【おばあちゃんアクション短編小説】手作り弁当は記憶の味 〜元CIA工作員の祖母の秘密〜(約9,900字)

藍埜佑(あいのたすく)

【おばあちゃんアクション短編小説】手作り弁当は記憶の味 〜元CIA工作員の祖母の秘密〜(約9,900字)

●第1章:カフェ「みさき」の日常


 早朝の静けさを破るのは、包丁が野菜を刻む規則正しい音だけだった。


 榊原千代子の手さばきは実に正確で、まるで時計の秒針のように一定のリズムを刻んでいた。七十五歳とは思えない手つきで、千切りキャベツを均一な太さに仕上げていく。


「おばあちゃん、また早起きね」


 孫の美咲が厨房に顔を出した。二十五歳になる彼女は、この商店街でカフェ「みさき」を営んでいる。


「あら美咲、おはよう。今日のランチボックスの仕込みよ」


 千代子は包丁を止めることなく答えた。


「相変わらずの手さばきね。私なんか、どんなに練習してもおばあちゃんみたいにはできないわ」


「まあ、年の功というものよ」


 千代子は穏やかな笑みを浮かべた。その表情からは、かつて彼女が世界中を股にかけて活躍したCIAの工作員だったとは、誰も想像できないだろう。


 カフェ「みさき」の名物は、千代子特製の日替わり弁当だった。毎日十食限定で、開店と同時に完売してしまうほどの人気商品である。


「榊原さんの弁当は、なんていうか……懐かしい味がするんですよね」


 常連客の一人、高校生の進藤陽介がそう言ったのは、つい先日のことだった。


「ありがとう。でも秘密にしておいてね。実はね、私の料理には特別な調味料が入っているの」


 千代子は陽介に向かってウインクした。実際、彼女の料理には「記憶」という特別な調味料が使われていた。CIAでの任務中、世界中で味わった家庭料理の記憶が、すべて彼女の料理に活きているのだ。


 イランの路地裏で出会った家庭のクク・サブジ、モスクワの寒空の下で温かさを分けてくれたボルシチ、香港の屋台で舌鼓を打った叉焼飯……。それらの思い出は、彼女の指先を通して料理に溶け込んでいく。


 これらの記憶は、今では千代子の指先を通して料理に溶け込んでいく。


 クク・サブジから学んだハーブの扱い方は、彼女の卵焼きに。モスクワのボルシチから得た温もりは、味噌汁に。香港の叉焼の技は、焼き豚の切り方に。


 世界中で出会った優しさや温もりは、すべて彼女の料理を通して、カフェを訪れる人々の心を温め続けている。


 包丁を持つ手に、三つの記憶が重なる。そして、新たな記憶がまた一つ、作られようとしていた。


「おばあちゃん、今日はどんなお弁当?」


 美咲が覗き込むように尋ねた。


「今日はね、ちょっと懐かしい味付けにしてみたの。私が若かった頃、パリで出会ったマダム・ルノワールのラタトゥイユを参考にしたのよ」


 まな板の上では、なすやズッキーニが整然と並んでいた。


「へー、パリにも行ってたの? おばあちゃん」


「ええ、観光でね」


 千代子は小さく微笑んだ。実際には、フランスでの極秘任務の合間を縫って教わった料理だったが、そんな事実を孫娘に話すつもりはない。


 店の準備を終えた美咲が、看板を表に出す。朝の光が差し込み、カウンターに置かれた花瓶のガーベラが鮮やかな色を放った。


 普段は温和な料理人を演じているが、千代子の眼は決して休むことはない。商店街に不審な人物が現れれば即座に察知し、危険な事態の予兆があれば すぐに対処できる態勢を維持している。それは長年の習慣というより、彼女の生き方そのものだった。


「はい、開店よ」


 美咲の声に合わせ、ドアのベルが軽やかに鳴る。新しい一日が始まろうとしていた。


 しかし千代子は知らなかった。この平和な日常が、まもなく大きく揺らぐことになるとは。


●第2章:少年の失踪


 異変に気付いたのは、その日の夕方だった。


「おかしいわね……」


 千代子は時計を見つめながら眉をひそめた。


「どうしたの? おばあちゃん」


「陽介君が来ないのよ。あの子、毎日この時間に来てたでしょう?」


 進藤陽介。明るく素直な高校二年生で、最近のカフェの常連だった。両親が共働きで、妹の面倒を見るために放課後は急いで帰宅する生活を送っている。その途中でいつも寄っては、千代子特製のおにぎりを買って帰るのが日課になっていた。


「確かに……。でも体調でも悪いんじゃない?」


 美咲は気にする様子もなく答えた。


「ううん、違うわ」


 千代子は直感的にそう感じていた。陽介の様子がおかしくなったのは、一週間ほど前からだ。それまで明るかった表情が曇りがちになり、時折虚ろな目をしていた。


 そして昨日。


「ねえ、榊原さん。人って、どうしようもない状況に追い込まれたら、悪いことをするのは仕方ないって思いますか?」


 突然、陽介がそんなことを聞いてきた。


「そうねえ……。でも、どんな状況でも必ず別の道はあるものよ。誰かに相談するのも一つの手段だわ」


 その時の千代子は、さり気なく答えるに留めた。しかし今思えば、あれは助けを求めるサインだったのかもしれない。


「美咲、ちょっと出掛けてくるわ」


「え? この時間に?」


 時計は午後六時を指していた。


「ええ、ちょっとね」


 千代子は立ち上がると、奥の個室に向かった。そこには、普段は決して開けることのない古い箪笥がある。引き出しを開くと、その奥から小さな革製のケースを取り出した。


 中には、CIAの現役時代に使っていた特殊な機器が収められている。トラッキングデバイス、盗聴器、そして暗号化された通信機器。これらは全て、表向きは引退した後も、非常時のために保管を許可されていたものだった。


 千代子は手早く必要な機器を取り出すと、普段着のままカフェを出た。


 商店街はちょうど夕暮れ時で、帰宅を急ぐ人々で賑わっていた。しかし彼女の歩みは、そんな雑踏とは無縁であるかのように静かで確実だった。


 まず向かったのは、陽介の通う高校。校門には「立入禁止」の札が下がっているが、そんなものは彼女にとって障害にはならない。あっという間に敷地内に入り込むと、職員室の窓から内部をのぞき込んだ。


 教師たちは既にほとんど帰宅していたが、一人だけデスクに残っている教師がいた。陽介の担任らしき中年の男性だ。


「進藤君のことですが、ここ一週間ほど欠席が続いています。両親に連絡を取ろうとしましたが……」


 電話で誰かと話している声が聞こえてきた。


 千代子の眉間に深い皺が刻まれる。やはり、ただ事ではないようだ。


 次に向かったのは、陽介の自宅。しかし、そこにも彼の姿はなかった。両親は仕事で不在。妹の姿もない。


 ドアの鍵を解錠するのに、千代子は数秒とかからなかった。


「やっぱり……」


 陽介の部屋に入った途端、彼女の鼻腔をかすかな薬品の臭いが襲った。そして机の引き出しの中から、小さなビニール袋が見つかった。


 中身は白い粉末。見間違いようのない、違法薬物だった。


「まさか、あの子が……」


 しかし千代子は首を振った。陽介のような子供が自ら手を出すとは考えにくい。むしろ、誰かに強要されているのではないか。


 部屋を詳しく調べていくと、さらにいくつかの証拠が見つかった。携帯電話の履歴、メモ帳の走り書き、そしてビニール袋に付着した指紋。それらを総合すると、ある程度の状況が見えてきた。


 陽介は、違法薬物の運び屋として利用されているようだった。


「困ったわね……」


 千代子は静かにため息をつきながら、部屋を後にした。表情は穏やかなままだが、その目は冷たく光っている。


 カフェに戻ると、既に日は落ちていた。


「おばあちゃん、どこ行ってたの?」


 心配そうに尋ねる美咲に、千代子は優しく微笑みかけた。


「ちょっとお散歩よ。ところで美咲、明日から数日、お弁当の準備を任せてもいいかしら?」


「え? でも、おばあちゃんの弁当を楽しみにしてるお客さんが……」


「大丈夫、すぐに戻るわ。ちょっと急な用事が入ってね」


 その夜、千代子は久しぶりに古い仲間たちに連絡を取った。現役を退いた今でも、彼女には情報網がある。そして、陽介が巻き込まれた組織についての情報が、少しずつ集まり始めた。


●第3章:立ち上がる決意


 早朝のカフェ「みさき」。普段なら包丁を握っているはずの千代子の姿はなく、代わりに美咲が黙々と仕込みをしていた。


 前日の深夜まで、千代子は情報収集に追われていた。浮かび上がってきたのは、「幸福堂」と名乗る新興の犯罪組織の存在だった。表向きは健康食品会社を装いながら、裏では違法薬物の密売を行っている。そして最近、未成年者を使った新しい流通経路の開拓を始めていた。


「榊原さんちのお弁当、今日はないんですか?」


 開店早々、常連客が残念そうな顔を見せる。


「申し訳ありません。おばあちゃんが少し体調を崩してしまって……」


 美咲は精一杯の笑顔で対応した。


 その時、千代子は既に行動を開始していた。


 着ているのは、いつもの質素な普段着。しかし、その下に着けている特殊な下着には、様々な機器や道具が仕込まれている。すべて、現役時代から愛用していた私物だ。


 まず向かったのは、幸福堂の表の顔である健康食品会社のオフィス。高層ビルの一室に構えられた、こざっぱりとしたオフィスだ。


「あら、こんにちは」


 千代子は、年相応の緩やかな足取りでフロントに近づいた。


「お客様、ご用件は?」


 受付の女性が愛想良く尋ねる。


「ああ、そうそう。このあいだテレビでここの健康食品を見まして。高齢者向けの商品があると聞いたものですから」


 取り澄ました様子で話す千代子。しかしその間にも、彼女の目は絶え間なくオフィス内を観察していた。防犯カメラの位置、出入り口の数、従業員の動き……。すべての情報が、瞬時に頭の中に記録されていく。


「申し訳ございません。現在、高齢者向け商品の在庫が切れておりまして……」


「まあ、それは残念」


 がっかりしたように肩を落とす仕草の裏で、千代子の手は素早く動いていた。受付カウンターの下に、小さな盗聴器を仕掛けることに成功する。


 オフィスを後にした千代子は、すぐに次の行動に移った。幸福堂の従業員の一人を尾行し始めたのだ。


 その男は昼休みに、近くの公園でスマートフォンを操作していた。千代子は、ベンチに座って編み物をする老婆を演じながら、特殊なデバイスで男のスマートフォンの通信を傍受していた。


「やっぱりね……」


 傍受した情報から、今夜、港の倉庫で取引が行われることが判明した。そして、その場所こそが陽介が連れて行かれている可能性が高い場所だった。


 千代子は編み物の針を片付けながら、静かに立ち上がった。


「さて、準備をしないと」


 カフェに戻った千代子は、美咲に気付かれないように奥の部屋に入った。箪笥から取り出したのは、特殊な道具の数々。それらは一見、料理道具のように見える。


 包丁の柄の中には、高性能の通信機器が。菜箸には、特殊な合金で作られた収縮機能が。エプロンの生地には、最新の防弾素材が編み込まれている。


 すべては、料理人を装った工作員のために特別に製作された装備だった。


「美咲、今夜はちょっと友達と食事に行くわ」


「えっ、珍しいね。おばあちゃんが外食するなんて」


「たまにはね」


 千代子は孫娘に穏やかな笑顔を向けた。その表情からは、これから危険な任務に向かうという緊張感は微塵も感じられない。


 日が暮れる頃、千代子は港に向かっていた。


 倉庫街は人気がなかった。しかし彼女の耳は、微かな物音を捉えていた。


 倉庫の陰に身を隠しながら、千代子は静かに近づいていく。そこには、幸福堂の関係者たちが集まっていた。そして……。


(陽介君!)


 心の中で叫んだ千代子。倉庫の中に、おびえた様子で座り込む陽介の姿があった。


「今夜の荷物はどうした?」


 組織の幹部らしき男が、陽介を問い詰めていた。


「も、もう嫌です。僕にはできません……」


「何を言ってやがる。お前の妹の手術費用、うちが出してやったんだぞ? その恩を仇で返すつもりか?」


 なるほど、そういうことか。千代子は状況を理解した。妹の手術費用を餌に、陽介を脅していたのだ。


 しかし、もう充分だ。


「やあ、みなさん。ごきげんよう。今日も良い月が出ていますね」


 突然、倉庫内に千代子の声が響いた。


「なっ……誰だ?」


 男たちが周囲を見回す。


「まあ、ただの近所のおばあちゃんですよ」


 薄暗がりの中から、ゆっくりと姿を現す千代子。その手には、大きな風呂敷包みを下げていた。


「うちのカフェのお客さんを、酷い目に遭わせるなんて。いけない子たちですねえ」


「何だこのばばあ……。おい、追い出せ!」


 男が部下に指示を出す。


「あら、お客様をもてなすのに手ぶらでは失礼でしょう? お弁当、作ってきましたよ」


 千代子は風呂敷を広げ始めた。


「なに……?」


 その時だった。風呂敷から放たれた閃光が、倉庫内を真っ白に染め上げた。


●第4章:過去との邂逅


 閃光が消えた瞬間、倉庫内は混乱に陥った。


「なんだ! 目が……っ」


 突然の光に目を眩まされた男たちが右往左往する中、千代子の動きは正確だった。


 倉庫内に舞う埃が、スローモーションのように見えた。


「こっちだ! あのばばあを……」


 男の怒号が響く。しかし千代子の動きは、まるで別世界の生き物のように静謐で優美だった。


 まず右手を腰に添える仕草。それは包丁を取る時と同じ所作。左手はまるで出汁を確かめるように、軽く前に差し出される。


「なめるな!」


 一人目の男が殴りかかってきた。千代子は出汁をすくい上げるように、男の拳の下から手を滑り込ませる。


 包丁を引くように、相手の力を逸らし。


 出汁を濾すように、その勢いを利用し。


 そして具材を取り分けるように、男を宙に浮かせた。


「ぐっ!」


 背中から床に叩きつけられた男が呻く。


 千代子の手の運びは止まらない。今度は野菜を刻むように、連続した動きで二人目の男に向き合う。


「こいつ、化け物か!」


 男が後ずさる。しかし千代子は玉ねぎの皮を剥くように、相手の防御を一枚ずつ外していく。パンチをかわすたび、男の姿勢が崩れていく。


 そして最後は、出汁を注ぐように。なめらかな円を描く手刀が、男の後頸部を襲った。


 三人目は逃げ出そうとする。だが千代子は、まな板から具材が落ちないよう受け止めるように、相手の動きを先読みしていた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ、お、俺は……」


 男の震える声。千代子は調理台を拭うような手つきで、男の胸倉を掴む。


 そして、沸騰した鍋から湯気が立ち上るように。男の体が、ゆっくりと宙を舞った。


 わずか十秒。三人の男たちは、床に転がっていた。


「さて」


 千代子は着物の袖を軽く払う。その仕草は、まるで料理の後片付けをするかのよう。


 倒れた男たちを見下ろす彼女の目は、冷たく輝いていた。それは料理人の目ではない。長年の実戦で培われた、元工作員の眼差しだった。


 あまりにもなめらかな動き。それは四十年以上の諜報活動で磨き上げた技と、日々の料理人としての所作が完璧に調和した結果だった。


 見た目は穏やかな料理の動き。しかしその一つ一つに、人を仕留める確実な技が仕込まれている。それこそが、榊原千代子だけの戦い方だった。


「あら」


 千代子は倒れた男たちの間を、調理場を歩くように静かに通り抜けた。その足音は、まるで包丁のリズムのように規則正しく、そして確かだった。


「お客様ったら、こんなところでお昼寝するなんて」


 そう呟きながら、彼女は陽介の方へと歩みを進めた。その姿は、もう完全に温和な料理人のものに戻っていた。


 床に転がる男たちの体が震えている。彼らは理解したのだ。この老婦人の中に潜む、底知れぬ危険を。


「おばあちゃん……?」


 陽介が信じられない様子で目を見開いている。


「陽介君、大丈夫? 怪我はない?」


 千代子は穏やかな声で話しかけながら、同時に通信機器を起動させていた。


「いったい誰なんだお前は……」


 倒れ込んだ幹部が恐怖の眼差しを向ける。


「言ったでしょ。ただの近所のおばあちゃんですよ。でも、おいたをする子はどうしても許せなくてねえ」


 その時、倉庫の扉が勢いよく開いた。


「妙だな……ここで取引のはずが」


 新たな男が二人、倉庫に入ってきた。その一人を見た瞬間、千代子の表情が微かに強張った。


「マーティン……」


「なに? その声は……チヨコ?」


 マーティン・クラークス。かつてCIAで千代子の相棒だった男だ。しかし十年前、彼は裏切り者として組織を去った。それ以来、消息不明となっていた。


「まさか、あなたがこんなところにいるなんて」


「おまえこそ、まだ現役だったのか」


「いいえ、もう引退したわ。ただ、うちのお客さんが困っているみたいだったからちょっとお弁当の出前に来たのよ」


 二人の間に流れる緊張した空気。しかしその表情は、どこか懐かしさも漂わせていた。


「チヨコ、昔みたいに手を組まないか? この国の違法薬物市場は、これから大きく動く。お前の経験は、我々にとって貴重な……」


「お断りするわ」


 千代子は静かに、しかし強い意志を込めて答えた。


「私にはもう、守るべき大切な場所があるの。素敵なカフェと、可愛い孫娘と、そして大切なお客さんたち」


「そうか……。それなら容赦はできんな」


 千代子は、マーティンの右手の微かな動きを見逃さなかった。長年の経験が、相手の殺意を瞬時に察知させる。


「やはり、変わってないわね」


 マーティンの手が上着の内側に伸びた瞬間、千代子の左手も動いた。エプロンのポケットに忍ばせていた特製の菜箸。それは一見、普通の料理道具に見える。しかし、その正体は最新技術を結集した特殊装備だった。


 木目調の表面には、微細な凹凸が刻まれている。それは空気抵抗を調整し、投擲時の軌道を安定させる特殊加工。先端には、チタン合金の芯が通っている。


 倉庫内の薄暗がりの中、二人の動きが交差する。


 マーティンのコルト・パイソンが、ホルスターから姿を現す。しかし千代子の菜箸の方が、わずか0.2秒早かった。


「チッ!」


 マーティンの舌打ちが響く。しかし、もう遅い。


 菜箸は完璧な放物線を描いて飛んでいく。先端が、マーティンの拳銃に命中。衝撃で銃が宙を舞う。


 だが、それだけではない。


 菜箸に仕込まれた特殊機構が作動。先端が二つに分かれ、瞬時にマーティンの手首を捕らえる。特殊合金製のワイヤーが、蛇のように手首に絡みついた。


「ぐっ!」


 マーティンが苦悶の表情を浮かべる。かつての相棒の技を、彼は忘れていなかった。


「相変わらずの腕前だな、チヨコ」


 マーティンは、苦笑いを浮かべた。その表情には、敗北の色が滲んでいた。


「あなたこそ、ちょっと耄碌したんじゃない?」


 千代子の声は、静かだが芯が通っていた。


 二人の間に流れる沈黙。それは、かつての信頼と裏切りの記憶が交錯する時間だった。倉庫の隙間から差し込む月明かりが、二人の影を壁に映し出している。


 マーティンの手首を縛るワイヤーは、まるで料理で使う飾り切りのように、美しい螺旋を描いていた。それは、スパイと料理人、二つの顔を持つ千代子ならではの技だった。


 たとえ相手が昔の相棒でも、彼女は決して手加減はしない。それが、プロフェッショナルとしての矜持。そして、今の彼女には守るべき日常があるのだから。


 その時、倉庫の外から警笛が響いた。千代子が仕掛けていた通信機器が、自動的に警察に通報する仕組みになっていたのだ。


「さようなら、マーティン」


 千代子は陽介の手を取り、倉庫を後にした。背後では、駆けつけた警察官たちが次々と中に突入していく。


 夜の港で冷たい風が吹く中、千代子と陽介は黙って歩いていた。


「榊原さん……榊原さんは本当は、いったい誰なんですか?」


 しばらくして、陽介が恐る恐る尋ねた。


「ただの近所のおばあちゃんよ。ね?」


 千代子は優しく微笑んだ。


「でも、どうしてそんな……」


「みんな、若い頃にはいろんな経験をするものよ。私の場合は、それがちょっと変わった経験だっただけ」


 そう言って千代子は、ポケットから小さな包みを取り出した。


「はい、お夜食に」


 中身は、彼女特製のおにぎり。


「榊原さん……」


「心配事があったら、いつでも相談に来なさい。いい? おばあちゃんは、いつでも味方だから」


 陽介の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


●第5章:最後の作戦


 事件から数日後、カフェ「みさき」には日常が戻っていた。


 しかし千代子は、まだ気を緩めてはいなかった。マーティンと幸福堂の一味は逮捕されたものの、組織の全容は明らかになっていない。彼女の直感が、まだ何かが残されていることを告げていた。


「おばあちゃん、今日はどんなお弁当?」


 美咲が厨房を覗き込んできた。


「そうねえ、今日は特別なものを作ろうと思って」


 まな板の上には、普段より多めの食材が並んでいる。


「へえ、なんかあったの?」


「ええ。ちょっとね」


 千代子は包丁を走らせながら、密かに作戦を練っていた。彼女の料理には、今日も特別な「記憶」が込められている。


 そう、料理は最高の囮になるはずだった。


 昼過ぎ、カフェに見慣れない客が現れた。スーツ姿の中年男性が三人。一見するとただのビジネスマンだが、千代子の目は彼らの正体を見抜いていた。


「いらっしゃいませ」


 美咲が笑顔で迎える。


「本日のランチボックス、まだありますか?」


「はい、あと二つございます」


 男たちは三つの席に別れて座った。さり気ない仕草だが、明らかに店内を監視できる位置取りだ。


「では、ランチボックスを二つ」


 注文を受けた美咲が厨房に向かう。その後ろ姿を、男たちは鋭い目で追っていた。


(やはりね……)


 千代子は予想通りだと思った。幸福堂は、このカフェに目を付けていたのだ。おそらく、マーティンが逮捕される前に、何らかの指示を出していたのだろう。


 ランチボックスが運ばれてくる。中身は、一見するとごく普通の和洋折衷弁当。しかし、その調理法には千代子ならではの工夫が施されていた。


 男たちは、おもむろに箸を付ける。


 その瞬間。


「あ、あれ? なんだか……」


 一人が急に目を押さえた。続いて、もう一人が激しく咳き込み始める。


「く、薬……?」


 最後の一人が叫ぶ。しかし声は途切れ途切れで、次第に意識が遠のいていく。


「あら、具合が悪いの?」


 千代子が穏やかな笑顔で近づいてきた。


「これは一体……」


「安心なさい。眠くなるだけよ。私の特製『おやすみソース』の効果ですから」


 料理に仕込まれた特殊な調合物が、ゆっくりと効き始めていた。かつてCIAで習得した知識を応用した、無害だが確実な眠気を誘う薬だ。


 男たちはまもなく、深い眠りに落ちた。


「美咲、ちょっと警察に電話してくれる? お客様が気分が悪いみたいなの」


「え? あ、はい……」


 動揺する美咲に、千代子は相変わらずの穏やかな表情を向けた。


 それから数時間後。


「まさか、幸福堂の残党がこんなところに……」


 駆けつけた刑事が呟いた。眠らされた三人の男たちは、組織の幹部として指名手配されていた人物たちだった。


「あら、そうだったの? 私は食あたりかと思いましたわ」


 千代子は、何も知らないふりを貫いた。


 こうして幸福堂は完全に壊滅。陽介たち若者を利用した違法薬物の販売網も、跡形もなく消え去った。


 夕暮れ時、カフェの片付けを終えた千代子は、ふと外を見やった。


 商店街には、いつもの夕方の喧騒が戻っていた。学校帰りの生徒たち、買い物客、そして仕事帰りの人々。その中に、妹の手を引いて歩む陽介の姿もあった。


「平和な日常ね……」


 千代子は小さく微笑んだ。もう誰も、彼女がかつてのスパイだったとは気付かないだろう。そして、それで良かった。


●第6章:新たな日常


 翌朝、カフェ「みさき」の厨房では、いつもの包丁の音が響いていた。


「おばあちゃん、また早いのね」


 美咲が顔を出す。


「ええ。今日は特別なお弁当を作らないとね」


 まな板の上では、色とりどりの具材が整然と並んでいた。


「特別?」


「ええ。今日から陽介君が、うちでバイトを始めるのよ」


 事件後、陽介は千代子に懇願した。カフェで働かせてほしいと。


「料理の技を教えてください。僕も、誰かの役に立ちたいんです」


 その真摯な眼差しに、千代子は迷わず頷いていた。


「榊原さん、おはようございます!」


 開店前、元気な声が響く。エプロン姿の陽介が、意気揚々と入ってきた。


「あら、早いじゃない。さあ、まずは包丁の持ち方から教えましょうか」


 千代子は、最高の笑顔で包丁を差し出した。その手つきは、もはやスパイのものではない。ただの、優しいおばあちゃんのものだった。


「はい!」


 陽介は、輝くような目で包丁を受け取った。


 こうして、カフェ「みさき」の新しい日常が始まった。時々、千代子は思い出す。世界中を駆け回った日々を。しかし今は、この小さなカフェで大切な人々を見守ることが、何より幸せだった。


 まな板に響く包丁の音は、穏やかな日常のリズムを刻み続けている。そして、その音の中には、かつての工作員と、今は料理人である一人の老婦人の、すべての記憶が溶け込んでいた。


(了)


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