視線

坂月タユタ

視線

 何気ない瞬間に、どこからか視線を感じるということは、良くある。

 会社で仕事に没頭し、パソコンに齧りついている時。喫茶店で目的もなく、スマートフォンを操作している時。あるいは、夜、風呂場でシャンプーをしている時にも、視線を感じることがあるかも知れない。


 そういう時は、本当に誰かがこちらを見ているか、ただの気のせいということが多い。物事に集中していると周囲が見えなくなるのか、実は視線の主は長時間こちらを眺めていた、なんてこともある。日常生活の中で、よくある出来事のひとつ。


 しかし俺の場合は、妙なところで視線を感じることがあった。それは、自宅のマンションに設置された、古びたエレベーターの中だった。


 俺の住居は十階にあるので、階段で昇り降りするのは少々煩わしい。どこに出かけるにしても、当たり前のようにエレベーターに乗り込み、十数秒間の上下運動を行う。その間に、どこからか視線を感じるのだ。


 始めは勘違いと思っていたが、もう引越ししてきて一ヶ月も経つのに、毎回のように同じ感覚を覚える。同乗している他の人かと思いきや、大抵はスマートフォンを見ているか、天井のあたりをぼんやりと眺めていて、こちらを気にする様子もない。何なら、一人で乗っている時だって、視線を感じていた。

 正直気味が悪いのだが、たったそれだけの理由で引越しをするわけにもいかない。


「ここなら、私も陽介も職場に近いし、いいんじゃないかな」


 物件を選ぶ際に、菜々がにこやかに言っていたことを思い出す。地方勤務の彼女とはずっと遠距離恋愛だったのだが、この十月に急に東京に戻ってくることになった。もう付き合って三年になるので、これを機に同棲を始めようと、慌てて始めた住まい探しで見つけたのが今のマンションだった。部屋には別に異常はないし、何より菜々がここを気に入っているので、すぐ引越しするのも悪い気がする。

 そんなわけで、俺は不気味なエレベーターに、毎日乗り続けているのだった。


***


 十二月になっても、エレベーター内の視線は消えなかった。その頃になると俺も慣れたもので、筐体の中で少しの間だけ感じる違和感を、極力意識しないように努めていた。


 少しだけ、わかったこともある。視線はどこか一方から来るのではなく、エレベーター内部の、四方八方から飛んできているということだ。エレベーターに乗り込むと、背後から、頭上から、横にある壁から、こちらを睨んでいるような視線が突き刺さってくるのだ。


 こうして考えると、視線というものは実に不思議なものだと思う。別に目から光線が出ているわけでもないのに、何となく、こちらを見ている感覚がある。一体俺の体は何を知覚しているのだろうか。よく似たものに気配だとか殺気だとかがあるが、もしかしたら人間は、五感以外にも何かを検知する機能があるのかも知れない。


 それと、もう一つわかったことがある。それは、俺が一人で乗っている時は、特に視線が強まるということだった。他に誰もいない空間で、あらゆる方向から品定めをされるかのように視線を感じると、より一層不安な気持ちを掻き立てられるのだった。


「視線? 感じたことないよ。だって誰もいないし」


 菜々はこの現象について心当たりはないようだった。そう言われたら身も蓋もない。そんな気持ちが表情に出たのか、菜々は笑いながら付け足した。


「もしかしたら、エレベーターが陽介のこと、気に入っているのかもね」


 彼女は冗談で言ったつもりだろうが、俺はなんだかその言葉が腑に落ちた。ああそうか、あの視線の主はエレベーターそのものだったのか。それなら全方位から視線を感じていた理由も、説明がつく。


「あ、視線はないけど、あのエレベーターのボタンは反応悪いよね。やっぱり古いからかな」


 菜々はその後も、エレベーターに関する気づいたことを話し続けた。彼女の話を聞いていると、俺の感じていた視線も馬鹿馬鹿しいというか、単なる気の迷いなのかもしれないと思うようになった。所詮はただのエレベーターなのだ。多少の違和感があっても、気にすることはない。

 それからというもの、俺は以前よりも気兼ねなく、エレベーターを利用できるようになった。


***


 その年のクリスマスのことだった。聖夜だというのに残業をする羽目になった俺は、足早に自宅のマンションへと向かっていた。

 すっかり遅くなってしまった。菜々はもうずいぶん待ちぼうけだろう。お詫びに買ってきたクリスマスケーキが、お気に召すと良いが。

 俺はエントランスホールを抜けると、エレベーターのボタンを押した。すぐにドアが開かれ、ケーキを倒さないように気をつけながら、誰もいない内部へと入っていく。十階のボタンを押すと、俺はエレベーターが居住階へ到着するを待った。

 帰ったらケーキを冷蔵庫に入れて、急いで夕食の支度をしよう。菜々がチキンを買ってきているから、それを温めて――。


"ケーキ、おいしそうだね"


 不意に声が聞こえたような気がして、俺は思考を止めた。なんだ? 誰か乗っていたのか? ゆっくりと周囲を確認するが、やはりエレベーターの中には俺しかいない。

 空耳だろうか。声色は、なんだか子供みたいであった。小学生くらいの、可愛らしい女の子の声。記憶にある限り、そんな子供はこのマンションには住んでいないはずである。


"クリスマスだなんて、浮かれやがって!"


 今度は怒ったような声が響き、俺はビクッと体を震わせた。間違いない、誰かが喋っている。今度の声は、年配の男性のようだった。


 一体何が起こっているのだろう。耳を澄ませると、他にもボソボソと、何かを言っている声がする。


"年の瀬は慌ただしゅうて好きになれん"

"人の気持ちも知らないで!"

"私もケーキ、食べたい"

"もう帰りたい、帰りたいよ"


 俺はうなじが粟立つのを感じた。確実に、このエレベーターの中に、いる。しかも数人。大小様々な老若男女の声が、狭い空間の中に鳴り響いていた。いつも感じていた視線も、より確かなものとなってこちらに向けられている。


 早くここから出なくては。俺は祈るような気持ちで、壁面の階数表示を眺めた。ちょうど九階を通過し、まもなく俺の住む十階に到着しそうであった。


「十階です」


 無機質なアナウンスが響き、目の前のドアが――開かなかった。そしてそのまま、エレベーターは下降を始める。


 はあ!? 何でだよ! 俺は慌てて九階のボタンを押した。この際何階でも構わない。階段で移動すれば良いだけなのだから、とにかくこの空間から飛び出したい。いるはずのない声はすぐ近くにまで迫っているようで、耳に吐息がかかってぶるっと身震いをする。

 しかし、九階に着いてもドアが開くことはなく、今度は上に向かってゆっくりと移動を始めた。


「十階です」

「九階です」

「十階です」

「九階です」


 もうボタンも押していないのに、エレベーターは九階と十階の中間くらいを、小刻みに行ったり来たりしている。無機質なアナウンスが繰り返される間も、周囲の見えざる声たちが、耳元でずっと喋り続けていた。


 明らかな異常事態に恐怖するのと同時に、三半規管が揺さぶられて気分が悪くなっていく。俺はううっと呻くと、すぐ横の壁に寄りかかった。胃の中のものが出てきそうになり、右手で口元を抑える。最悪だ。助けを呼ぼうと思ったが、視界がどんどん霞んでいき、体を動かすのも億劫になる。目の前がぐるぐると回転し、尻餅をついてもなお、エレベーターは不快な振動を続けていた。


 俺、一体どうなるんだ。そう思った時、ぼんやりと白くなった視界の向こうに、両親の顔が見えた。二人ともずいぶん若い。おそらくは、自分が子供の頃の姿である。次に小学生の頃の担任の先生が登場し、器用にボールを蹴り上げていた。俺にサッカーを教えてくれた、大好きな先生。そこで気がついた。これが、走馬灯というやつか。


 学生時代の楽しかった思い出が、社会人になってからの出来事が、浮かんでは消えていく。吐きそうで仕方なかったはずなのに、なんだか心地良い気分だ。苦しさが安らぎへと代わり、意識を手放しかけたその時、一人の女性の姿が見えた。艶やかな黒髪に、少し背の低い華奢な体。振り返って笑いかけるその顔を見た瞬間、雷に打たれたように頭が冴えわたった。


 菜々――。そうだ、帰らなくては。菜々が待っている。


 俺は体に力を込めて、なんとか立ちあがろうとする。何かが絡みついているかのように自由がきかないが、それでも少しずつ、体を動かしていく。目を開けると、そこには汚れたエレベーターの壁があった。いつの間にか、壁に向かって正面から張りつくような姿勢になっている。かなり強い力をかけていたのか、壁に押しつけていた手足や、顔の右側がじんじんと痛んでいた。


 ようやく壁から離れた瞬間、視界の隅でドアが開くのがわかった。十階だ。俺は死に物狂いで走り、閉じかけた隙間をすり抜ける。そのまま廊下を転がるようにして、何とか自室へとたどり着いた。


「どうしたのよ、その顔!」


 玄関に出てきた菜々は目を丸くして言った。俺も壁にかかった姿見を見てぎょっとする。先ほど壁に押しつけていた顔の右側が、内出血により真っ青になっていた。


 その後はクリスマスどころではなくなり、病院に行って身体中の内出血を見てもらった。幸いすぐに治るものだったので、大量のシップをもらって家に帰る。ただし、俺は断固としてエレベーターには乗らず、階段で十階まで上がったのだった。


 あれ以降、俺はほとんどエレベーターを使わなくなった。毎日の通勤も、階段で済ませている。あの出来事が夢でも何でもないことは、体にできた青痣が何よりの証拠だ。


 でも、菜々と一緒に出かける時なんかは、さすがにエレベーターに乗るしかない。ほんの十数秒の間、俺は神経を尖らせ、少しの異変も見落とさないようにしている。


 そして気がついた。あの日、俺が張りついていた壁には、大きな染みがついている。

 それは、人の形をしていた。背丈は低く、おそらく小学生くらいの年齢だ。細い体からするに、女の子に見える。


 きっと、一歩間違えたら俺もあの染みのようになっていただろう。菜々には必死に引っ越しを打診しているが、あまり良い反応は返ってこない。

 俺がこのマンションを去るのと、エレベーターに取り込まれるのは、一体どちらが先になるだろうか。

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視線 坂月タユタ @sakazuki1552

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