君と私の小さな出会い

春野秋風

短編集1

君と私の小さな出会い


「あっ!」


 満員電車から降りようとした瞬間、私の腕から派手な音を立ててスマートフォンが床に落ちた。朝の通勤ラッシュで人々が急いで行き交う駅のホームで、画面が割れたスマートフォンを拾い上げようとした時、誰かの手が同時に伸びてきた。


「大丈夫ですか?」


 見上げると、スーツ姿の男性が心配そうな表情で私を見ていた。格好良すぎない、でも清潔感のある30代前半といった感じの人だった。


「あ、はい……ありがとうございます」


 私、水野咲希は、この時までそれが運命の出会いになるとは思ってもみなかった。

 IT企業で働く28歳のOL。特に目立った特徴もない普通の女性である私が、まさかこんな形で人生が変わるなんて。


「画面、割れちゃいましたね……」


 男性が申し訳なさそうに言った。見てみると確かにスマートフォンの画面は蜘蛛の巣のように細かくひび割れていた。それなりに使っているから、寿命と言えばそうなのかもしれない、と割れた画面を見て自分に言い聞かせる。


「いえ、私の不注意です……」

「あの、もしよろしければ」


 苦笑いを浮かべる私に男性は名刺を懐から取り出し、差し出してきた。


「山田裕介と申します。実は携帯ショップを経営していまして……修理の割引をさせていただければと」


 その瞬間、後ろから誰かが私を強く押した。朝の通勤ラッシュの波に飲まれ、私は思わず前のめりになる。


「きゃっ!」


 気がつけば、私は山田さんに抱きとめられていた。



 その日の夕方、山田さんの名刺に書かれていた携帯ショップを訪ねた。表参道から少し入った路地裏にある小さな店舗。こじんまりとしているが、清潔感があって居心地の良さそうな雰囲気だった。


「いらっしゃいませ!」


店内から元気な声が聞こえる。接客業にぴったりな笑顔の可愛らしい若い女性店員だ。


「あ、水野さん!」


奥から現れた山田さんが私を見つけて柔らかな笑みを浮かべた。朝とは違う、カジュアルチックな制服。それでも颯爽としている。


「本当に来てくれたんですね」

「はい……携帯も必要なので」


 修理を依頼している間、山田さんは色々と話しかけてきた。IT企業で働いていることを話すと、彼も以前はシステムエンジニアだったという。独立して携帯ショップを始めたのは2年前とのこと。


「水野さん……」


 と山田さんが少し照れくさそうに切り出した。


「明日、お昼でもご一緒できませんか?」


 突然の誘いに、私の心臓が大きく跳ねた。



 それから1ヶ月が経った。山田さんとは週に2、3回ほど食事に行くようになっていた。彼の優しさと誠実さに、徐々に心が惹かれていく自分がいた。

 そんなある土曜日の午後、原宿を歩いていると。


「咲希!」


 振り返ると、私の高校時代からの親友である加藤玲子が立っていた。相変わらずできるオンナ感が全身から溢れ出ている。


「久しぶり! あ、そうそう。私、来月結婚するの!」

「えっ!」


 玲子の突然の報告に驚いた。同い年の私たちは、就職してからも親しく付き合っていた。でも最近は互いに忙しくて会えていなかった。


「相手は……覚えてる? 高校の同級生の山田よ」


「山田……君?」


 その瞬間、私の頭の中で何かが引っかかった。


「裕介だよ! 覚えてない?」


 血の気が引いていくのを感じた。高校時代、私には好きな人がいた。山田裕介という名前の、優しくて真面目な男の子。でも告白する勇気がなくて、そのまま卒業してしまった。

 何故忘れていたのだろう、いや心の中に仕舞い込んでいただけか。


 玲子には私が山田くんを好きだったことは伝えていない。単純に恥ずかしかったのもあるが、そういう事はお互いあまり介入しようとはしなかった。それがまさかこんなことになるなんて。




 その夜、一人でワインを飲みながら考え込んでいた。携帯ショップの山田さんと高校時代の山田君。本当に同一人物? でも、山田さんは私のことを知っている様子はなかった。

 スマートフォンが振動した。山田さんからのメッセージだ。


「明日、大事な話があります。できれば夜、お時間いただけませんか?」

 

 山田さんからの連絡に私の心臓が早鐘を打つ。彼も何か気付いているのだろうか?


 翌日、表参道のイタリアンレストランで待ち合わせた。


「実は……」


 席に座り、注文を終えるとふいに山田さんが切り出した。


「水野さんは加藤玲子さんという方と面識があるとお聞きしました」

「ええ、高校時代からの親友です」


 胸が急速に鼓動を始める。この先に続く言葉が予想できてしまい、頭を抱えたくなる。


「実はその加藤玲子さんと山田裕介が近々結婚することになりまして」


 世界が止まったような気がした。


「彼女とは……高校からの付き合いなんです」


 やっぱり。目の前の山田さんは、高校時代の山田君だった。そして玲子の婚約者。高校からの付き合いとは言ったが、その時すでに付き合っていたかは分からないけど。


「それは……おめでとうございます」


 虚無にも似た感情からなんとかその言葉を捻り出す。しかしそこで初めて山田さんの方が酷く辛そうな表情をしているのが見えた。

 何をそんなにと思ったところで、彼は唇をかみしめるように頭を下げて謝罪の言葉を口にしてきた。


「申し訳ありません、僕はその結婚する山田裕介ではありません」


 突然の発言に私はとても混乱した。



「お久しぶりです、水野さん」


突然、店の入り口から声が響いた。振り返ると、そこにはなんとなく見覚えのある、別の男性が立っていた。


「僕が高校時代の山田です」


目の前にいた"山田さん"が慌てて立ち上がり、更に頭を下げてきた。


「申し訳ありません。私の本当の名前は鏑木大介です。山田さんの店を手伝っている社員の一人です」


 混乱する私。すると新しく現れた本物の山田さんが説明を始めた。


「大介は私の従兄弟です。店を手伝ってもらっているんですが……まさか美咲さんに一目惚れして、僕の名前を使うとは」


 結局、その夜は三人で長い話し合いになった。


 鏑木さん……元"山田さん"は、私に出会った時から好意を持っていたという。でも、とっさに出した名刺が山田さんのものだったこともあり、なんとかきっかけを作ろうと成功している従兄弟の名前を借りてしまったと。


「本当に申し訳ありませんでした」


 深く頭を下げる鏑木さん。

 一方、本物の山田さんは玲子の婚約者で、私のことはなんとなく覚えている程度だったらしい。


「僕はずっと貴方を騙していました」


 と鏑木さんが本当に辛そうな表情で言葉を絞り出した。


「貴方に会うのは今日で最後にします。ただ他人のふりをしていたことをちゃんと謝罪すべきだと思って今日の席を設けました。せっかく来ていただいたのに、こんな話で本当に申し訳ありません」


 その瞬間、私の中で何かが溶けていくような感覚があった。確かに騙されたのは事実。でも、この一ヶ月で見せてくれた優しさや誠実さは、紛れもなく鏑木さんのものだった筈だ。


「鏑木さんは私に会うことがもう苦痛になってしまいましたか?」

「そんな事はありませんっ!」


 歯を食いしばり、拳を強く握りながらも鏑木さんは私の目をまっすぐに見据えてきた。


「ただやはり私のしたことは許される行為ではないと……」


 再度肩を落とす鏑木さんをよそに、私は隣で黙って状況を見据える山田さんに向き直った。


「山田さんから見て鏑木さんはどのような方ですか?」

「身内のひいき目なしに、真面目で真っ直ぐなやつですよ。ただ不器用なので、今回も自分自身で謝罪の場を設けましたし。まあ当たり前ですが。店も私名義ですが、現場の責任者は彼です」


 私は山田さんの言葉に小さく頷いた。

 たぶん鏑木さんは不器用で恋愛が下手くそなんだろう。根が真面目なのは見ればわかるので騙されたのは私なのだが、正直騙されたという感覚も薄い。


 なによりあのとき携帯を落として、助けてもらったのは間違いなく彼の善意だった。

 だから私は強く握られた彼の拳を優しく解くように重ねて言った。


「鏑木大介さん、今度は最初から……もう一度私たちの物語を始めませんか?」




 表参道の携帯ショップで、私は受付カウンターに立っている。結局、私はIT企業を辞めて、ここで働くことにした。


「おはよう、咲希さん」


 後ろから優しく肩を叩かれ、振り返ると夫となった大介が優しく微笑んでいた。


「今日は玲子たちが遊びに来るって」

「うん。久しぶりに四人で会えるね」


 時々、人生の思わぬ出会いや誤解が、かけがえのない縁を結ぶことがある。私たちはその証人なのかもしれない。


 窓の外では、東京の街が新しい朝を迎えていた。私たちの物語も、まだ始まったばかり。

 これからどんな展開が待っているのかは分からない。でも、きっと素敵な未来が待っているはず。


 そう信じながら、私は大介の手をそっと握った。


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