前を向くきっかけ

見鳥望/greed green

「あの瞬間が、前を向いて生きようと思ったきっかけでした」


 これでいいですかと言わんばかりの態度で木崎はパイプ椅子に背をぐったりと預けた。そういった態度を見せられる事自体は慣れているし、そうなって当然だというのも分かる。ただ分からないのは、何度聞いても同じ最後の言葉だ。必ず木崎はこの言葉で話を締めくくる。

 暗唱出来るほど聞いた木崎の話を、俺は頭の中で反芻した。







 もう死のうと思ってたんです。何もかもが嫌になって。

 もともと頭も良くなくて。正直大学も行く気なかったんですけど親が厳しくて。絶対に大学は出ろって。何の為に金をかけて育てたと思ってるんだって。

 

 なんだそれって思いましたよ。僕はお前らの道具か何かなのかって。

 でも育ててもらった恩みたいなものはあったから嫌々ながら受験しました。当然落ちましたけどね。やっぱり気持ちが乗らなくてちゃんと勉強してなかったですから。反抗期って記憶の限りないですけど、一種の反抗みたいな所はありました。

 

 親ですか? めちゃくちゃキレられましたよ。浪人なんてあり得ないって。

 その考えこそあり得ないですよね。でも別に裕福な家じゃない事も分かってたんでキレるるのはなんとなく予想出来てたんですけど。

 なんかそれでこっちもさすがに頭きちゃって。もともと進学する気もないって言ってたのに、お前らが無理矢理受験させてこうなったんだろ。だからお前らが悪いんだって。正直あんまりよく覚えてないですけど、なんか色々僕もなんだかんだ溜まってたんで全部吐き出しまくったんです。

 

 口ではどうにも出来ないと思ったんでしょうかね。初めて親父に殴られました。でも、全然痛くもなんともなかった。強がりとかじゃなくて、人を殴り慣れてなくて咄嗟に手が出ちゃっただけっていう感じでした。

 そこで全て冷めましたね。あぁ手出しちゃうんだこの人って。すごく逆に冷静になって。だから僕も思いっきり殴り返してやりました。年齢のせいなんですかね。ちゃんと人を殴ったのって小学生の喧嘩以来ですけど、こんなに柔らかいんだって思いました。

 親父はめちゃくちゃびっくりしてましたね。まさに驚愕って感じでした。信じられないって顔でその場にへたりこんでました。

 

“出てけ”


 自分の財布からあるだけの万札を引き抜いて力なく投げつけられました。僕はそれを無視して拾わずに、必要最低限の荷物だけまとめてすぐに家を出ました。

 母親ですか? よく覚えてないですけどその場でどうしたらいいか分からずって感じで、最初から最後まで動かず喋りもしてなかったです。どっちもどっちですよね。


 で、家を出たもののやっぱり僕も衝動的な部分があったら段々頭が冷えてきて、これで良かったんだとは思いながら、どうしようかなと思いました。

 そこからとりあえず友達の家とかネカフェを渡り歩きました。最初のうちは、大変だなとか、何やってんだよ、とか言われながら皆僕の事を心配してもくれたんですけど、すぐに「お前どうすんの?」「いつまでこんな事してんの?」「家帰った方がいいよ」とか言われるようになりました。

 結局友達もそんなもので本当に困ったら頼りにならないものですね。誰も味方がいない状態に陥って、とりあえず適当なバイト探して、バイト先とネカフェを往復する生活になりました。

 

 そんな生活が数か月続いた時、ふと物凄い虚無感に襲われました。

 毎日生きる事だけに必死で、好きな物もおいしいものも十分に食えなくて、楽しい事なんて一つもない。

 友達に言われた言葉が頭の中でぐるぐる回り続けました。でも家に帰る選択肢はなかったので結局何一つ答えなんて見つからない。

 親から? いや家を出てから連絡なんて一度もなかったですよ。その程度ですよ。


 完全に詰んだって思いました。もう自分には未来だとか将来なんてものはないんだって。こうやってただ空かした腹を埋める為だけに生きている社会の歯車ですらない不要な一部なんだって。 

 何の為に生きてるんだろう。考えた時に、正にお先真っ暗って感じでした。


 ーーじゃあ終わりにしよう。


 自然な流れでした。僕は死のうと思ってまず死に方を考えました。

 首吊り、焼身、溺死、いや、痛いとか苦しいは避けたい。じゃあ飛び降りだなと思いました。ただ無関係な人に周りになるべく迷惑も掛けたくないなって思ってそんな場所を探しました。

 はい、それで××ダムです。車とかないんで大変ですけど、別に時間も体力も気にする必要はないと思ってそこに決めました。実際歩いて行くとなかなか大変で、着いた頃には夜遅くでへとへとでした。


 夜のダムってだけで雰囲気がありますけど、なおかつ自殺スポットという事もあってどこか異様な空気を肌で感じました。

 死の空気というか。死に導かれる、誘われてるって感じですかね。あれは口ではうまく説明出来ないです。実際に行かれました? じゃあ、なんとなく分かりません? あぁ、そうですか。


 体力の限界って状態でしたけど、ここで休むと明日には死ぬ気が削がれてしまうかもしれない。むしろあまりまともに思考も働いていない今のうちにとっとと死んでやろうと思って際の方まで進みました。

 下を覗くと真っ暗で何も見えませんでした。深淵って言葉がぴったりな、そのままあの世を覗いているかのような闇が見えました。


 ーーあぁ、とうとう終わりか。


 何も残せていない無意味な人生でした。悔いがないわけではなかったですけど、もはや全てが無関係という感覚でした。

 

 一歩踏み出すだけで終われる。たった一歩で全部をリセット出来る。

 生まれ変わりも輪廻もいらない。やり直したいだなんて考えはもちろんない。ただもう終わらせたかった。どうせ何度やっても同じだから。


 覚悟を決めて右足を上げようとしたほんとにその瞬間でした。急に全身に鳥肌が立つ程の寒気を感じました。

 視線でした。後頭部に突き刺さる様な強烈な視線を感じました。

 そんな訳ないんです。他に車やバイクとか人が来ている様子は全くなかったですし、いたらすぐに気付くはずです。なのに真後ろから確実に誰かに見られてるんです。

 

 真後ろですよ。本当に真後ろ。距離で言えばあと一歩で僕と完全に重なってしまう程の近距離。そんな顔されても困りますよ。そっちが何度も説明しろと言うから僕だってあった事をただ話してるんですから。


 それで、びたっと身体が止まってしまって。どうしようかと思いました。前にも後ろにも進めない状況です。一歩踏み出せば落下して確実に死ぬ。後ろを振り返ってもダメ。

 どうダメって言われても。ダメなものダメなんです。そういうのあるでしょ? 予感みたいな。なんとなくここを左に曲がったらダメだとか、些細な事だけどこの二択を間違えると取り返しのつかなくなるような感覚。だから後ろも前と同じぐらいにダメだったんです。


 どうすればいいか分からずその場に立ちすくみました。そうやってしばらく考えてたんです。

 そこでふと気付いたんです。僕は今何を気にしてるんだろうって。

 だってそうでしょ。前に進めば死ぬって、僕はもともとそのつもりでここに来たんです。前を選択する事は正しいんです。

 じゃあ後ろは? 後ろも同じです。死ぬかどうかは分かりませんが、それと同じぐらいの結果は保障されてるんです。だから後ろを振り返るのも正しいんです。

 どっちを選んでも、僕にとっては正解なんです。ただそれに気付くとまた一つ困った事に、どっちの正解を選ぼうかという話になるんですよね。僕はまた考えました。ようやくだいぶと余裕が生まれたんでしょうね。僕は思いました。


 そもそも後ろの奴はなんなんだって。

 そいつは喋るでもなくただ僕を見ているだけなんです。でも目は口ほどに物を言うって言葉あるじゃないですか。強烈な視線の存在は僕に”振り返ってはいけない”と思わせてくるんです。この時点でもちろん目なんて見てないですけど。

 でもこれも矛盾してるんですよ。そいつは本当は見て欲しいんです。振り返ってほしいんです。でも強烈すぎる思念が故に僕は本能的に身の危険からそいつを見ないようにしてるだけなんです。


 後ろを見るな。後ろを見ろ。


 相反する感情の狭間で、いつしか僕は前に足を踏み出すという選択肢より後ろの事ばかり考えていました。

 

 ーー見ればいいじゃないか。

 

 さっきも話したように、後ろを見る事は正解の一つでもあるんです。それでも終われるんだから。だったらもやもやした気持ちで終わるよりすっきりとした気持ちで終わりたい。そう思いますよね?

 

 僕は後ろを振り返る事に決めました。そうすると自然にするすると思考が流れるように繋がっていったんです。

 振り返るという事は、少なくとも前に足を踏み出して今すぐここで死ぬという結果は生まれない。後ろを見てそいつを認識して、僕はまだしばらく生きた状態にあるかもしれない。まだ少し生き続ける。生き続けるというのは前を向く事でもある。


 そうか、僕はまだすぐには死なない。生きる。生きるんだ。生きるのなら前向きに考えてみよう。出来る事をしよう。やっておきたい事をちゃんとしよう。

 雪崩のような感情でした。ずっと歩き続けて気付けば街に戻ってました。へとへとだったはずなのに疲れる事もなくむしろ元気になってました。そんな事に気付く事もなく俺は頭の中でやるべき事を考えながら歩いて家に帰りました。


 あの瞬間が、前を向いて生きようと思ったきっかけでした。

 この先の事は、もう別にいいですよね?




 

 


「木崎は相変わらずか?」

「はい、こっちの頭もおかしくなりそうですよ」


 上司の箱澤は落胆した様子で、そうかと一言だけ残しその場を離れた。


“この先の事は、もう別にいいですよね?”


 この先どころかもうこれ以上何も聞きたくなかった。

 ××ダムから戻ったその足で実家へ赴き両親を滅多刺しにし、両親の血みどろの死体が転がる家の中で睡眠と食事を済ませた後、●●の交差点で警察に止められるまでその場にいる人達を無差別に十八人も刺した。九人は死に、残り半数も重傷の最低最悪な悲劇を巻き起こした張本人だからだ。


 何が前向きだ。頑張りもせずくだらない理由で反抗して家を飛び出し、本気で人生に向き合わずあげく簡単に死を選び取ろうとし、わけもわからないオカルトじみた空気に飲み込まれて、カルト宗教に取り込まれたかのように死に損なった命で無関係な人間達を殺す事の、何が前向きだ。


 刑事を続けていれば胸糞が悪くなる事なんて日常茶飯事だ。罪や死に対しての感覚というのは良くも悪くも一般人より鈍感になってしまう部分はある。それでも消失するものでは決してない。罪、あってはならない死への憎しみも、しっかりと燃え続けている。だからこそ、木崎という人間の全てを許せなかった。


 ただ胸糞の悪さとは違う気味の悪さもあった。


“視線でした。後頭部に突き刺さる様な強烈な視線を感じました”


 木崎の言う通りで、その時間には木崎以外の人間がいない事も既に分かっていた。だから奴のこの発言はまるっきりおかしい。ただのオカルトだ。

 

“っていうか後ろの奴はなんなんだって”


 ××ダムという言葉を聞いた時から薄ら寒いものがあった。そこにきて木崎からこのフレーズが出た時は勘弁してくれと頭を抱えた。

 もちろん無関係だ。もしそこに関係性があったとしても木崎の罪状等が変わるわけでもない。そして表に出るわけでもない。だからこそ余計で蛇足ながら、そんなものまで抱えないといけない現場の人間ならではのどうしようもないクソみたいなしこりが残る。


 ××ダムは確かに自殺スポットとして有名で木崎のように身を投げようとする人間、そして実行してしまう人間が多い場所である。

 南田幸平もダムの底に沈んだ人間の一人だった。奇しくも境遇、年代は木崎とほぼ一緒。ただ事の順番は逆だった。南田は両親を撲殺した後、××ダムで自殺した。


 後ろの奴。それが南田だったのかは分からない。南田だったとして木崎に何を思い伝えようとしたのか。味方、同情、仲間。どうだろう。そんなふうに思うだろうか。そう思ったから見て欲しかったのか。

 だがもし幽霊という存在がこの世にいるとするなら、南田の無念よりも木崎達のような身勝手な人間により殺された者達の方が強いに決まっている。

 彼らの無念がより明確に具現化されて漂う世界になったとしたら、この世界は途轍もない悲劇に向かうような気がしてならなかった。

 

“些細な事だけどこの二択を間違えると取り返しのつかなくなるような感覚。だから後ろも前と同じぐらいにダメだったんです”


 その通りだよ。ならばーー。


“あの瞬間が、前を向いて生きようと思ったきっかけでした”


 お前はせめて足を前に向けて落ちるべきだったんだ。それがお前に出来る最後の前向きのはずだったのに。

 また一つ悔やみきれない無念をぶら下げ、再び木崎のいる取調室へと戻ろうと部屋に足を向けた所でぴたりと足が止まった。


“ただ無関係な人に周りになるべく迷惑も掛けたくないなって思ってそんな場所を探しました”


 死のうとする前の木崎の言葉。全てを諦めながらこの時点では周りへの配慮は最低限持ち合わせていた。

“ずっと歩き続けて気付けば街に戻ってました。へとへとだったはずなのに、疲れる事もなく、むしろ元気になってました。


 木崎は振り返ったはずだ。だが肝心な”後ろの奴”の説明は何度も聞いた供述の中で一度たりともなかった。これだけ詳細を語っているのに、この部分に関してだけは抜け落ちているかのように言及されていない。


“そんな事に気付く事もなく俺は頭の中でやるべき事を考えながら歩いて家に帰りました”


 ドアノブに手をかける。だがすぐには捻る事を身体が躊躇った。

 この部屋の中にいるのは、誰なんだ。

 俺がずっと向き合ってきた人間は、誰なんだ。


 ぎぃっとノブを捻る。木崎と目が合う。


“あの瞬間が、前を向いて生きようと思ったきっかけでした”


 そのきっかけが木崎のものか、南田のものか、はたまた全く別の何かなのか。

 新たに生え伸びていく何本もの蛇足が足元から絡みついてくる不快さを感じながら、俺は部屋の中へ一歩踏み出した。

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