なごり雪
蜂蜜ひみつ
なごり雪
東京駅にあの人を見送りに行ったのです
いつぞや冗談めかして
「真面目に働いても稼ぎがこんだけだったらどうする?」
「急になんなの」
「いや、ただ聞いただけ」
二人で笑い合った日がありました
あのときから考えていたんですね
たった一度だけ
「あなたは来てはくれないだろう?
俺が憧れたあなたの大事なものを全て置いては」
分かっている答えを
私の口から聞きたがりました
あなたがそのとき
どんな顔をしていたのか
思い出せないのです
「『待っていてくれ』と
どうなるかもわからない約束を
あなたに渡せないから」
「うん、そうだね
『いつか』を叶えに私は
たぶんここから動かない」
お別れの言葉は二人の間にはなくて
三度目の引越しの手伝いは
宙ぶらりんのままに
あんまりいつもと変わらないで
和気あいあいと進んだりして
「あなたが可愛がっているこのぬいぐるみ、向こうに連れていってもいいかい?
俺は寂しくてたまらないだろうから」
「うん、ぎゅっとしたら、ちょっとはマシになったら、いいね」
波打ち際でふざけていたら
不意にざざんと高波をかぶってしまったような
どうしようもない寂しさに
たびたび襲われる
濡れ鼠の二人
寒さに耐えきれず
灯した蝋燭みたいな弱々しさで
消えないように
そのときまでは
せめて今はと
祈るように
ぎゅっと抱き合うのです
互いの温かさを手放せないまま
いつもと同じじゃないのに
いつもと同じふりをして
自分らで選んだくせに
知らんぷりをして
目隠しで労わりあうような
愛しみの日々が過ぎていきます
二人で見たセルジュゲンズブールの
リバイバル映画のポスター
ずっと壁に貼ってあったあれは
剥がして結局どうしたんだっけ
不思議と記憶にないのです
なんだか実感が湧かないままに
旅立ちの日がきました
東京駅のホームに私も一緒に来ました
付き合い始めた頃
遠くに住むあなたは私の最寄り駅まで
いつも心配して送ってくれましたね
私があなたを見送るのは
実は今日が初めてで
そしてこの電車に私は乗らないのだから
これが最後です
新幹線のベルが鳴って
握った手が離され
ドアが閉まります
電車が動き出します
私から電車が
窓が
顔が
あの人が
遠ざかります
あ
これで
お別れ
なんだ
私が行けるとこまで
突端まで
駆け出し
行き止まり
柵をぎゅっと握りしめ
唇を噛み
電車が見えなくなるのを
ただ見送ることしか
私にはできなかったのです
あの人は
人で賑わうホームを
私が追いかけて
走って転ばぬように
一番先頭の車両に席を取ったんだ
きっと
最後のあの人の優しさが
ことんと
小石のように
私の心に落ちて
涙がぽたぽた
いまごろ出てきました
突端には人がほとんどいませんでしたから
静かに声を殺して泣きました
震える自分の身体を
独りぎゅっと
あなたの代わりに抱いてやりました
「そんな日は一人でいちゃダメだよ」
私の近況を知る親友が
見送り日と新幹線の時刻を聞いてきて
「ねえ皇居へお花見に行こうよ」
東京駅での待ち合わせを
この日に持ちかけてくれたのです
あまり時間を置かずしての設定
約束の場所にそろそろ行かなくちゃ
移動する足取りは重く
のろのろと
私の顔を見るなり
「お疲れ様。頑張ったね」
とあの子は言いました
そうか私は頑張ったのか
気付かなかったよ
今度は人混みでうっかり涙が出てしまいました
幽体離脱した心が
花吹雪と一緒に飛んで行かないよう
ヘリウムガスで浮いた風船みたく
紐で縛って
しっかりと
私を握りしめるのです
いっぱい歩いていっぱいお喋りして
お堀の石も満開の桜の花も
たくさん見たはずだけど
ただ
春の日差しと桜色の視界とあの子が
明るくて温かかったことしか
覚えていなくて
大丈夫大丈夫
私は
大丈夫
繰り返し繰り返し
頭の中で呪文を唱えながら
独りで帰る夕暮れ道なのです
無事家にたどり着くと
薬指にはめていた
夢見るような色の
あなたがくれた
ムーンストーンの指輪を外し
とうに枯れてしまった
あなたが編んでくれた
白詰草の指輪の横に
寄り添い並べ
引き出しを閉じました
今日という長い一日が終わり
あっという間の歳月が
今日終わりました
ラジオから『なごり雪』が流れると
桜の花びらが舞うあの日のことを
今もそっと思い出します
白く淡いピンク色の降る花は
私にとってなごり雪
あのお別れの春を連れてきます
なごり雪 蜂蜜ひみつ @ayaaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます