6. アリアとマーガレット
北緯 38度 53分
西経 77度 02分
アメリカ、ワシントンD.C. ラファイエット広場の南にある邸宅。午前0時52分
公的な空間と私的な空間を分けるホールに据え付けられた、年代物の時計を眺める。
日付が変わって、新しい一日が始まって少しのその時間。だが、アリアにとっては気分的に、今日の仕事を無事になし終えた後の時間だ。
仕事は、終わることがない。どの時代のどの国もそうだろうが、小さなことから大きなことまで、決断の連続だということをしみじみと実感する。
人々の人生がそうである様に、人々の集合体である国家もまたそうなのだ。
責任は、自分が背負っている人々の数を考えれば、とても重い。だが自分が良い方向にと思ってなした決断が良き結果を生んだ時の喜び、あれだけは他では味わえない様な、心地良い高揚感を与えてくれる。
私的な区画に並ぶ部屋の一つから、明かりが漏れている。コンコン、と、アリアは半開きになったドアを軽くノックした。
「――アリア。今戻ったの?」
「ハイ、マーガレット。まだ仕事? あなたも頑張るわね」
「くそったれな暴力男たちが、私を放してくれないからね」
「マーガレット、ここではもう少しお上品に」
「”日々のストレスが彼にこんなふるまいを強いた?” ごめんだわ。現実を見て見ぬ振りをする法律家連中の屁理屈はうんざり」
「私も、その連中の一人なんですけど」
「だったわね――。だけどあなたは違うわ、愛しい人」
立ち上がって歩み寄ってきたマーガレットと、アリアは頬に触れるだけの軽いキスを交わす。これだけで、アリアは自分が思っている以上に幸せなのだと心から実感した。
アリアとマーガレット。
この国の人たちは彼女たちのことを少々、特別な意味を込めてそう呼ぶ。この邸宅の主人はアリアで、マーガレットはそのパートナー。
アリア自身はそれを特別なことだとは思っていないけれど、この国の歴史の中で女性と女性の組み合わせでここに入居したのはアリアが初めてだったから、特別視されるのもやむを得ないとは思っている。
裕福な家庭に育ちながら、誰からも助けを受けられない女性たちの存在を見過ごすことができず、大都市の、治安もあまり良くない雑居ビルにそういう女性たちの逃げ場所を作ったマーガレット。
アリアがまだ駆け出しの弁護士だった時に、とある訴訟――日常的に暴力を振るう夫から、妻とその息子を引き剥がすための争い――で知り合ってから、もう20年以上の付き合いになる。
アリアが弁護士として有名になっても、政治家に転身しても、マーガレットの姿勢はいつも変わらない。誰かを救うために一生懸命になり、誰かの不幸せに怒り、そして誰かの幸せに涙を流す彼女をいつしか好きになって、彼女もまたアリアを好きになってくれて、今もこうして一緒にいられるのは本当に幸運なことだと思う。
アリアがこの邸宅の主人になってから、マーガレットとは離れて暮らしていた。「あなたの立場を利用したくない」という実にマーガレットらしい理由からだ。
「――私と離れるのは、寂しくはないの?」
「寂しくないと言えば、嘘になるわね。だけどたったの4年でしょう? 時々は会えるんだし、私、あなたほど精神が強くないから、いつもの場所でいつも通りに暮らすことにするわ」
「たったの4年って……。次の4年も挑戦したいって、私が言ったらどうするの?」
「その時は、対立候補を全力で応援するでしょうね」
ここに移り住む前にマーガレットと交わした言葉を、アリアは懐かしく思い出す。
彼女には、”終わりの日” の事は告げていない。告げずに、寂しくて仕方ないからという理由で(1ヶ月だけの約束で)ここに来てもらった。
アリアの胸の内にある事実を知っても知らなくても、マーガレットは自身の生き方を変えることはないだろう。知らない幸福よりも知る不幸を願う彼女のことだ。アリアの心の中を知ったら、きっと怒るに違いない。
だけど、アリアはマーガレットに、覚悟をして欲しくなかった。自分がしてきたことが無駄だったと、1秒だって考えて欲しくはなかった。アリアの決断は、正しくはないだろう。だけど間違ってもいないと信じている。
ポーカーフェイスは、昔から得意だ。自分に必要なのは覚悟だけ。アリアはそう思いつつ、マーガレットが手にしている書類に目をやる。
「――それは?」
「ああ、これ? ちょっとしたレポート。ある種の男たちが、女たちを支配下に置くやり方をどんどん巧妙化させてるって、そういう暗い話よ」
「あなたたちが、あれだけ頑張ってるのに?」
「全然よ! SNSで発信しようが、私たちが訪問しようが、女たちは隠され、情報からは遠ざけられ、自分の方が悪いと思い込まされる。ベラ・スコットの事件を覚えてる? あんな風に法律だってなかなか守ってくれないし――」
「――何か、私にできることは?」
「あー、そうね、えーと……。待って。やっぱりダメ。今、私の煮えたぎった頭であなたに頼み事をしたら、”くそったれどもの尻をバットでぶん殴る法案” に署名してって言ってしまいそう」
「いいわね、そういうの。派手に打ち上げちゃいましょうか」
「この計画が頓挫したら、その時にはお願いするわ。こういう問題にちゃんと向き合ってくれる議員たちもいるのよ。その人たちを通じて、正々堂々と提案するつもりよ」
「楽しみにしてる。……まだ時間がかかりそう?」
「もうちょっと、かかるわ。先に寝てて」
「了解。おやすみなさい、愛しい人」
「おやすみなさい、私の愛するアリア」
マーガレットの部屋を出て、アリアはあの置き時計の前に立つ。報告されている予定時刻まで、もう少しだ。
アリアは目を閉じ、そして思いをはせる。
今、この瞬間に生を受けた命に。
今まさに、この世から離れようとしている魂に。
小さな成功に喜ぶ人たちに。
失意と絶望に打ちひしがれている人たちにも。
そしてアリアは祈る。
全ての人たちが、最後の瞬間まで、自らの人生を生きられますようにと――。
時計が止まる、5分前 黒川亜季 @_aki_kurokawa
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