最終話 ジャスミン茶の炭酸割りと、ペラペラのハムカツ。

「アタシは凄く好きだったんだけどねぇ…」

年末年始の慌ただしさを超えて、ようやく落ち着きを取り戻し始めた一月中旬。

私はジュエル編集長岸辺大五郎に呼び出され、蒲田駅から徒歩八分というなんとも絶妙な場所に佇む居酒屋「睢水亭」に来ていた。


カウンター席が八つと四人用の座敷席が二つあるだけの小さな店。それも四人用とは名ばかりで、大柄な大五郎が座敷に座れば隣には下敷きくらい薄い人間じゃないと座れない。鞄置き場なる崇高な施設もないので、今彼の隣には分厚い革の鞄が座っている。それで目一杯だ。

「氷雨澤青さん、あぁ今はペンネームをつけられてたわね」

大五郎は分厚い鞄から先月末発行された「ジュエル新年特大号」を取り出した。

表紙はもちろん鳴宮麗子の新作「老人と海子」だ。

イケメンすぎるおじいちゃんと純朴な顔をした少女が、漫画制作を通して「恋」のようで「愛」のようで「人生」のような作品を作っていくという、誰しもの胸を打つ感動作品だった。

鳴宮麗子の新境地であり真骨頂、こういうのでいいんだよ、こういうので。といった形でSNS上でもだいぶと話題になり、超ロングランとなった「虹の窓」の影響もあってか、早くも実写映画化を望む声が多く上がっていた。


老人と海子がデカデカと載る表紙の片隅、太めの丸で囲われた中に「期待の新人、読切十九ページ!」の小さな文字を冠にするように氷雨澤青の作品は掲載された。

俗世にまみれた天使と、真面目で繊細な少年とのラブコメディだ。

少女漫画王道のキラキラ作画でありながら、テンポを重視したコメディ展開で、全く違う二人だからこそ互いに惹かれ合っていく様子を描いた作品に仕上がった。

最初は俗物天使に振り回されているばかりの主人公が、自分の好きなもをひとつひとつ見つけていく中で、自分にとっての幸せというものが何なのか、生きるとはなんなのかということを少しずつ紐解いていく。

そうして幸せになっていく少年を見るうちに、天使は自分の役割の崇高さを思い出し、少年の幸せが自分の幸せだと感じるようになる。

だが少年を幸せにしたことで、天使はその仕事量を認められ天界に帰ることになってしまう。

元々住む世界の違う少年と天使は別れ別れになってしまう…かと思いきや、天使がいなくて悲しいと思う少年の気持ちが、また天使を呼んで、「堂々巡りじゃねぇか!」と天使がキレるというところでまとまった。


キャラクターはあまり少女向けではないかもしれないが、お互いに好きとかは言わないけれど、「一緒にいることが幸せ」だという読後の爽やかさは少女漫画として悪くないものになっていると思う。


だがこれは私の感想だ。

読者の反応がどうだったのかということは「読者アンケート」によって明らかになる。当然読者全員がアンケートを送ってくれるわけではないので、一部読者の声というのが正しいわけだが、漫画を読んだ後にわざわざアンケートに答えてくれる熱心な読者の声を無碍にする編集者はいない。

そして、アンケート結果を一番真摯に受け止めるのは、もしかしたら編集長という人間かもしれない。

「コメディはね、難しいのよね」

まだ突き出しの小鉢しか乗っていないテーブルの上、ジュエル編集長岸辺大五郎は置いたジュエルの表紙をそっと撫でた。

「有難いことに新年特大号は結構売れたのよ。電子版もそうだけど、紙媒体としてはここ数年でいちばんの売り上げだったわ」

嬉しい報告をしているはずなのに、大五郎は暗く沈んだ声だ。

「雑誌の売れ行きが伸びるほど、読者さんからのアンケートも多く届く。もちろん毎月購入してくださってる方からも届くけど、新年特大号しか買ってない読者さんからも届くわ。つまりそれって、連載作家さんたちは「お話の途中」を読んでもらってのアンケートだけど、麗子先生の新作と、氷雨澤さんの読切だけはお話の最初から読んでもらえての評価になる。圧倒的に有利なアンケートってことよね…」

小さく息を吐き出す大五郎の姿を、真正面からじっと捉え続ける。

私のその視線から一旦退避するかのように、大五郎はカウンター奥の店主に声を飛ばした。

「すみません、特上カルビ三人前ください」

はーい、と呼応する店主に合わせて

「あと、メガハイボール三杯も一緒にお願いします」

と放った。その言葉に私は思わずテーブルから身を乗り出していた。

「やったんか!?」

大五郎は不敵な笑いを浮かべて、鞄の中から一枚の紙を取り出した。

「おめでとう、アンケート二位よ」

大五郎の手からひったくるようにして奪ったその紙には、新年特大号に寄せられた読者アンケートの結果が並んでいた。

青の作品は、鳴宮麗子の新作に次いで二位の得票数を獲得していた。

大五郎がわざとのように暗い声を出していたから、おそらく良い結果なんだろうということは予測していたが、名だたる連載陣の作品の上に輝く名前が、じわりと歪んで滲む。

「バカね、泣くことないじゃない」

大五郎はピンクのシャツの胸ポケットから白いハンカチを取り出した。私は奪うようにそのハンカチをとって鼻をかむ。

「あ、わりぃ」

鼻をかんでから、大五郎に視線を向けた。

「いいわよ別に。それ元々はアンタのだから」

そう言った大五郎は白いハンカチを指さしていた。

「私の?」

「そうよ」

そう言われてみると、確かに倉庫の鍵まで可愛く彩る大五郎の持ち物にしては随分シンプルなハンカチだ。だがもとは私のものだと言われてもピンとはこない。

「覚えてないのも無理ないけどね、もう十年以上前の話だから」

「十年?」

私は首を傾けた。

十年といえば、お互いにまだ新入社員だった頃だ。当時はよくこの睢水亭に来ていたっけ。

「こんなんいつ渡したんや?」

お互い誕生日くらいは知っているし、プレゼントを送り合ったことも一度や二度ではないはずだが、可愛いもの好きの大五郎にボケで筋肉ムキムキフィギュアとか、流しそうめん用の割った竹とか贈ったことは覚えているが、いかんせん白いハンカチなんか贈った記憶がない。ボケとしては意図がわからなすぎるし、大五郎の趣味を考えると贈る理由が全く見つからない。

くしゃくしゃにしたハンカチをじろじろ眺めたが、どんなタイミングで贈ったのかまったく思い出せない。

そんな私に向かって大五郎はため息まじりに笑っていた。

「最終面接の日よ。アンタがそのハンカチくれたのは」

最終面接、そう言われて思い出した。

あれは、大五郎と初めて会った日の事だ。


お互いに大学四年生の秋、今の会社の最終面接で一緒になったのが大五郎との出会いだった。

最終面接とはいえ、黒スーツを着た大学生が数十人は居るデカい控室で、誰より大柄な体の大五郎は小動物のように小さく震えて今にも泣き出しそうな顔をしていた。

あんなに震えて大丈夫かなと思って眺めていると、大五郎が控え室を出たのが見えたので、トイレにも行きたかったしちょうどいいやと、なんとなく後をついて行った。

するとトイレの手前の廊下で大五郎はよろよろと壁に寄りかかったのだ。「おいおい大丈夫か」と声をかけると、大五郎は大きな背を丸め、しくしくと泣き出したんだ。


「あの時渡したハンカチ、まだ持ってたんか?」

大きな体を小さく振るわせて泣く当時の大五郎に渡したのが、この白いハンカチだったことを今になって思い出した。

「えぇそうよ」

ジュエル編集長となった大五郎は目尻に皺を寄せて笑う。

「あの日のアタシは、憧れの少女漫画の編集になりたい、男の子でも可愛いものが好きでいいって広く知らしめたいと思って面接に来たのに、黒のリクルートスーツに身を包んだ自分が惨めで悲しかったのよ」

確かに若かりし日の大五郎は、そんなことを言って泣いていた。

「会社側はどんな格好でも良いって言ってたのにさ、可愛い洋服を着て行く勇気が持てなくて。相手によく見られたくて、信念曲げてリクルートスーツを着た自分が悲しかった」

大五郎はそう言って、テーブルに肘をつけて頬杖をつく。

「そんなアタシにさ、アンタがそれをくれたのよ」

指差されたハンカチに、記憶が鮮明に蘇る。

最終面接の日、泣き出した大五郎にハンカチを渡せたのは奇跡だった。

母親に「面接の時くらいしっかりしろ」と持たされたハンカチだったが、いつもならいくら言われても「使わんしいらへんわ!トイレ行ったら風がぶおーなるヤツでババっと乾かしたらええねん」と突っぱねていたのに、今日に限って持ってきたのは、やっぱり自分も人からよく見られたいと思う気持ちがあったからだと話すと、大五郎は少し泣き止んだ。

だから私はケラケラ笑って、大五郎にハンカチを押し付けたんだ。

大五郎も私も人から良く見られたくて、良い格好しようとしてスーツを着たりハンカチを持ってきたりした。だがここで良い格好したら、この先ずーとやりたくもない良い格好をしなくちゃいけなくなる。そんなの嫌だ。だからこのハンカチは大五郎に貰って欲しいと押し付けた。私が私らしくいるためには、持っていてはいけないものだったから。

そのハンカチが彼の勇気になったどうかはわからないが、私も大五郎も無事に今の会社に入社することができた。

入社式で顔を合わせた時はお互いに抱き合って喜び、その足でこの睢水亭にやってきたんだ。

「もし会えたら渡そうと思って」と綺麗な箱に入ったレースのハンカチを差し出す大五郎に「いらへんわ!トイレ行ったらぶおーってすんねん」と言って笑った。「もう、身だしなみでしょ?」と母親みたいなことをいう大五郎とこの店で飲んだ安酒はそれまでのどんな酒より美味かった。

そうして私が大学時代から使っていたこの狭くて安くて味そこそこの店は、二人の根城になっていき、お互いに忙しくなるまで毎夜のように喜びも愚痴も聞いてくれた。


そして十年。

変わったようで、変わらなかったようで、もしかしたら何かが変わったかもしれない私と大五郎は、今ここで再び酒を飲む時が来たのだ。


「この十年でアンタがどれだけ変わって見えても、心の中には絶対にあの日の優しさが息づいてるはずだって信じてたわ♡」

運ばれてきた特上カルビとメガハイボール三つに、テーブルはあっという間に一杯になる。その向こうで大五郎は穏やかに笑っていた。

「繊細で真面目で一生懸命な人のこと、絶対見捨てられないと思ったのよ」

十年前繊細だった男の言葉には、なるほどなと頷くしかなかった。

「それに不器用なアンタが「鬼悪魔」って言われてるってことは、それだけ仕事を頑張ってる証だってわかってたしね♡」

「ほんまかいな」

「バカね、本物の悪魔は他人から「悪魔だ」って言われないから悪魔なのよ」

どでかいジョッキに手を伸ばした大五郎は、そう言って天使のように笑った。

「というわけで連載準備よろしくね。春の増刊号があるから、そのあたりで考えてるわ」

平気で無茶なスケジュールを組んでくる大五郎の笑顔を見ていると、やはり私は鬼でも悪魔でもないただの人間なのだなと思う。

「悪魔に踊らされるのも、まぁ悪くないって事にしとこうかな」

メガハイボールのジョッキを掴みながらそう言うと、悪魔はにこりと笑っていた。


この話を青にしよう。

これから彼が連載を持つならば、悪魔のような天使と、繊細な少年と、天使のような顔をした悪魔のコメディにするのも面白いかもしれない。とっても素敵なモデルも目の前にいることだし。

そんなことを考えていた時、私のスマホが小さく振動した。

今日アンケート結果が出る事を知る、繊細で真面目な男からの連絡だった。「どうでしたか」という文字が震えているように見える。

元々は一緒に店に来る予定だったが、アンケート結果が悪かったら編集長の前でご飯を食べるなんて拷問には耐えられません、というので仕方なく私が先に結果を聞きに来たというわけだ。

繊細な男からのメッセージにジョッキのスタンプを三つ送って返した。結果が良ければ肉とハイボールを奢ってもらえることを彼は知っている。

そのスタンプにはすぐ既読がついたが、しばらく眺めていても返信はない。意味がわからなかったということはないはずだが、と首を傾げていると、睢水亭の入り口扉が小さな音を立てて開かれた。

店先に現れた人間に、私はニヤリと笑って声を放つ。

「ジャスミン茶の炭酸割りと、ペラペラのハムカツ」

その注文にカウンターの中から「ペラペラは余計じゃい!」と店主の元気な声が返ってきた。店先の人間はその元気な声に身を震わせ、固まった。

「こっちや、こっち」

店先で固まる人間に手招きをする。

私に声をかけられて、人間はようやく歩き始めたが、右手と右足を同時に出す昭和ロボットのような歩き方だ。ぎこちない歩みでテーブル席へと向かってくる姿に、ゲラゲラと声を上げて笑った。

「そない緊張せんでもええやろ、別に取って食わへんで?なぁ編集長サマ?」

「そうですね。今日は先生にお礼がしたくてきていただいたようなものですから」

途端によそ行きの顔になる大五郎に、私はケケケと音を出して笑っていた。

「あ、はい、お邪魔いたします」

歩き方をようやく思い出したかのように、そろそろとやって来た繊細な男に向かって、私は自分の座席の横をポンポンと叩いた。彼の体は下敷きみたいに薄いので、大五郎の隣にも座れないことはないが、大編集長様の横になんか座ったら震えが止まらないタイプの男を手招きする。

亀の歩みでやって来た男は、赤い牛のように何度も頭を下げてからようやく私の隣に座った。

「編集長様の奢りや、好きなだけ食おうぜ」

「好きなだけ奢るって言ったつもりはないんだけど」

目の前の大五郎の言葉は聞こえなかったふりをして、隣に座った男にメニュー表を渡した。メニュー表といっても一枚の紙に店主の下手くそな字が並んでいるだけのものだが、この紙の中には食べさせたいと思っていたものが山のようにあるんだ。

「あぁ、そうだ」

パチンという音を立てて大五郎が手のひらを合わせた。メニュー表を見て戸惑う男に微笑みかけている。

「アタシ、先生に会ったら聞きたい事があったんですよ」

「な、なんでしょうか」

怯えるようにして顔を上げた男に向かい、大五郎は唇の端を引き上げた。

「先生のペンネーム、とっても素敵だと思うんですけど、どんな由来でつけられたものなんですか?」

…これは編集長じゃねぇ、完全に悪友の目をしてやがる。

けれどそんな事には微塵も気付かない隣の男は、背筋をピンと伸ばした。

「はい、その、僕の漫画は、美空さんと心を合わせて作ったものですから」

「そうですか」

男の答えに満足そうに笑った大五郎は、ジュエル新年特大号の表紙をそっと撫でた。

太い丸淵で囲まれた「期待の新人」の冠の下に記された名前は「青空心」だ。

「とても、良い名前ですね」

優しい大五郎の笑みにホッとしたのか、青は私に向かって照れたように笑った。

その笑顔に私の心は驚くほど跳ねるので、丁度運ばれてきたハムカツとジャスミン炭酸割りを指差すことで、彼の視線をカツに向けた。

私の様子を、向かいに座る悪友がにやにや見つめている気がするが、その視線はあえて無視する。悪魔の手のひらで踊らされるのは、悪くない側面もあるとはいえ癪なものだ。

ハムカツを前に手を合わせている青に、テーブルに置かれている醤油を取って渡してやった。「あぁ!これをかけるんでしたね」と手のひらを小さく叩く青と、「出た出た、ハムカツにはソースでしょ」と私の嗜好にケチをつけてくる大五郎。「何言うとんねん、揚げもんは全部醤油や」という持論を振りかざす私。

そんな中、青が「僕は、茜さんの好きなものが食べてみたかったので」と頬を染めるので私の心は高く跳ねる。真横から青の可愛さパンチ、正面から大五郎のにやにや視線。もうどこに目を合わせていいかわからなくなって視線を彷徨わせると、ふとテーブル上のジュエルが目に入った。


―期待の新人、青空心。


産まれてこのかた自分の名前に特別な感想を抱いたことはなかったが、「氷雨澤青」と「美空茜」の心を合わせた名が、今とても愛おしい。


心を壊したいと願った人間と、心の壊れた人間が、心を込めて作った作品は沢山の読者の心を打った。

それは、作品に込められた心が誰かの心を救ったりすることもあるという証明で。

ページを一枚めくればそこに、心を取り戻せる場所があるという証明で。

取り戻した心で、人はまた生きていけるという証明で。


私たちはこれからも、誰かの心を救うことが出来るのかもしれない。


そんなことを考えながら隣に座る青を見た。

彼は手に持った醤油をハムカツにかけようとしているが、おっかなびっくりといった様子でカツの上には二、三粒の黒い水玉模様が描かれている。

「それじゃ味せぇへんやろ、もっとビシャー行ったらええねん」

「あ、はい」

「んもう、好きにさせてあげなさいよ。いいんですよ、醤油なんてかけてもかけなくてもいいんですから」

「あ、はい」

「ええか青、ここは漢気や。編集長にお前の大胆さ見したれ」

「え、あ、はい」

「うちは少女漫画雑誌、漢気よりも乙女心ですよ」

「え、あ、はい」

私と大五郎の顔を交互に見ながら、青は醤油をハムカツの上で彷徨わせる。

「や、やってみます」

二人の編集者からの謎の圧力に、青は醤油をザバっとかけた。そう、ザバっと。

「あ」

「あ」

大五郎と同時に声が出た。

そういえば醤油瓶の後ろについている空気穴を押さえないと、ザバっと出ちゃうよ、というのを教えるのを忘れていた。

「や、やっちゃいましたかね」

私たちの反応を見て、流石にかけすぎたと気づいたのだろう、青は眉を八の字に下げていた。

「だっはっは!」

「あらあらあら」

「す、すみません」

申し訳なさそうな青を見て、私は腹を抱えて笑い転げた。

ほぼほぼ真っ黒になったハムかつの皿を引き寄せて、責任もって三つに分ける。

「おら、大人の責任じゃ」

「まぁこれは確かにそうね」

「あ、はい、いただきます」

分けたハムカツにそれぞれ箸を伸ばして、三人で一斉に口に運んだ。

「しょっぺーぇ〜」

「ソースならまだ良かったのにぃ」

「こ、これがハムカツの味」

「ぜってぇ違うわ!」

目の前のジョッキを掴んでメガハイボールをグビグビと飲み干した。大五郎もジョッキを傾けている。青はそれを真似するようにジャスミン茶の炭酸割りに口をつけていた。

「あ〜あ、祝い酒のはずなのになんでこんなしょっぺぇハムカツ食わなならんのや」

「す、すみません」

「謝る事ないですよ先生、これは茜が悪いですから」

「なんで私?」

「アンタが漢気醤油しろとか言ったせいでしょうが」

「あ、ホンマや。私のせいやん」

「す、すみません」

ペコペコと頭を下げる青と、小言を繰り返す大五郎を尻目に、私はカウンターに向かってハムカツの追加注文をした。

しょっぱいハムカツをアテに久しぶりに飲んだ酒が、とんでもなく美味い。

「この一杯のために生きてる」なんてよく使われる大袈裟な表現も、今この瞬間、私にとっての真実で真理だと思う。

くだらない会話を包み込むように聞いてくれる安居酒屋で、心を分け合った仲間と酒を飲むこと。心の洗濯なんて言葉がよく似合う空間で、私は大五郎と青の顔を交互に見つめた。


心は何度だって壊れてもいい。

きっとそれは挑戦を続けた証だから。

ただ、心が壊れていることが辛くなった時、心を取り戻せる場所があればいい。

その場所の一つを、私たちは作り出せる。

それは何も特別なことじゃなくて、きっとどんな人も、心を壊したり救われたりしながら生きて、お互いに知らぬところで誰かの心を救ったりしている。


そうして救われた心で、

取り戻した心で、

誰かの心を救う場所を、人は作り出せる。


―おいおい、ってことは私たち人間が頑張れば頑張るほど世界が平和になっちまうな。


新たにやってきたハムカツにソースをかけてやる母親のような悪友と、衣ばかりのハムカツを頬張った宝石の顔を見ながら、そんなことを思った。

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しゃち&ロボッ!~限界社畜OLさんはロボットと心探しの旅に出る~ 山下若菜 @sonnawakana

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