町中華屋のマイコー
早時期仮名子
第1話 西紅柿炒鶏蛋(トマトと卵炒め)
地下鉄に乗り換えて、イヤホンを両耳にねじ込んだ。テイ・トウワ の「The Burning Plain」を再生する。電子音のイントロのあと、高橋幸宏の歌声が滑らかに耳の奥に流れてゆく。ユキさんのカフェに行くときは、この曲を聴きながら歩いていた。
「店長さんは、何でユキさんって呼ばれてるんですか」
と尋ねた時に、
「俺、名前ユキヒロだから。YMOのタカハシユキヒロと同じ漢字だよ」
と言われたから。
俺が、わいえむおー、と呟いたら、ユキさんは衝撃を受けていた。
「嘘っ、ミライくん YMO知らないの?」
「世代じゃない、ってやつですかね」
「いやいややめて俺だって YMO世代じゃないから。ていうか YMOは全世代共通だよ。ミライくん何百年も前の絵だけど『青い牛乳の女』知ってるでしょ」
その絵はたぶん「青いターバンの少女」と「牛乳を注ぐ女」がコラージュされている。そして、言わんとするところは分かるが、それならTheBeatlesとかQueenの方が喩えとしては適切だ、と思う。そんなやり取りをした日から、もう一年半経ち、俺は先月十九歳になった。
この地下鉄の沿線にユキさんのカフェはなく、その代わり彼の自宅がある。日曜の二十一時半に、郊外から都心側に向かう地下鉄に乗り、友達とは違う関係になったばかりの人の住む駅に行く。俺は今、地下鉄と同じ速度で大人になっていく。空席の目立つ車内で、ちっとも座る気にならずドアにもたれ掛かった。
改札でユキさんと落ち合った。向かい合い、少し顔を上げて彼の額を見れば、店ではきちんとアップにしている前髪が、少し崩れて眉間にかかっている。おつかれ、とシンプルな会話を交わし、ユキさんの左側に立って歩き始めた。白いノーカラーのシャツから流れ出す、コーヒーのこうばしい香りが鼻を掠めた。
長い地下通路を抜けて、道路脇に溜まる桜の花びらを避けながら、駅前の中華屋「楽楽」に向かった。ビルの一階に、赤地に黄色で「中国酒家 楽楽」と書かれたデカい看板が掲げられている。ドアを開けた瞬間から、オイスターソースとニンニクと胡麻油の香りに取り込まれた。コーヒーの香りがどうのとか一気に吹っ飛んだ。
入り口すぐの壁際の四人掛けの席に座った。壁際四卓、中央にも四卓と、気取りのない町中華屋の雰囲気の割に広い店内。それに比例する分厚いメニュー表を開く。冷菜だけで一ページあった。圧倒されるとともに、俺は物凄く腹が減っている、ということに気が付いた。どうしよう、まず肉料理から決めるべきか、大人しくメニューの頭から見ていくべきかと思案していたら、ユキさんが
「ねぇ、この店マイコー御用達らしいよ」
と言った。
俺は(はいはいまた出たよ)と思う。本日一発目のすっとぼけ、今回は「全然一般化されてない名詞を会話に放り込む」だ。全くいつもの調子と変わらない。わざわざ自分の成長や俺達の関係性の進展を地下鉄の速度に重ねた俺のセンチメンタルを見習ってほしい。
メニューから目を上げずに聞いた。
「マイコーって何」
「えっ勘弁してよ、ミライくん知らない? また世代がどうのとかってやつ? 知らないかぁ、キングオブポップ」
「……ジャクソン家の方ですか」
「なんだぁ、知ってるじゃん! マイケル・ジャクソン」
「そこはマイコーって言わないのか」
それはちょっと違うんだよねぇ、と言って、ユキさんは勝手にメニューの吟味に戻った。ミライくん、何か食べたいのある? と聞かれたが、まず何があって何がないのかすら分からない。ここは、キングオブポップの力を借りるべきだ。
「マイコーさんは何食ってたの」
「え、知らない」
俺は空腹時の切実な数十秒を、「マイケル・ジャクソンをマイコーと呼ぶ人が居る」という情報を入手するためだけに使ってしまった。
「……調べとけや」
「うわっ、口悪っ。そういうのさ、ミライくんは未成年だとかお友達だと思ってた俺はスルーしてきたけどさ、彼氏となった俺は何て言うかな」
「最後矢沢栄吉みたいだったな」
「『僕はいいけどYAZAWAは何て言うかな』ってやつね。いいよねあれ。無意識だったけど使えて嬉しいなぁ。ていうか、それは知ってんだね。ミライくんの世代感ってどうなってんの」
もうニコニコしている。カリスマのお陰でユキさんへの不遜な態度から論点を逸らせた。しかし毎回こうしてやり過ごすわけにもいくまい。俺は、「尊重」と「尊敬」を態度で示す、ということを覚えなきゃいけない。
「ごめんね」
おっ、とデカめのリアクションをして、いいよぉ、と言われたのでこの件は終わったことになった。
「で、何食う?」
「せっかくだからマイコーと同じもの食べたいよねぇ」
「いや、分かんないじゃんだから」
間が開いた。うわ、今のもぞんざいな口調だったか?とひやりとしたが、返ってきた答えは壮大だった。
「この店のメニュー全制覇したら、絶対マイコーと同じもの食べたことになるよね」
正気か。そういうテレビ番組あるけど。
「そこまでして、マイコーと同じもの食べたいのか」
「キングオブポップだからねぇ。いや、今日明日の話じゃなくてよ?ここ来るたびに別のメニュー食べていけば、いずれマイコーに辿り着くじゃん、って話」
辿り着く、って、中華食ってたらムーンウォーク出来るようになるのか。そもそも俺のマイケル・ジャクソンの最高知識はムーンウォーク止まりだ。でも、マイコーはさておき、色々食べてみるのは悪くない。
「いいよ、じゃ、頼んだ料理メモしていこう」
おっ乗り気だね、と嬉しそうにしている。相手が嬉しそうにしていればそれもまた悪くない。ユキさんが笑うと、右の口元に小さな窪みができる。俺は会うたびに、これが笑い皺なのか笑窪なのかを知りたい、と思っていた。
ひとまず今回は、それぞれが食べたい料理と炭水化物メニューの計三品を注文することになった。
「ミライくんはさ、肉の国と魚介の国、どっちを統治したい?」
「壮大にすんなよ三国志意識してんのか?」
「わーホントだ。俺今日冴えてるなぁ。で、肉と魚介どっちがいい? ミライくんに選択権をゆずりますよ」
悩ましい所だ。レバニラとかホイコーローとか、絶対間違いない定番どころを選びたければ肉国を攻めるべきだ。しかし、このあたりのオーソドックスな料理であれば、ユキさんが肉国を統治した場合にも手に入る可能性は非常に高い。となれば、俺は、肉国よりは若干個性的というか、変化球なメニューの多い魚介国を統治しよう。
「魚介王」
「おっけー、じゃあ俺肉王ね!」
メニューという地図の、魚介国エリアを見ていく。海鮮XO醤炒め、揚げ太刀魚。
「うわ、やべぇ」
「どうしたの?」
「ここのエビチリ、車エビだ……」
ユキさんが右手を口に当て、うそっ……と言って息を呑む。俺の、いやたぶん俺達の、楽楽への信頼度が急上昇する。
「どうする、今日行くか? エビチリ」
「いやそこはさ、魚介王に任せるけど……でも、隣国の王として一言いい?」
勝手に首脳会談始まってるけど、もうそんなことはどうでもいい。
「今日は、小手調べと行きませんか」
「まぁ、確かにな。バトル漫画だったら、車エビのエビチリは、五巻あたりで登場するやつ」
「ごめんね、出過ぎたこと言って」
「いやいや、やっぱり客観的な意見は大事だから」
隣国からの提言を受け、俺は、手堅い「イカとセロリの黒コショウ炒め」を選んだ。母さんがエリア内異動になり、俺は一人暮らしを始めたばかりなので、隙あらば野菜を摂っておきたい、という気持ちもある。肉王は、俺に冷静に提言した割に、苦悶の表情を浮かべながら熟考している。
「うん、決めた。『トマトと卵炒め』これにしよう」
「ちょっと審議」
「……やっぱり見過ごさなかったね」
これは、審議すべき案件だ。トマトと卵炒めは、卵・豆腐類国の兵である。
「ねぇでもさ、卵は、我が国の鶏大臣の子どもだからね? ほぼ我が国みたいなもんでしょ」
「そういう考え方する国がさぁ」
言いかけて、語弊ある言い方にしかならなさそうだ、と口をつぐんだ。
「ていうか俺、コレ食ったことないわ」
「うっそ。超おいしいよ? これはもう、一国の王としてではなく、一人間として言わせて。ミライくん、食べたほうがいいよ」
久々に、王という立場を離れて考えれば、長らく片想いし、ようやく付き合えた人が俺に食べて欲しいと言っている料理は、是非食べておきたい。
「分かった、じゃあ、イカとセロリの黒コショウ炒めと、トマトと卵炒めな」
ユキさんが店員さんに注文する様子を見ながら、お冷を口に含む。そして、ユキさんの「ここ来るたびに別のメニュー食べていけば」という言葉について考えていた。
俺は、いつ、どのくらいの頻度でここに来ていいんだろうか。
世間の恋人同士は、そういう部分をどうやってすり合わせているんだろう。いや、大学の同期たちは彼女の家に行ったとか来たとか話してはいるけど、俺は何となく、そこに深く入って行けない。そもそも男同士でそんなにつまびらかに恋愛の話なんかしない。
ユキさんに、恋人とはどのくらいの頻度で会ってたの、なんて聞ける訳がない。誰も幸せにならない。
先日勢い余ってChatAIに聞いてしまったら、
〝遠距離恋愛の場合やお互いに忙しいライフスタイルを持っているカップルは、週に一回や月に数回しか会えないこともあります〟
と回答され、AIからしたら週に一回も月に数回も「少ない」扱いなのかと驚愕した。俺は高校時代は、小遣い切り詰めて、やっと週一でユキさんのカフェに行っていた。大学に入って一人暮らしを始めたら、生活圏が離れて週一で行く理由付けもなくなり、月二回程度しか会っていなかった。たぶん、人間界で「週に一回しか会えないのかよ」と言ったら、サーッと相手は引いていくだろう。いや、ユキさんは困ったような笑顔で「ごめんねぇ」と言いそうだ。その口元に、あの窪みはないだろう。引いてくれた方がまだマシだ。AIはまだまだ、人間の感情の機微なんて分かっちゃいない。
俺がAIに勝ち誇っていたら、引き続きメニュー表を見ていたユキさんが大きな声で言った。
「すごいねぇ、町中華なのにフカひれの姿煮とアワビの煮込みあるよ!」
「これマイコーの可能性高いな」
「これ、ミライくんのハタチの誕生日祝いに食べようよ……って、ハタチの誕生日は町中華じゃないか」
「いや、いい。ここがいい」
俺は、誕生日にイイ感じの店に行って、ひととおり食べ終わった後店が暗くなってドリカムのバースデーソングが流れ、花火の刺さったバースデープレートとか運ばれてきたら、絶叫しながら店を飛び出すと思う。ユキさんがそういうイベントを企画しない、という自信はない。
この店だったら確実に、フカひれ旨いアワビ旨い、ビールは苦い、で済むだろう。
そうこうするうちに、俺が希望した「イカとセロリの黒コショウ炒め」が運ばれてきた。飾り包丁が綺麗に網目のように入った四角いイカが、セロリと共にゴロゴロと盛り付けられ、粗く挽かれた黒コショウが白いイカに映える。勝ち確定だ。
ハイハイハイハイハイ、とテーブルの隅の取り皿をユキさんに渡し、「各自な」と宣言して、さっさと好きなだけ自分の皿によそった。
「イカうまっ」
「ぷりぷりだねー、セロリもシャキシャキだしさぁ。家で作ったら絶対イカもそもそになるよね」
俺には、これを作ろうなんて発想はない。曲がりなりにも一人暮らしをしているというのに、袋めんに野菜炒め用カット野菜を突っ込んで「野菜食ったな」と満足している程度だ。
「料理、するんだね」
「するでしょ。都会の一人暮らしで全っ然料理しないのは、サバンナで自分で獲物獲れないのと同じだよ? てかもっとハードル低いしね」
ぐうの音も出ない。自分の食べるものを自分で確保する。それは多分、大人になった生き物としてやらなきゃいけないことだ。
「あでも、普通に牛丼屋もラーメン屋も行くからね? 今日だってこの店来てるし。家でしか食べられない料理ってあるじゃん、そうめんとか」
「そうめんは俺でも茹でられる」
「まぁ例えばだよ。他には……んー。何かある?」
「……えー、あぁ、ポトフとか。おじやとか?」
「あ、そうそう。そういう『あんま体調良くないときに食べたい系』は料理屋さんにはないでしょ」
「コンビニでパウチのおじや……」
俺が言いかけたところで、ユキさんが注文した「トマトと卵炒め」が到着した。
「あー旨そう! 卵トロトロふわふわのうちに食べなー」
ユキさんは取り皿をもう一枚ずつ取って、添えられたスプーンで大皿の半分ほどを一気によそって、ハイ、と渡してくれた。ヒダのある大ぶりのスクランブルエッグが、半熟の卵液をまとってつやつやと一体化している。その隙間から、元「くし切りのトマト」、現「形を崩しつつあるトマト」が顔を出す。
口に入れるとまず、トマトの酸味が感じられた。でもそれは、卵に包まれて穏やかだ。当然のように舌で押しつぶせる、ふんわりととろりの中間の卵。こういうの食べると「卵は飲み物です」とか言い出す奴居そうだ。
もし俺が、あらかじめこの卵の火加減の絶妙さを知っていたら、食べ時を一秒たりとも逃したくないし、きっと我先にと自分の皿によそっている。「トマトの卵炒めをよそってもらいましたけど、この人は私のことをどう思っていますか」って聞かれて、AIは何て答えるだろうか。
油断したところで、右頬側で噛んだトマトの種部分がめちゃくちゃ熱かった。上向いて口開けて蒸気を逃がしていると、同じことしている人がいる。今、同じもん食って、同じくらい熱くて、同じくらい旨いんだな、と思った。
同じではない。同じ「くらい」。俺とユキさんの味覚は確実に違う。俺は、ユキさんが淹れたコーヒーでさえ、途中からミルク足してもらわないと飲めない。たまに、いやそこそこの頻度で不安になる。俺は数字上大人だけど、十七から俺を知っているユキさんにしたら、俺が子どもから大人になるグラデーションは緩やかすぎて、十七の頃とどう変わったの? って思っていそうだ。いやでも、結局十九になって大人初心者マークが取れたということで付き合えたわけだし
「ね、ミライくん聞いてる?」
「全然聞いてない」
「うん、知ってて聞いたよ。炭水化物メニュー大ライスでいい?」
「……おい、マイコーどんだけこの店のライス気に入ってんだよ」
「分かんないよ? 水加減絶妙! って思ったかもしれないよ?」
「白米の水加減の絶妙さ感じ取れるって、マイコー日本人なんじゃないのか」
しかしまぁ、トマトの卵炒めをのっけた大ライスは抜群に旨かった。トマト汁と卵汁を余すことなく堪能できる。
大ライスをレンゲでかき込みながら、俺は、料理が供される前に検討していた課題「この店にどのくらいの頻度で来られるか」を探る質問を思いついてしまった。
「あのさ、マイコーに辿り着くまで、どれくらいかかると思う?」
「え、お金?」
「じゃなくて、期間。何年がかりになんのかな、って」
あ、口滑ったな、と思った。これじゃ、頻度気にしてる奴以前に、どのくらいの期間一緒に居られるか気にしてる奴みたいだ。しかも初っ端から年単位。数秒前に戻って、口から出た文章全部deleteしたい、と思いながら、ライスだけを口に押し込む。ユキさんは、大ライスの茶碗、というか丼を脇によけ、メニューを広げて、えーっと、と数え始めた。好物のトマトの卵炒めがまだ、皿に残っている。分厚いメニューの品数を数えた後は、スマホを取り出して弄り始めた。頼むから、先に食べてくれよと言いたいが、タイミングを逸した。
「……一年だね!」
「それ、どういう計算なの。あ、いや、食べながらでいい」
ユキさんは、あそう? と言ってトマトひと切れとライスふた口を食べた後、もう一度スマホを手に取った。
「えっとね、まずこの店のメニューが九〇品で、週刊少年ジャンプの年間発売回数が五十二回だから、一回につき二種類頼んだら、一年で余裕で達成できるよ!」
慎重に逆算……するまでもなかった。週刊少年ジャンプの年間発売回数を引き合いに出すということはつまり、週一でこの店に来る、という勘定になっている。あっ、いいんだ、と思った後、二の腕あたりの力がふわっと抜けていく。俺は、なんと質問上手なのかと自画自賛したくなった、いや、現在進行形でしている。ユキさんからメニューを奪って広げた。
「じゃあ、デザートも食おう」
「えっ、じゃあって何? 俺杏仁豆腐ね、絶対あるでしょ?」
「まぁ杏仁豆腐とマンゴープリンは絶対あるな」
デザートのページを開きながら、俺は気付いた。
俺達、会う度にこの店来る計画になってる。いや、中華以外も食おうよ。勢いでつっこみそうになったが、店の人に聞かれるとまずいので、小声で
「二年かかっていいから、色んな店行こう」
と言った。
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