Jazzy Afternoon

三奈木真沙緒

なにもかも忘れてジャズにひたる、2日間の午後。

 特定の区域の中で、いくつかの店や施設が会場として設定され、それぞれの会場とジャズバンドの組み合わせでタイムテーブルが作られている。バンドは全国各地から集まっていて、少数の例外を除けば基本アマチュア。複数の会場でいくつものジャズバンドが並行して演奏プレイするので、すべてを味わいつくすことはできない。客は自由に、それらの会場を行き来して、好きな会場で好きなバンドの演奏を楽しむ。――そんな2日間のイベントにふらりと行ってみた。


     ○


 初日、あいにくの雨。荒天の影響で電車が止まっていた。私はたまたま運よくたどり着けたが、駅前から数百メートル歩いただけでボトムスの膝から下がずぶ濡れになる。スーツケースに折り畳み傘だけでなく、ショート丈のレインブーツを突っ込んできた自分をほめつつ歩く。

 昼食は早めにとったつもりで、それでも現時点で12時半。初回の12時開始の演奏には間に合わなかった。この時刻に割り当てられたバンドって、実は不利なんじゃないだろうか。ランチ時には聴衆が集まりにくい気がする。そんなことを思っているうち、開催区域にたどり着く。以前、あいまいな観光目的で訪れた街だ。

 会場マップを開く。「話を聞かない女、地図も読めない女」を自認する私には、点在する会場のありかどころか、現在地さえわからない。とりあえず一本道である限りは歩いてみる。ふと気づくと、細い細い分かれ道の入り口に、イベント名を印字したのぼりが、冷たいつぶての中で気丈に立っている。なるほどこれが会場の目印というわけか。足もとに目をやると、店の所在へ矢印を向けた、小さな道しるべもある。店名に見覚えがあった。事前にパンフをぼんやり見ていて、ぴんとこないながら眺めていた会場紹介のページに、この店名があった気がする。それ以外の予備知識はまったくない。見つけられなかったり、楽しいと思えなかったり、服の冷たさに耐えられなくなったら、さっさと帰ろう――そのくらいの気持ちで、細い道へと踏み込んだ。幸い宿も近い。


 以前のような、あいまいな観光目的だったらきっと入らないだろう、細い小道を歩く。やがて新築と思われる小さな店舗が見えてきた。入口に立っているスタッフに、全会場共通のパスを見せて、中へ入る。丸イスが10コほどでいっぱいのスペース。前方の小部屋がステージがわりらしく、後方の部屋は小さな居酒屋を思わせるカウンター。率直なところ最初は、こんなに小さなスペースでやるんだろうかと驚いてしまった。現時刻は12時45分。後でわかったことなのだが、ひとつのバンドの演奏時間は40分程度で、20分ほどは演者の入れ替わりや撤収、セッティング、会場オーナーへのあいさつ、などにあてられているらしい。私が入場したのはこのタイミングだったということになる。


 私はジャズはまったくわからない。わからないなりにぼーっと聞いているのは好きだ。耳にすることの多い、いわゆるスタンダードな曲は、いくつかタイトルを知っているだけという、吹けば飛ぶような頼りなさである。本当は、音楽を聞いて「ああ、いいなあ」と思うことに、何の予備知識も気構えも必要ないはずなのに、なぜか敷居が高いと思えてしまうジャンルもある。もし、ジャズって難しそう、聞くのをためらってしまう、という人に出会ったら私は、ルパン三世のテーマ曲のジャズアレンジを聞いてみてはどうか、と提案することにしている。一度聞くと、ジャズってこれでいいんだと、肩から力が抜ける気がするのではないだろうか。というより、近年のテレビシリーズや長編スペシャルで使用されるテーマ曲は、すでにジャズアレンジの入ったバージョンが使われていることが多いような気がする。あれを視聴しながら「ジャズだ!」と緊張している人はあまりいないと思う。


 そんなことを思いながらぼんやりしているうちに13時になり、演奏時間が始まった。ボーカルの女性とベースの男性のコンビ。客は私を入れて3人ほど(店のオーナー除く)。ええっ、そんなもんなのか。……いや、この雨じゃ、な。

 このバンドの演目セットリストは、正直なところマニアックな選曲が多く(ボーカル弁)、知らない曲ばかりだった。わかったのは「枯葉」くらい。それでも、ハスキーな歌声とスモーキーなベースのハーモニーは、聞いていてけっこう心地よく、なかなかいい感じでぼーっと聞くことができた。そして気づいたのだが、曲と曲の合間に客がかなりフリーダムに出入りする。なるほど。ジャズといっても幅広い。ボサノバ、フュージョン、コンテンポラリー、モダン、など(私には区別がわからないし、おいしいのかどうかもわからない)。バンドの特色や選曲、アレンジの仕方などの好みもあるだろう。演奏者にはオーディションがあったらしいから、下手なバンドが出演しているわけでもなさそうだし、上手下手というより客の好みの問題が大きいと思う。こればかりは仕方がない。客は、合わないと思えばさっさと出て、別の会場へ流れて別の演奏を聞きに行く。同じように、別の会場から流れて来た客が入ってくる。そのバンドが「推し」とかでなければ、そんな聞き方もありのようだ。会場の小ささの意味が、少しわかった気がする。

 正味40分。自己紹介や曲紹介などのトークも含めると、5~6曲といったところか。さらに嬉しいことに、空が若干明るくなり、降りが弱くなってきた。服もあらかた乾いたので、もう少し回ってみようかと元気が出てくる。最初にこのバンドに出会ったのはラッキーだったかも。それでもまだ傘は必要だった。ここを後にする直前には、客は6人くらいだったかもしれない。


 約20分のスタンバイは、客にとってもありがたい。慌てて歩かなくとも、気ままに別の会場を捜してふらふらすることができる――もちろん推しのバンドがこの後あんなに離れた会場で、という場合はこの限りでないが。私はどのバンドもまったく知らない初心者中の初心者なので、出たとこ勝負。さて現在地もわかったし、この道に沿って歩いてみようか。こうしてやってきた次の施設は土足厳禁。チケットを見せ、靴を脱いで上がった部屋はそこそこに広く、50人分くらいの椅子が並べてあった。4~5人の男性が着座している。片側の戸が開け放たれて、けっこう明るい(曇天ながら)。前方にはキーボードやドラムセットも鎮座。お、これは楽しそうだぞと思っていたら――私が座った直後に、スタッフの地声アナウンスが入った。14時からここで出演予定のバンドが、交通事情でどうしても会場に着くことができず、キャンセルとなったとのこと。悪天候おそるべし。バンドの皆さんさぞや無念だったことだろう。座っていた客もさっさと出て行き――1時間ぼーっと座っている間に別の会場に行けるもんな――残念ながら私もここでの聴衆にはなりそこなった。


 長靴を履き直したり傘を広げ直したりでぐずぐずしてしまったので、中途半端な時刻になってしまった。ぶらぶら歩きながら、目印の幟を捜し、何か所かの会場をのぞいてみるも、すでに演奏が始まっていて、どこも満員。雨が小やみになってきて、来場者が増えてきたのかもしれない。それでもまだ開催地区の半分も歩いていないので、もうちょっと行っちゃえと、急ぐこともなくぶらぶら歩く。こんなときは無理にどこかの会場に割り込まず、喫茶店かどこかで、次の演奏時間まで潰す手もあるのだ。それもこのイベントを楽しむ一手段。ほどよくゆるいフリーダム。

 なんてことを考えながら、通りかかった幟。小さなお店のこの会場は、これまた交通事情によるのか、14時から予定のバンドが押して、14時半から演奏開始になったとか。現在14時20分過ぎ。おお、どんなバンドかわからんが、ここに決まりだ。座れるのは、丸イス長イスとり混ぜて十数人分。あとは立ち見できるスペースが少々。今回のバンドの編成は、フルート、ピアノ、ダブルベース。ドラムもボーカルもない体制だったけど、演奏の雰囲気はけっこう好きかも。フルートの音色ってこんなに幻想的だったんだな。軽く夢酔いしそうな響き。終わったのは15時過ぎていたかもしれない。もしかして、15時からの演奏も30分押しになったのだろうか。いよいよ雨があがったのも好材料。収納した傘を、荷物のサイドポケットに突っ込んで、身軽に歩く。


 女声の透明な響きを聞いたと思った。明かりにひかれる蛾のように、ふらふらと近づいたのは、さっき満員だからと素通りした会場の店。バンドが入れ替わった後、嘘のようにガラガラで、客が2人ほどしかいない。固定ファンの多いバンドだったのだろうか。今まで見て来たところ、同じ会場にずっと張り付いてバンドの入れ替わりを見ている客はあまりいないようだ――今日は客そのものが少ないからかもしれないが。このイベントの常連客は、聞きたいバンドがいくつかあって、自分用の攻略タイムテーブルを作っているんだろうな。初心者は手近なダンジョンからのセイレーンの歌声に釣り込まれる。若い女性のボーカルと、年輩の男性のピアノ。これまではピアノといってもキーボードのような外観のものだったが、ここにあるのはクラシカルな「ザ・ピアノ」だ。なんといっても歌声の美しさが最大のウリとみた。ふらつきもなく、きらきらと伸びる、雨あがりの空に映える世界。店のオーナーは特等席で歌声に酔っていらっしゃった。終演時の聴衆は7人くらい。後にこのバンドも、交通事情に祟られて、到着したのは出番ギリギリだったことが明かされた。うーむ。


 プログラムはまだ続くけれど、午後ほぼ飲まず食わずで(飲食禁止の会場がほとんどだった)回り、乾いたとはいえ雨に打たれた後だったので、けっこう疲れてしまい、今日はここまでと宿に引き取る。雨は気の毒な事情を多く生んだが、私はこのイベント初経験者として、けっこう楽しめた。このくらいゆったり楽しめる方が性に合ってるかも。

 2日目は晴れ。駅前でショッピングとか全然していなかったので、どうせ午前中は暇だしと出かける。買い物が楽しかったら、今日の午後はジャズイベント行かなくていいや、昨日十分楽しかったし。……と思っていたのに、午後やっぱりここに来ている自分がいた。今日も初回演奏は12時。間に合わなきゃいけないプレッシャーまったくナシ。ちなみに初日と二日目で重複出演しているバンドはいない。


 昨日とは違う会場に行ってみよう。13時過ぎ。豪快にうなるピアノの音に引きずり込まれる。幟の奥はギャラリー風の会場か。展示室の奥に、クラシックなピアノとドラムセット、音響設備。その前に30人くらいの座った客、そして立ち見客。昨日より明らかに聴衆が多い。ピアノとドラムとベース、3人の若い男性が熱演。中でもピアノが圧巻。まさに「ザ・ジャズピアノ」といった感じの演奏。彼がウリのバンドかもしれないが、ドラムやベースが力負けしているようには思えなかった。とにかく鍵盤上をガンガンに暴れるスタイルが多い選曲だった。終演後、さすがに疲れたのか、ピアニストが指をわきわき動かしていたのが妙に印象的だった。


 地図を見ながら次の会場を求めて細い路地へ。ここも、通り一遍の観光なら私が絶対入らない道だろうな……あっ、こんなところに感じのよさそうなお店が! などと新発見しながら路地を抜ける。私の見立てが確かならば、この角にある建物が目的の会場……当たり。民家の延長のような造りだ。二十人くらいが入っていたかな。14時から始まった男性のカルテットは、……なんだろう。上手だと思うんだけど、なんとなくしっくりこない。2曲聞いたところで抜け出してしまった。ごめんなさい。けど、なんだろう。明確に分析できないんだけど、これが「好みの問題」というものなんだろうか。なるほど。曲の合間でフリーダムに出入りするって、こういう理由があるわけか。申し訳ないけど、後ろめたさもそんなに大きくない。スミマセン。


 さて、また中途半端な時刻になってしまったな……と思いながら道なりに行くと、伸びやかな女声ボーカルが耳に飛び込んでくる。またしても蛾のように接近。土足厳禁。広いお座敷は、中庭への戸が開放されて、歌声が自在に飛び出していく。ボーカル、ピアノ、フルート、ベース、ドラム。年齢差がけっこう大きそうな構成。でもそれがジャズというジャンルのおもしろいところかも。年齢差のギャップが乗り越えやすいんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、始まった昭和歌謡のジャズアレンジに意識を乗せる。選曲もあってか、安心して聞けるバンドだった。演奏も安定していてなかなか聞きやすい。

 夕方は次のスケジュールが入っていたので、このバンドを最後に、イベントを後にした。


     ◯


 個人的に、とても楽しめたイベントだった。自分のペースで回れて、中休みだって自分で設定できるし、大学の授業のように好みで決められて、気持ちも楽だった。次回も来るかどうかはわからないけれど。一人旅というのも大きな要因だっただろうな。計画的に攻略するのもいいけれど、行き当たりばったりの初心者がここまで楽しめるイベントも、なかなか貴重だと思った2日間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Jazzy Afternoon 三奈木真沙緒 @mtblue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ