【浪漫時代劇妖術アクション短編小説】『蝶化の術士 ―月下の幻翅―』(約8,600字)

藍埜佑(あいのたすく)

【浪漫時代劇妖術アクション短編小説】『蝶化の術士 ―月下の幻翅―』(約8,600字)

●第一章 残火の蝶


 天保十四年、江戸の夜は血に塗れていた。


 寒風が吹き荒れる四谷の裏通りで、一羽の蝶が舞っていた。

 無論、真冬の夜に蝶が舞うはずもなく、それは人の目を惑わす幻。

 しかし、その蝶は確かにそこにいた。

 月光を受けて淡く輝く翅には、血のような深紅の紋様が浮かび上がっている。


 追手の足音が近づいてきた。


「あそこだ! 術士を逃すな!」


 松明の灯りが路地を照らし出す。蝶は軽やかに舞い上がり、瓦屋根の陰に消えた。その直後、蝶がいた場所に一人の女が現れる。


 艶やかな黒髪を月光に溶かし、血色の着物をまとった美しい女。

 胡蝶のお蝶である。


「なかなか手間のかかる追っ手ですこと……」


 お蝶は袂から一枚の扇を取り出した。扇面には金糸で蝶が刺繍されている。


 追手の一団が路地を曲がって姿を現す。黒装束の中に、洋装の男が一人まじっていた。


「観察試料の捕獲を急げ! 生きたまま捕らえるのだ!」


 西洋風の眼鏡をかけた男が叫ぶ。

 百骸機関の研究員、久我貴信である。


 お蝶は扇を優雅に開いた。


「まあ、困りましたわ。私の翅は、誰のものでもございませんことよ」


 扇を振るう手が月光を切り裂く。群青の閃光が放たれ、追手たちの影が壁に揺らめく。


「っ!? 皆、目をつぶれ!」


 久我の警告は遅すぎた。閃光と共に、お蝶の姿が無数の蝶となって四散する。青い光の残像が追手たちの目に焼き付いて離れない。


 その隙をついて、お蝶は暗闇の中へと消えていった。ただし、彼女の右袖には裂傷が入り、その端から血が滴っている。完全な勝利とは言えない脱出だった。


 久我は懐から小瓶を取り出し、地面に落ちた血を根気よく採取する。


「貴重な試料をありがとう、蝶化の術士よ……これで研究が一歩前進する」


 彼の眼鏡に月光が冷たく反射した。



 お蝶が身を寄せる長屋は、神田明神の裏手にあった。


 表には「薬種問屋」の看板を掲げているが、実際は隠密たちの隠れ家として機能している古い建物だ。お蝶は脇差一本で簡単に奥座敷の床板を持ち上げ、地下への階段を露わにした。


 地下室は湿気を帯びており、薬草の香りが漂っている。正体を隠して暮らすには、これ以上ない場所だった。


「お帰りなさい、お蝶様」


 暗がりから現れたのは、十四、五歳ほどの少女。お蝶の世話係を務める雪乃である。


「ただいま、雪乃」


 お蝶は血の滲んだ右腕を押さえながら、壁際の長椅子に腰を下ろした。


「ひどい傷……。早く手当てを」


 雪乃は薬箱から金瘡薬を取り出す。


「最近の百骸機関の連中、だいぶ執念深くなってきましたわね」


 お蝶は着物の袖をたくし上げ、雪乃に腕を差し出した。


「はい。他の術士たちも次々と狙われているそうです」


 包帯を巻きながら、雪乃が囁くように言った。


「時代が変わりつつあるのでしょうね。私たちのような者の居場所は、少しずつ失われていく……」


 お蝶の言葉に、雪乃は黙って頷いた。


 地下室の片隅には、蝋燭の明かりに照らされた蝶の標本が並んでいる。ガラスケースの中で、色とりどりの翅が永遠の眠りについていた。


 お蝶は標本の一つに目を留めた。それは十年前、師匠から最後の教えと共に託された希少種の標本。蝶の翅には、今宵お蝶が見せた技と同じ、深紅の紋様が刻まれていた。


(師匠……私は正しい道を歩んでいるのでしょうか?)


 問いかけに答えるように、標本の蝶が蝋燭の光を反射して儚く輝いた。


 その夜、お蝶は奇妙な夢を見た。


 無数の蝶が舞い、その一つ一つが人の記憶を宿している。それらの蝶は皆、お蝶に何かを伝えようとしているようだった。だが、その声は遠く、意味を理解することはできない。


 目覚めた時、お蝶の頬には一筋の涙が伝っていた。何故泣いていたのか、自分でもわからない。


 ただ、胸の奥に確かな予感があった。何か大きな運命の歯車が、既に廻り始めているという予感を。


 夜明け前の闇の中で、お蝶は静かに目を閉じた。明日もまた、彼女は蝶となって舞わねばならぬ。それが術士の宿命なのだから。



 翌朝、百骸機関本部。


 久我貴信は実験室で徹夜の研究を続けていた。


 壁一面を覆う標本棚には、様々な術士から採取した血液や組織の標本が並んでいる。その中でも特別な位置を占めているのが、蝶化の術に関する検体だった。


「驚くべきことだ……」


 久我は顕微鏡から目を離し、実験ノートに走り書きをする。


「通常の人体には見られない特殊な細胞構造……これこそが変身を可能にする鍵なのか?」


 彼の背後では、巨大な円筒形の培養槽が青白い光を放っていた。槽の中には、人体のような何かが浮かんでいる。


 ガラス越しに、それは不気味な存在感を放っていた。


●第二章 血染めの記憶


 芝居町の喧騒が夕闇に溶けていく頃、お蝶は吉原の高楼「紅蝶楼」を訪れていた。


 表向きは粋な遊び所として知られるこの楼は、実は術士たちの密かな情報交換の場。楼主の蝶々太夫は、かつてお蝶の師匠と深い因縁があった女だという。


「まあ、お蝶さん。お久しゅうございます」


 蝶々太夫は煙管をくゆらせながら、艶のある声で迎え入れた。四十がらみの年齢を感じさせない美貌の持ち主である。


「太夫様、他の術士たちの様子は?」


「ここ一月で、また三人が姿を消しましたわ。またぞろ百骸機関の魔の手が伸びているのでしょう」


 太夫の言葉に、お蝶は眉を寄せた。


「消えた術士たちの名は?」


「鷹の半兵衛、影切りのお梅、それに……」


 太夫は一瞬言葉を詰まらせ、深く煙を吐き出した。


「蛇使いの清一。確か貴女の幼馴染でしたわね」


 お蝶の表情が微かに歪む。清一とは十年来の友。同じ術士の道を歩む仲間だった。


「清一が……そうですか」


 お蝶の脳裏に、懐かしい記憶が蘇る。


 二人で修行に励んだ日々。互いの術を見せ合い、時には競い合った青春の輝き。そして、あの約束。



 春の陽が差し込む道場で、二つの影が舞うように動いていた。


「清一、今日こそは私の蝶を捕まえてみせなさい!」


 お蝶の声が響き、彼女の姿が一瞬にして無数の蝶となって四散する。深紅の紋様を持つ蝶の群れが、道場の梁を縫うように舞い上がる。


「そう簡単には逃がさんぞ、お蝶」


 清一の腕から、青みがかった蛇が滑るように伸び出す。蛇使いの術だ。蛇は空中で分裂し、幾筋もの蛇となって蝶を追いかける。


「まあ、相変わらず器用なこと」


 蝶の群れが一つに集まり、再びお蝶の姿となる。彼女は軽やかに着地すると、扇を広げて構えた。その扇面には、今や実体と化した蝶の刺繍が輝いている。


「だが、お前の術も随分と洗練されたな」


 汗を拭いながら、清一が笑う。彼の黒い髪は肩まで伸び、凛とした顔立ちは周囲の娘たちの噂の的だった。しかし清一の目は、いつもお蝶だけを見つめている。


 二人は幼い頃から共に修行を重ねてきた。最初は互いの術の違いに戸惑いながらも、次第にその個性を認め合い、高め合うようになった。


 ある日の夕暮れ時、道場の縁側で二人は肩を並べて座っていた。


「ねえ清一、私たちの術、いつまで続けられるのかしら」


 夕陽に照らされた空を見上げながら、お蝶が呟く。


「世の中は随分と変わってきている。術士なんて、もう時代遅れなのかもしれない」


 清一は静かにお蝶の手を取った。その手の温もりは、今でもお蝶の心に残っている。


「何を言うんだ。術は我々の魂そのものだ。例え時代が変わろうとも、この力は決して無駄にはならない」


「でも……」


「お蝶」


 清一の声に、真摯な響きが込められる。


「術士の道が終わりを迎えるその時まで、共に生きていこう。それが私からの誓いだ」


 二人の頭上では、夕焼け空に桜の花びらが舞っていた。蝶と蛇の術が交わるように、二つの影が寄り添う。


「ええ、約束よ」


 お蝶の頬に、一筋の涙が伝った。それは喜びの涙なのか、それとも未来への不安の現れなのか。当時の彼女には、まだわからなかった。


 その後も二人の修行は続いた。時に競い合い、時に助け合い。お蝶の蝶は より優美に、清一の蛇はより しなやかに変化していった。


 しかし、そんな穏やかな日々が永遠に続くはずもなかった。世の中の変化は、術士たちの世界にも確実に忍び寄っていた。暗い噂が聞こえ始め、姿を消す術士が増えていく。


 それでも二人は、互いを信じ、術の道を歩み続けた……。



 今、お蝶はあの日々を懐かしく思い出している。清一との約束は果たされなかったかもしれない。しかし、あの時二人で誓った術士の誇りは、今も彼女の中で生き続けている。


「お蝶さん」


 太夫の声が物思いを断ち切った。


「清一さんが最後に残した文(ふみ)がございます。貴女に託すよう、言付けがありましたの」


 太夫は着物の袂から一通の封筒を取り出した。宛名には「胡蝶のお蝶様」と清一の達筆な文字が踊る。


 手紙を開く手が、微かに震えていた。


『お蝶へ

 私の消失を知った時、お前は何を思うだろう。

 百骸機関の研究所で見たものは、私たち術士の想像を遥かに超えていた。彼らは単なる研究者ではない。術士の血肉を糧に、この世ならぬものを生み出そうとしている。

 だが最も恐ろしいことは、それが幕府の密命によるものだと知ったことだ。

 お蝶、気をつけるのだ。特に蝶化の術は、彼らにとって最大の狙い目となるはずだ。

 そして、もう一つ。十年前の師匠の死にも、実は……』


 そこで文字は途切れていた。インクが滲んでいるように見えるが、よく見ると、それは血痕だった。


 お蝶は手紙を胸に押し当てた。


「太夫様、清一の最期を」


「手記を託された翌日、清一さんは研究所に踏み込んだそうです。それっきり、消息は絶えました」


 蝶々太夫の言葉が、重く沈む。


 その時、階下で騒ぎが起こった。


「百骸機関の役人だ!」


 下女の悲鳴が響く。


「お蝶さん、早く!」


 太夫に促され、お蝶は部屋の障子を開けた。


 月光の下、お蝶の姿が一瞬にして蝶と化する。しかし――。


「甘いな、術士よ」


 何者かの放った投げ縄が、蝶となったお蝶を捕らえた。


「仕込んだ術封じの符が効いたようだな」


 久我貴信が、月明かりに照らされて浮かび上がる。


 縄に絡まれ、術を封じられたお蝶は、人の姿に戻されていた。


「まさか、紅蝶楼にまで……」


「お前の素性は以前から掴んでいた。ただ、清一という餌を使って、お前を出てくるのを待っていただけさ」


 久我の言葉に、お蝶は目を見開いた。


「清一を、あなたたちが!」


「彼の研究データは、大いに参考になったよ。特に、術士の血肉が持つ特殊な性質についての知見は素晴らしかった」


 久我は冷ややかに言い放つ。その背後では、黒装束の部下たちが次々と姿を現す。


 お蝶は必死に術を呼び覚まそうとしたが、符の力が邪魔をして、蝶になることができない。


(私の術が封じられるなんて……そんな技術が、既に百骸機関にあるというの?)


 観察するような視線を向けながら、久我が近づいてきた。


「さあ、我々の研究所へようこそ、蝶化の術士よ。貴重な試料を提供してもらうとしよう」


 その時、どこからか一陣の風が吹き抜けた。と同時に、何かが久我の頬を掠めていく。


「なっ!」


 久我の頬に、小さな切り傷が付いていた。


 廊下の闇から、一人の少女が姿を現す。


「お蝶様を渡しはいたしません」


 雪乃が、短刀を構えて立っていた。その目には、ただならぬ殺気が宿っている。


(雪乃……!)


「雪乃、下がって!」


 お蝶の制止も空しく、雪乃は疾風のような速さで久我に斬りかかった。


 しかし――。


「甘いな、少女よ」


 久我の腕が閃く。雪乃の体が、大きく弧を描いて宙を舞った。


「雪乃!」


 お蝶の叫び声が、夜空に木霊する。


 月が雲に隠れ、闇が深まっていく。紅蝶楼の周囲に、不吉な影が蠢いていた。


●第三章 妖蝶抄


 百骸機関の地下研究所は、深い闇を湛えていた。


 お蝶は冷たい実験台に縛り付けられ、混濁する自身の意識と闘っていた。術封じの符の効果か、体から力が抜けていく。


 幾つもの培養槽が青白い光を放ち、不気味な人影を浮かび上がらせている。その中には、人とも蝶ともつかない姿で浮かぶ何かがある。人体実験の痕跡だった。


「目が覚めましたかな、お蝶殿」


 久我の声が、実験室に響く。


「雪乃は……雪乃はどこ!」


「あの少女なら、別室で眠っています。あの娘も興味深い血を持っているようでしてね」


 久我は白衣の袖をまくり上げながら、お蝶に近づいてきた。


「さて、術封じの効果で、貴女の血がどう変化するか、つぶさに観察させていただきましょう」


 銀の解剖メスが、月光のように冷たく光る。


「その前に、知りたいことがあるでしょう? 貴女の師匠の死のことや、清一殿のことを」


 お蝶は射すくめるような目で久我を見つめた。


「お前は一体何を……」


「十年前、あの方から蝶化の術を強制的に抽出しようとした時のことです。あまりに強い抵抗に遭い、予期せぬ事態となってしまいました」


 久我は淡々と語り始めた。その声には、僅かな後悔の響きもない。


「しかし、あの失敗から我々は多くを学びました。術士の血肉は、生きている状態で徐々に採取しなければならない。死んだ後では意味がないのです。その点、清一殿の場合は、かなり上手くいきましたよ」


 お蝶の瞳が憎しみに燃えた。


「許さない……絶対に許さない!」


 その時、研究所の壁が大きく揺れ動く。何かが外から押し寄せてくる気配。


「なっ!」


 壁が轟音と共に崩れ落ち、そこには――一面の蝶が舞っていた。


 数百、いや数千の蝶たち。

 その群れを従えているのは、蝶々太夫の姿。


「そこまでです、久我殿。私の手で術を封じられた蝶を、他人に渡すわけにはまいりませんわ」


 太夫の声が氷のように冴え渡る。


「貴様も術士だというのか!」


「ええ、しかも真正の蝶使いですわ」


 蝶の群れが渦を巻き、実験室内を覆い尽くす。


 その混乱に乗じて、小さな人影が実験台に忍び寄った。


「お蝶様!」


 雪乃が駆け寄り、お蝶の拘束を解いていく。


「雪乃、無事だったの!」


「はい。太夫様の計らいで……」


 しかし喜びもつかの間、久我の冷笑が響いた。


「愚かな……術封じの符を破れるとでも思うのか?」


 彼が懐から取り出したのは、見覚えのある標本。十年前、お蝶の師匠から託された希少種の蝶だった。


「この標本こそが、術封じの核。お前の師匠から抽出した術の結晶なのだ」


 お蝶の瞳が見開かれる。


(そうか、だからあの標本には深紅の紋様が……!)


 その時、思いがけない声が響いた。


「やはり、そうでしたか」


 雪乃の声が、いつもと違う響きを帯びている。


 少女は静かに目を閉じ、何かを解き放つように深く息を吐いた。すると――。


「なっ!」


 久我の驚愕の声が上がる。


 雪乃の姿が、まるで蝶の羽化のように、光に包まれていく。


「雪乃、まさか貴女……」


 お蝶の言葉が途切れる中、光が薄れていった。


 そこに立っていたのは、まさに十年前に死んだはずの、お蝶の師匠だった。


「久我よ、私の術は、そう簡単には奪えんぞ」


 しかし、その声は雪乃のままだった。


「お前は……いや、記憶が……!」


 動揺する久我。しかし彼はすぐに表情を改め、嗤った。


「そうか、『血肉の記憶』の術か。面白い! 実に面白い!」


 彼は懐から何かを取り出した。それは小瓶に入った、濃紺の液体。


「ならば、私も最後の切り札を使わせていただこう。清一殿から抽出した、禁断の血清を!」


 久我は躊躇なくその液体を飲み干した。


 彼の体が、異形に変容していく。


 蝶の群れが舞い、実験室の灯りが揺らめく中、決戦の時は刻一刻と近づいていた。



●第四章 天蛹の舞


 久我の体が、底知れぬ闇のように膨れ上がっていく。


 人の形を失った肉塊が蠢き、その中心から無数の触手が伸び出す。それらは蝶の羽を思わせる薄膜を持ち、不規則に脈動している。


「は、はは……これこそが、術士の血肉が持つ究極の可能性!」


 久我の声は、もはや人のものとは思えない響きに変わっていた。


「お蝶様、あの姿は……」


 雪乃の声に、お蝶は答える。


「清一の蛇使いの術と、他の術士たちの血肉が混ざり合った、穢れた姿ね」


 術封じの符の効果は未だ消えていない。しかし、お蝶の中で何かが目覚めようとしていた。


(私の中の記憶が……囁き出している……)


 実験室の壁を伝って、久我の触手が這い回る。


「蝶々太夫、その群れも私のものにしてやろう!」


 触手が、太夫の操る蝶の群れに襲いかかった。接触した蝶は瞬時に朽ち果て、その死骸が実験室の床に雨のように降り注ぐ。


「まさか……術が……喰われていく!?」


 太夫の声に焦りの色が浮かぶ。


 その時、雪乃が静かに前に出た。その姿は、いつの間にか再び少女の姿に戻っている。


「お蝶様、私の中の記憶をお返しします」


「え?」


「十年前、師匠様は自らの記憶を分けて、術の真髄を守られた。その半分は標本に、もう半分は……私の中に」


 雪乃の手が、お蝶の胸に優しく触れる。


「時が来るまで、私が預かっていたのです」


 温かな光が、二人を包み込んだ。


 その瞬間、お蝶の意識が大きく揺れる。


 無数の記憶の断片が、万華鏡のように心の中で噴き出す。そこには師匠との日々、修行の真意、そして術の究極の姿が――。


「これが、本当の蝶化の術!」


 お蝶の叫びと共に、符の力が砕け散った。


 彼女の背後に、巨大な蝶の翅が展開する。それは通常の術による変化とは異なり、幻想的な輝きを放っていた。お蝶の体は人の姿のまま、しかし確かな術の力に満ちている。


「なんだと!」


 久我の触手が、一斉にお蝶に向かって伸びる。


 しかし、翅が放つ光は触手を寄せ付けない。それどころか、その光に触れた部分が、まるで浄化されるように消えていく。


「貴様の穢れた術など、私の蝶には敵わない!」


 光の翅が、優雅な弧を描く。


 実験室内に、金色の粉が舞い散る。それは蝶の鱗粉を思わせるが、触れるものすべてを浄化していく聖なる光となって、久我の異形の体を包み込んでいった。


「ぐあああ!」


 久我の絶叫が、実験室に響き渡る。


 その体が、光に蝕まれるように溶けていく。そして、残されたのは人の姿の久我。もはや術の気配は、微塵も感じられない。


「私の……研究が……」


 久我の声が途切れ、彼は静かに崩れ落ちた。


 実験室の培養槽が次々と砕け、中の液体が床に溢れ出す。その中で、お蝶は静かに目を閉じた。


(師匠、清一……あなたたちの想いを、私が引き継ぎます)


「お蝶様……」


 雪乃の声が、遠くに消えていく。


 気がつけば、少女の姿は消え、代わりに一羽の白い蝶が舞っていた。


「ありがとう、雪乃」


 お蝶の頬を、一筋の涙が伝う。


 蝶々太夫は、すべてを見守るように立っていた。


「術士の時代は終わりを告げる。でも、それは新しい始まりでもある」


 太夫の言葉が、夜明けを告げるように響く。


 実験室の天井が崩れ、そこから朝日が差し込んでくる。


 光の中で、無数の蝶が舞い上がっていった。


●第五章 蝶の轍(わだち)


 それから一年が過ぎた。


 明治という新しい時代を目前に控え、江戸の街は大きく様変わりしようとしていた。


 神田明神の境内では、夕暮れの風に乗って一羽の蝶が舞っている。月が昇り始めた空を背景に、その姿は儚く、そして美しい。


 境内の片隅で線香を手向ける女がいた。胡蝶のお蝶である。


 その前には、「雪乃」と刻まれた新しい墓石が建っている。


「もう、術士は私一人になってしまいましたね」


 独り言のような呟きが、夕闇に溶けていく。


 百骸機関は、あの一件を最後に姿を消した。記録は闇に葬られ、術士の存在も、ただの都市伝説として人々の記憶から薄れようとしていた。


 蝶々太夫は、紅蝶楼と共に姿を消した。ある者は太夫が蝶の群れと共に空へ消えたと言い、またある者は、彼女は新しい時代に相応しい姿に生まれ変わったのだと囁く。


「でも、それでいいのかもしれません」


 お蝶は、懐から一枚の写真を取り出した。


 写真には、蝶の標本を手に微笑む外国人の少女が写っている。お蝶が諸国を巡る中で出会った、英国の昆虫学者の娘だ。


 その少女は、蝶の不思議な生態を科学の目で解き明かそうとしていた。しかし、その眼差しには、かつての術士たちが持っていた神秘への畏敬の念が宿っている。


(術の命脈は、こうして新しい形で受け継がれていくのね)


 写真の隣には、一通の手紙が入っている。少女からの手紙には、蝶の研究に関する熱心な質問が綴られていた。


 お蝶は、その手紙に丁寧に返事を書くことにしている。術の真髄を、科学という新しい言葉で紡ぎ直すために。


 ふと、境内の向こうから三味線の音が聞こえてきた。


 見れば、芝居小屋の役者らしき男が、夕涼みがてら弾いている。その唄が、風に乗って運ばれてくる。


『蝶よ蝶よ 時渡る蝶よ

 記憶を運ぶ 翅の舞

 穢れし闇を 光に変え

 新たな道を 照らすらん』


 お蝶は、微かに笑みを浮かべた。


「雪乃、清一、そして師匠……私は行きます」


 夕闇が濃くなる中、お蝶は静かに立ち上がった。


 その背後で、夕陽に照らされた一羽の蝶が、新しい時代へと飛び立っていく。


 やがて、その蝶は幾つもの蝶となり、さらに数を増やしていった。それは、まるで術士たちの想いが、新しい形で命を得たかのようだった。


 お蝶は、蝶の群れを見上げながら、新しい一歩を踏み出す。


 もはや術士という肩書きは必要ない。ただ、蝶と共に生きる一人の女として、未来を紡いでいけばいい。


 その瞳には、確かな光が宿っていた。


(了)



 江戸の空に散った蝶の群れは、やがて世界中を巡っていったという。


 そして時折、不思議な蝶の目撃談が各地で囁かれるようになった。


 それは、術士たちの想いが、永遠に生き続けている証なのかもしれない。


 蝶は今日も、どこかで舞い続けている。


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