砂の町の門は、多分ザザ川の石で出来ている

海野てん

砂の町の門は、多分ザザ川の石で出来ている

 目に見えて浮ついた男の背中に、二つだけでいいのかと確かめた。

 男は「鐘を鳴らすのは、砂嵐と侵入者に対してのみ」だと言い、加えて「それ以外で鳴らしたらこれだぞ」と拳を固めて見せたが、住人に危険を知らせるべき物事はもっとあるではないか。

 例えば火事だ。何処かの土地では、掟を破り排斥の対象になった者にさえ、火事のときには手を差し伸べると聞く。

「そんときゃ、日干しレンガが焼きレンガになるだけさ」

 男は鼻を鳴らすと、もうこれ以上は待ってられないと梯子に手を掛けた。腰に下げた皮袋をちゃぽんと鳴らし段を三つ飛ばしに降りると、振り返ることなく雑踏へ紛れてしまった。

 砂の大地と人々とを隔てる城壁の内側で、夕日の色に染め上げられた人々が行き来しているのを、風に形を変える砂丘を眺める気分で見下ろす。人の流れは、黒い屋根のあたりで緩やかに淀んでいた。酒場だ。疲れた体を引きずる人を誘い込む者がいるのだろう、非日常の匂いを漂わせる装飾の金が斜陽を反射し、跳ねる魚のように動き回っている。

 微かな高い笑い声は、僕の鼻先を蹴りあげようとした女に違いない。爪先の感触が残る鼻が、そうに違いないと訴える。

 まだ太陽が天頂で真っ白に燃えていた刻限、僕もまたあの黒い屋根の下にあった。

 どこまでも続くかと思われた砂の海の水平線に煉瓦の城壁を見つけたときは、まさしく楽園の入り口を見つけたような心持ちで、茹った体をその影に滑り込ませた途端、歩き通しだった足は力を失い、日差しを遮るものへの感謝を体現するかのごとく跪いた。

 日陰に体を休める幸福に一息ついていると、途端に色々な欲が湧いてくる。旨い料理が食べたいとか、冷たい水が飲みたいとか……一つの幸福に満足できなくなった僕の体は再び地面にまっすぐ起き上がると、一直線に酒場へと向かったのだった。

 店内では、かき鳴らす弦の旋律が脂と香辛料の匂いを掻き回していた。大きく開口した壁から外の風が抜けるが、吹き飛ばしきれない熱気でむっとしている。

 息を吸うだけで酔うほどの酒精の中、小鳥のように忙しない給仕が二人、そして鳳が羽ばたくかのごとく長いスカートを翻す踊り子が、人と人の間をするすると忙しない。赤銅色の肌の給仕が、幾重にも重なる声の中から器用に僕の注文を拾い上げ、間もなく伝えたとおりの料理が運ばれて来た。

「どうぞごゆっくり」

 肩で息をしながら定型の挨拶を述べ、銘々の食事に夢中になっている人々の合間にするりと滑り込んでいく。身のこなしに乾杯しながら盃に口をつけようとした瞬間、大きな笑い声を上げて体を揺すった客が、僕の腕にぶつかった。

 なみなみと注がれた液体は大きくうねり、ふちから飛び出す。驚きと落胆が口と目が大きく開かせたが、それらは瞬く間に怒りへと変わり、悪態を吐かせようと僕の内側を煮えたぎらせた。

 その時だった。真っ赤な布が広がって、眼前を覆い隠したのだ。一重二重に咲くその奥から、日の光をたっぷり浴びた皮膚に覆われた足がにゅっと伸びて迫る。薄い生地の履物に彩られた爪先が、僕の鼻先を掠めた。

 あら、ごめんなさいね。音もなく動いた唇が笑って、しなやかな体は踊りながら遠ざかる。

 痛みではない、じんとした感触が残る鼻を片手で覆う。酒と咲いたばかりの花を思わせる甘い香りがして、怒りはどこかに消え失せていた。


 〇


 焼ける日差しの下、僕は本来の目的のために動き出す。

 あてもなく砂の丘をいくつも越え、たまたまこの町へ辿り着いたわけではない。枯れた大地に湧いた奇跡、オアシスを中心に栄えるこの場所こそが目的地なのだ。

 貴重な水源を利用した牧畜と、乾燥に強い植物を用いた小規模な農耕、その二つから生じる繊維質の多い糞と、赤みの強い岩石混ぜ合わせ、本来は厄介者である灼熱の太陽を活用した煉瓦の街並みは、荒涼たる大地に根を張って生きてきた歴史の証明だ。

 しかし町の始まりは、遥か北に都を構える某国が建設した国境監視の砦である。人々の生活をぐるりと囲んで守る城壁こそが、創建当時を物語る証人だ。煉瓦で補修された箇所の一部には、明らかに小競り合いがあったことを示すものもある。

「気になるのは、あの門ですよ」

 ほら、住民のあなたならばよく知っているでしょう。身振り手振りでそちらを示すと、干した棗を笊に広げていた老女は、猫の欠伸のほうがまだ興味があると言う目つきで僕を見た。

「門だけは、どういうわけか煉瓦ではない」

 町の内と外を繋ぐそれは一対の巨石から出来ていた。切り出され、形を揃えられた長四角の岩は濁った暗緑色を帯び、煉瓦の赤みが覆う街並みとは異なる色を放ち、周囲を睨みつけているようだ。

 表面には幾筋もの雨を思わせる模様が刻み込まれていて、水が豊富な場所に在っただろうことが伺える。いや、僕はよく似た岩石を見たことがあるのだ。ザザ川の上流の採掘場で。

 けれど、海の向こうに流れるザザ川の岩をここまで運んでくる理由はない。海沿いでもないこの国が大陸を超えて行う交易は未だごくささやかなもので、砦の建材をわざわざ取引きしたとは考えにくい。しかしながら歴史というものは、後世に明らかなものばかりではあるまい。北海を漂う氷塊の海面から見えるのがごく一部であるように、簡単には正体を掴むことができない部分が、時間の流れに身を潜めている。

 その形を明らかにするには残された僅かな痕跡を、例えば現地に残されている口伝を集め、文化や習慣の中に刷り込まれた常識を紐解き、因果を探らなければならない。

「そう思いませんか?」

 老女は何も言わず、水分を失って久しい手で、同じくらい乾いた実を一掴みする。

「棗、買うかい?」

 差し出された赤い実を前に、僕の口が三角にひん曲がった。

 唇の右端を上げ、左端を上げ、目の前の人にどう言って質問の学術的意味を理解させるか思案していると、背後から短い笑いが上がった。冷笑を奥歯で噛んだ、不格好な高い声に思わず振り返る。

「それ、口説いてるつもりなの?」

 さっき鼻先を蹴りあげた踊り子が「ひどい口説き文句だわ」と、しなやかな指をひらひらさせていた。

「“いいお店ないかな。話聞く代わりにおごらせてよ”くらい言うべきよ?」

「……いいお店ないかな。話聞く代わりにおごらせてよ」

 女はいよいよ腹を抱えて笑い出す。細めた目に値踏みする視線を浮かべ、僕の頭から足までゆっくり往復させてから「ええ、いいわ。暑いでしょう、喉乾かない?」頷いた。

 露店の並ぶ大通りは日差し避けに張られた天蓋が色とりどりの影を作り、店の主人と客を真昼の温度から守る。水路にかかる橋の上でも思い思いに立てた傘が鮮やかに影を落とし、客足を引き留めた。

 その一つに身を滑り込ませた女は、迷いなく注文を伝え、濃い色の液体がなみなみと注がれた盃を二つ受け取る。甘い果実を絞ったそれもまた、この町にもたらされる太陽の恩恵だ。一口含むと、僅かに混ぜられた酒精が香った。

「ふぅん、学者さんなの」

 女がもう一度品定めの目つきになる。

「私が想像する学者さんとは、だいぶ違うようだけど」

 では、どんな格好が学者らしいと感じるのか。女は「そうね」と小ぶりな頭を少し傾けてから、『何人も助手や雑用係を連れて長い隊列を組み、その先頭で我こそは知の権化であるぞと胸を張って、えへんえへん咳ばらいをしながらやって来る』……そんな姿を言葉で描いた。

「ほら、こうよ。こんな風にね」

 風を切るように肩を動かしながら、豊かな胸を突き出す。

「……助手がいた頃だって、そんな振る舞いはしたことないけど」

「今はいないの?」

 苦い思い出と共に、僕は一つ頷いた。

「……恋人、だったんだ」

「まあ……」

 女は表情を曇らせて口を噤む。恋人たちを引き裂く、目を背けたくなるような悲劇を想像しているのだろう。

 けれど僕が一人で歩むことになったのは、例えば、ひどい怪我や病気のために、志半ばの恋人が命を散らしたためではない。仮にそうであったなら、今の僕はここにいなかっただろう。

「三年くらいかけて調べ上げた資料と、論文の草稿を持って逃げたんだよ」

 三年。僕がどれだけ必死に文献をひっくり返し、現地の史跡を調べたか、道のりの険しさを傍らで見て知っていたはずだ。そして、僕が着手した論文が定説をひっくり返し、新たな可能性で歴史を照らすことになるのも、理解していたのだろう。

「それで、その人は?」

「考古学の寵児として、名声も地位も欲しいままにしているそうだよ」

 風の噂に聞いた学院の名を出すと、女は信じられないというように口元を細い指で覆った。

「本当は、あなたがそこにいたのかもしれないのに……」

「同じことを何度も考えたよ」

 羨望、悔恨、落胆……名前の付けられない感情で眠れない夜もあった。

 一人の人間として愛し合う相手と、同じ道を歩み、知見を深める喜びをも共有できる。自分は何て幸福なのだろうと、普段は信じてもいない神に感謝さえしたのに、ある日突然手の平を返すように全てを裏切られたのだ。

「でも、あなたはここに来たのね」

 今ここにいるのは、長く立ち止まって、それでも再び前に歩き出たからだ。

「捨てられなかったんだ、結局」

「続けるほどの価値があったのね?」

「価値……」

 その言葉は少しだけ違う。

「いや、魅力かな」

 学者というより夢想する少年のような言い方だ。自分でもそう思うのだから、傍らの女も同じ印象を抱いたに違いない。

「例えば、どんなとこ?」

 赤ん坊や小動物を甘やかすような笑みを湛えた問いに、僕は幼い心のまま応じる。

「そうだなぁ……」

 話を戻して、門に使われている石材が本当にザザ川の石だとしよう。

 巨石の運搬に魔法を使ったのでなければ、人や動物の手によって運ばれたと考えていい。国境を越えた大規模な魔法の使用は、戦時中でもなければ、国家間の正式な取り決めを公の文書に残される。だが、両国間にはそのような記録は存在しない。

 では、人が長い距離を移動するとき何が起こるか。

 どんなに偉大な事業でも、気力と使命感だけではやり遂げられない。水と食料は必須だ。それらを道中で調達する場合、そこにはごく小さな交易が生まれる。

 故郷とは異なる土地、異なる文化の中で見出したものの中には、必要に迫られたのではなく、ただ好奇心のために手に入れられたものもあるだろう。立場を替えて、現地の者に譲渡した品物だってあるかもしれない。

「交易品に植物の種や動物が含まれていたら、どうなると思う?」

「育てるんじゃないの?」

 折角手に入れた珍しい植物や動物だ。多くの人々が、彼女の答えたとおりにしただろう。

「そして長い時間が経って、いつしか最初から現地にあったかのように思われるようになってしまうかもしれない」

 同一の植物や動物は、偶然だけで離れた土地にも存在し得るのか。

 答えを宗教の観点から解こうとする者があれば、大陸が移動したからだと言い出す頓珍漢、それから僕のように残された痕跡から探ろうとする輩まで、歴史が投げかける神秘を解き明かそうとする連中は様々だ。

「それに、同じことは形に残るもの以外にも当てはまるのではないか。僕はそう考えているんだ」

「どんなものに?」

「病気さ」

 病人がいれば病を伝える。特に戦争の後に流行病の記録が多いのは、それに関わる人の数の多さに比例しているのではないかというのが、僕の仮説だ。

「……瘴気って人と一緒に動くものなの?」

「魔女の瘴気かい? 君も信じている?」

「だって……お……」

 おばあちゃんが、と呟いた唇がつんと突き出した。子供のように膨らんだ頬の内側で言葉を探す様子は、咲き乱れるように踊り、鼻先を蹴り上げた姿とはまるで別人だ。

「魔女がいるところに病が起こる、魔女は瘴気を発している……僕に言わせれば、的外れな迷信さ」

 記録をきちんと読めば、魔女の存在を報じるのは病の流行を過ぎて数年後のものがほとんどである。

「魔女がいるから病が起こるんじゃない。病に対する恐れが魔女を生み出したのさ」

 だから、幼い頃に聞かされたおとぎ話を信じ続ける必要はない。

 女は、思い出を手放すときに似た、少し寂しい笑みを浮かべた。傾いだ額に長い髪が影を落とし、美しい肌の下に通う血まで青ざめて見えた。

「……ね、私もいいこと教えてあげるわ」

 血の気の戻った顔に、彼方へ旅していた心が帰って来たかのような表情が笑い、黒い目はつやつや光る。

「門のとこの岩には模様があるでしょう? 水の流れが削ったみたいな」

 今度は僕の胸が高鳴った。

 何を知っているのか、早く教えて欲しい。音を立てて唾を飲み込む。

「あれはね、猫ちゃんがひっかいたのよ!」

 にゃーお。

 両手の指を曲げ獣の前脚の真似をした女に、いくらか落胆しなかったと言えば嘘になる。

「じゃあね、ごちそうさま」

 宿、早く探した方がいいわよ。

 女はありがたい助言を残し、飲み終えた杯を店主に返すと背中を向けた。ゆったり振れるスカートが見えなくなって、大ぶりの金の耳飾りが放つきらめきだけが、人と人の隙間から伝わってくる。

 その微かな輝きから目を放せずにいると、足に何かぶつかった。

「魔女よう」

 正体を見るより先に足元から幼い声が上がる。砂塵よけを頭から被った子供だった。

「魔女なのよう」

 渇いた喉が出す声で、かろうじて少女であることが分かる。

「魔女なのよう」

 平織りの砂塵よけをばさばさ鳴らし、少女は僕の足を掴んで跳ねた。

「さっきの話が気になったのかい?」

 膝をついて視線を合わせようとすると、少女は身を翻した。手の届かない距離までひとっ跳び、そして「魔女よう」繰り返した。

 中途半端に行き場を失った僕を尻目に、小さな足は水路の上に渡された板から板へ跳ねながら遠ざかる。

「魔女よう、魔女なのよう」

 掠れた声だけが、いつまでもまとわりついて残った。


 〇


 宿を探した方がいい。その助言は確かに的確だった。もっと早くに同じ助言をくれる誰かに出会うべきだったと思うほどに。

 悔やんでも悔やみきれない目の前で、宿の主人は擦り切れた台帳を無情な手つきで閉じた。

「お生憎ですが空室はございません。ええ、物置だってお貸しできない状況です。台所?

 料理番どもが寝泊まりしなければならないほどの満員でございます」

 満員御礼、宿泊拒否。けれどがっくり肩を落としたままでは宿無しになってしまう。僕はさも重そうに財布を手の中で弄ぶ。たった一人で砂漠を渡ったこの身に小指の先ほどでも同情が湧いたなら、どうにか一晩安らげる寝床を与えては貰えないか。物乞いが道理を曲げようとしているのではない。払う金はあるのだ。砂漠を行くのに砂嵐の少ない時期を待って、本当にようやく叶った訪問なのだ。

「しかしですねぇ、お客様ぁ」

 主人は給仕の若者に短い指示を飛ばしてから、短いひげをいじりいじり向き直る。

「お一人で砂漠を越えられるほどの好天でしたら、数多の商隊の皆様も砂漠越えを決行されるわけでして。体を休める場所を求められるのは、どなたさまも同じでしてねえ」

 もっともな話だった。

 それから町中のあらゆる宿泊施設から、便所に寝泊まりすることさえ断られることになる。

 憐れと思ったのだろう一人の女将から「水門番のじいさんに話してみたらどうだい」と言われ、僕は藁にも縋る思いでオアシスの源流へと道を辿ることにした。

 オアシスは町を潤し豊かにする命綱だ。

 毒でも投げ込まれればたちまち町中を侵してしまうため、その源流に繋がる水路は厳重に管理されている。鍵を預かる者は、かつて本国から任命されてやって来た一族の末裔で、代々が水門番を担っているそうだ。

 住人たちが安心して水を飲めるのは、彼らが誇りを持ち忠実に役目を果たしているからに他ならない……と、厳格な皺を目元に刻んだ老人は息巻いた。

 その成り立ちや役割に興味があると切り出せば、老いた顔はたちまちほころんで、

「最近の若造にしては物事の重要性を分かっているやつだ」

 年季の入った舌をなめらかに動かし始めた。

 オアシスの源は、かつて若い騎士が倒した竜の血から湧いたとされること。その水は強い毒を含み、周囲の生き物の命をことごとく奪ったが、騎士を想い流された乙女の涙が落ちるとたちまち清流に姿を変えたこと。砂の大地に再び人を呼び戻した彼女を讃え、町の周囲には『乙女の砂丘』の名が付けられたこと……「水門番は、騎士の従兄弟筋から選ばれたんだ。つまり、わしのご先祖様だな」という老人の主張の真偽は、今回は割愛する。

 彼には申し訳ないが、既に調べあげた以上の話は聞けなかった。更に残念なことに、どれだけ熱心に話を聞いても、老人は一夜の宿を提供してはくれなかったのだ。義理の娘の出産が近いのだと言う。

 いよいよ宿無しで一夜を過ごす覚悟をしなければならないらしい。肩を落とした僕に、老人は皮袋を差しだした。

「こいつを持って、鐘楼守のところに行ってみろ」

 袋の半分ほどを満たすのは、どうやら酒である。

「あいつは自分の仕事に誇りってもんをもっとらん。わしらと違ってな」

 けれどそれ故に、好物の酒を差し出せば、一も二もなく了承するだろうと言うのだ。

「……鐘楼に泊まれと?」

「地べたで寝るよりゃあいいだろう?」

 果たして、どちらがましか。

 皮袋を片手に、帰る家を忘れた犬の足取りで市場をさまよった。何か、問題を解決できる奇跡のようなものに出くわさないかと縋ってみたが、二つの太陽が色を深める頃、僕はとうとう諦めとともに町を見下ろす鐘楼のてっぺんを目指したのだった。

 鐘の真下にある小部屋には、生活に倦んだ目つきの男がいた。古びた椅子の上でどろりと動いた眼球は、掲げて見せた皮袋の、その縫い目から漂う香りに気付くと途端に息を吹き返す。

 まさしく獲物を前にした獣。けれど、痩せぎすの獣は取り引きを持ちかける知能を携えていた。

 一晩屋根のある場所で休みたいのだと請う僕と皮袋とを、痙攣しそうなほど素早く目玉を動かしながら見比べて、

「一晩仕事を変わってくれるのでなけりゃあ聞けないね」

 歪んだ口元に不格好な笑みを浮かべた。

「なあに、簡単だ。大した仕事じゃあない。二つだ。たった二つきりさ」

 乾いた枝の指が二本、目の前に突き出される。

 まずは砂嵐を見つけたとき。町を囲んで四方に立てた棒に翻る旗が、砂に隠れたら鐘を鳴らす。

「もっとも、風が変わるからすぐに気付く。旗なんかいらないね」

 それから、侵入者に気付いたとき。砂の上に行軍の灯りを見つけたら、やはり鐘を鳴らす。

「まあ、俺のじいさんの頃から侵入者なんていないがね」

 要塞として最低限の体裁を整えるためにそういうことになっているらしい。

「それ以外で鳴らしたらこれだぞ」と骨ばかりの指で拳を作って見せたが、住人に危険を知らせるべき物事はもっとあるではないか。

 例えば火事だ。何処かの土地では、掟を破り排斥の対象になった者にさえ、火事のときには手を差し伸べると聞く。

「そんときゃ、日干しレンガが焼きレンガになるだけさ」

 男は鼻を鳴らすと、もうこれ以上は待ってられないと梯子に手を掛けた。腰に下げた皮袋をちゃぽんと鳴らし段を三つ飛ばしに降りると、振り返ることなく雑踏へ紛れてしまった。

 不定形な地平線の向こうに二つ目の太陽も隠れはじめると、町のあちこちにぽつぽつと灯りがともる。ひときわ目立つのは、やはりあの酒場だ。深まる夜の気配を逃れ、店の扉を叩く客の姿が目の前に浮かぶ。

 三つの月が砂漠を照らし、猫が戯れる影をそれぞれの表面にくっきり現す刻限、町の彩りは仄かな灯りから細い煙へ変わる。それらが立ちのぼる下に砂漠の夜に身を寄せ合う人々の気配を感じているうち、煙は一つまた一つと消え、手足の指が痛くなるほど冷えた空気が町を包んだ。

 宿さえ取れていれば、今頃は洗われて夜風に水気を飛ばしていただろう砂だらけの毛布でも、無いよりはいいだろう。爪先から頭のてっぺんまで這い上がって来るひやりとしたものから身を守ろうとしたそのとき、砂丘が形を変える音を聞いた。時化の海の沖から迫る波や、山が火を噴く前の地鳴り……そういう類の予感が心臓を騒がせ、慌てて鐘撞きのための梯子にとりついた。

 町中の目を覚まそうとする僕の眼下で、砂丘は形を変えていく。嵐ではない。のたうちながら一つの塊になっていく様は、決して風まかせの気まぐれが成せる業ではない。

 不可視の芸術家の手が彫刻を施すように、山となった砂から形作られたのは巨大な乙女の顔だった。

 滑るように近づいて来るそれは、周囲の砂を引き付けて背丈を増し、城壁に取りつく頃には門の上から顔が覗くほどになっていた。砂の落ちる音を聞きながらじっと息を潜めたが、

「ああ、あなた様、愛しい人。今日もそこにいらっしゃるのですか」

 息を殺すまでもなく、乙女は他のものはまるで興味が無い様子で、ただ一点を見つめてしきりに呼びかけるのだった。

「あなた様、いらっしゃるのですか」

 何度目かのそれに

「乙女よ」

 地の底から湧く声が、低く答えた。いくらか平静を取り戻していた僕の背中が再び粟立つ。乙女の目はいよいよ熱心に、白い蒸気を立てるほどの視線で町の奥を覗き込む。夜に熱を奪われた湯気は石の表面で露となり、門の上から涙のように伝い幾筋もの線を描いた。

「愛しい方、勇敢な騎士様、今日もいらっしゃるのですね」

「乙女よ、今日も諦めていないのですね」

「あなた様の声が聞こえるのに、再びまみえることをどうして諦められましょう」

「しかし、知っているでしょう……」

 揺らいだ声が地面に染み入る。その声の主の所在は、いまや僕にも明らかだ。オアシスの水源、昼に水門番の老人に出会ったあたりから響いている。

「私が竜の腹で目を覚ましたとき、水源は既に鉄の柵で閉じられていたのです」

「ええ、存じておりますわ。目を覚ましたあなた様が応えてくださったときの喜びを、忘れることなどございません」

「この体は今や、傷ついた竜の体と一つ。例え柵を破れたとしても、再び人の前に姿を現すことはできません」

「いいえ、いいえ。そんなことございませんわ。命を賭して戦ったあなた様を無下にできる者なんて、どうして現れるでしょう」

 地響きのような溜め息が、冴えた空気を震わせて町中に広がっていく。乙女は月に白んだ唇を噛みしめて、諦観を滲ませる地底の吐息が、希望の言葉に変わるのを待っているようだった。砂の町に夜の静寂が戻り、月明かりがいっそう強く感じられたその時だった。

「きゃあ!」

 乙女は一つ悲鳴を上げて、嵐に襲われたように姿を崩す。地の底の声は彼女の名を「モナレア!」呼んだが、応えたのは月に吠える高い鳴き声だった。

 にゃーお、にゃーおう。

 星明りを編んだような毛皮の猫が、乙女だった砂丘に体を転ばせる。甘ったれた鳴き方こそ街角で見かける猫と変わらないが、全体的に煤けた色の体は、僕など一飲みにできるほど巨大だ。つやつやした牙なんて、よく手入れされた槍ではないか。それが三匹、少しずつ模様の異なる体をくねらせてじゃれ合い、砂を蹴散らしていた。

「こら、お前たち!」

 ぴしゃりとした声が空から降る。猫たちは遊ぶのを止めると、星空に視線を上げて西から東に頭を動かした。その先を追いかけると、小さな小さな流星のようなものが夜空を駆けてくるのが見えた。流れ星は箒の形をしていて、その上に細い体が載っている。

「遊んでいる場合じゃないよ、今夜は三つの海の向こうに落ちた星を探しにいくのだからね!」

 長い髪を風に遊ばせ、箒は猫たちの頭上を旋回した。

「うんと爪をお研ぎ! ひっかかった星が逃げ出せないように!」

 三匹は揃って門に取りつくと、喉を鳴らして上から下へ前足を動かす。絨毯や柱で爪を研いでは怒られる猫の姿をあちこちで見てきたけれど、石を削る音がごりごり聞こえては「可愛らしい悪戯っ子だなあ」などと呑気な気持ちにはなれない。

「さあ走るのよ! 地の果てまでも!」

 砂煙を上げて駆けて行く三匹を、追い立てて箒が続く。

 夜の彼方へ消えていく直前に覗き見たものが見間違いでなれば、どうも箒に乗っていた人は、昼間僕の鼻を蹴りあげた女と同じ顔をしていたのだった。


 〇


 寝不足の腫れぼったい足を擦りながら、砂丘が朝日で金色に縁どられるのを見た。町には早起きの人々による煙が上がり、働く人々は食事の匂いに送り出されて、昨日と変わらぬ一日が始まる。

 僕はあの酒場に踊り子を尋ねたが、主人は「踊り子など雇っていない」と眉を顰めた。冷やかすだけでなく何も食わないつもりかと咎める視線に負けて、腹いっぱいになってから水門番の家を訪ねれば、その家には若い夫婦と三人の子供が暮らしていた。

 夫婦は確かに水門番を担っていると頷き、しかし厳めしい顔つきの先代は二年前に砂の大地にお返ししたのだと教えてくれた。


 砂の町の門は、多分ザザ川の石で出来ている。

 けれど僕は、まだこの目で見たものを誰にも伝えられないでいる。


【了】

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