 赤蚕の娘の婚礼は神聖なるもの、下賤の目にけがされることがあってはならぬ。その掟に従って、村人たちは息を潜めてこの婚礼が終わるのを待っているはずだった。

 行列はやがて村の最奥にある古い橘の元に至った。村の者から『せんねんさん』と呼ばれる古橘の根元には、小さな社がある。


 匂里の養蚕の始まりは、この橘に生った大きな赤い繭だ。繭から生まれた娘が養蚕を伝え、村の守り神として奉られるようになった。波那女にとって古橘はいわば母のようなもの。千年この地を支えた橘は、いつの間にか真っ赤な珊瑚のような姿となっていた。


 波那女は古橘に一歩近づき、古式に則り頭を下げる。地面の暗さに夜の深さを思い、ふと違和感を覚えた。波那女の視界が曖昧なのはいつものことだが、それだけではない。


(これは、どうしたことか)

 調虫、と鋭く呼びつけた瞬間、背中に衝撃があった。


「――!?」

 突き落とされたのだ、と察したところで、波那女には自身を救う術を持っていなかった。穴は想像より浅いが、波那女が這い上がるには深すぎる。呆然と座り込む少女の頭上に土が降ってきた。それで、波那女は裏切られたのだと悟った。


「調虫、貴様……!!」

 波那女の全身が怒りに震えた。聟を迎えたと欺き、生き埋めにする算段を整えていたのか!

「繭を生めぬ蚕女に村は託せぬ。せめて御母樹ごぼじゅの糧となり、村を守ってくりゃれ……波那女、悪う思わんどくれな」

 泣き濡れる調虫の台詞は、波那女には響かなかった。


「わしは千年蚕せんねんさんの子、神女ぞ! わしを殺せば村に災いが降りかかそうぞ!」

「災いならもう味わっておる。われらにはもうこうするしか術がない!」

 調虫は叫び、作業を止めることはなかった。


「早う、早う。姫御前を楽にしてくりゃれ。手をとめるでない!」

 その声に押されるように、媼も稚児も尼僧たちも波那女の上に土をかぶせる。

 波那女はわめいたが、口を開ければ土が入り、その度に言葉も埋められていく。


 ただでさえままならぬ波那女の足は、早々に土に取られて転ぶ。その背にも容赦なく土がかけられる。

 辛うじて立ち上がっても、波那女の細腕は這い上がるのに用をなさない。薄い爪で土の壁をひっかいたが、小石が挟まっただけで悲鳴を上げた。


 ――波那女は調虫たちに飼われていた。蚕が人の手で飼われるのと同じように。

 そう気付いた瞬間、ぞっとした。波那女は大切にされていたわけではなく、調虫らの手がなければ生きていけぬように甘やかされていただけなのだ。


「調虫、調虫、わしが悪かった。お願いじゃ、ここから出してくりゃれ」

 波那女が甘えた声を出す。こうすれば調虫は大抵のことを許してくれたものだ。生まれた時からそばにいる、乳母のような存在だった。


「騙されるものか!」

 波那女の期待とは裏腹に、調虫は激しくかぶりを振った。

「これまでお前はわしらを見下し続けてきた……知らぬと思うてか!?」

 今までひた隠しにしてきたのであろう激情をその両目に灯し、調虫が吠えた。


「繭を授けぬ蚕女など、ただの鼻持ちならぬ小娘じゃ。姫御前として葬ってやるのがせめてもの情け。今生を悔いて来世を贖う暇は今しかありませぬぞ。さあ、さあ!」

 唖然とする波那女を尻目に、どんどん土が積もっていく。足掻いても無駄だとわかっていても、本能がそうさせた。


 だが、その気力もやがて絶え、波那女の意識はついに途切れた。

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