交響的練習曲
増田朋美
交響的練習曲
その日は、雨が降って、寒いなあと思われる日であるが、何だか他の地域では、よく晴れているところもあるらしい。よくわからないけど、天気が悪いということは、人の気持ちも悪くしてしまうものらしいのだ。何があったかなあと思われるが、時々、変な事件に遭遇してしまうこともあるようで。
その日、製鉄所にいたジョチさんのところに電話がかかってきた。なんだろうと思ったら、
「お宅に、夏央が行ってない?」
といきなりかかってきたので、ジョチさんはびっくりする。声の口調から、武史くんのクラスメイトである、宮川夏央くんのお母さんだなということは、すぐわかったのであるが。
「いえ、来ていませんが、どうかしましたか?」
とジョチさんは電話口でそう言ったのであるが、
「夏央が、帰ってこないんです。」
と、えらく切迫したような声で、夏央くんのお母さんは言った。
「それはどういうことですかね?」
とジョチさんがいうと、
「だから、夏央が学校に行ったきり帰ってこないんです。学校に電話したら、もうとっくに帰ったと言いますので。」
と、夏央くんのお母さんである、宮川美佐江さんは言った。
「はあ、ということはつまり。」
杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「とりあえず何かあったかもしれないから、宮川さんのお宅に行って聞いてみましょうか。」
と、ジョチさんが提案したため、とりあえず二人は、宮川さんのお宅に行ってみることにした。
「宮川さんどうされたんですか?」
ジョチさんが宮川さんの家の玄関先に向かってそう言うと、美佐江さんがパニック状態で現れて、
「夏央が帰ってこないんです!どうしたらいいでしょう?」
と、二人に言った。それと同時にリビングに設置されていたFAXが音を立ててなって、一枚の紙切れが床の上に落ちた。ジョチさんが、ちょっと失礼しますと言って、リビングに上がり込み、それを拾い上げて読んでみると、こんなことが書いてあった。
「夏央くんを預かった。返してほしければ、身代金として3000万用意しろ。受け渡しは今日の一時。場所は、富士市総合運動公園入口。ってこれは誘拐事件ですね。それでは、すぐに警察へ通報してください。」
と、ジョチさんは美佐江さんに言ったのであるが、美佐江さんはそれどころではないようである。仕方なく、ジョチさんは、自分で警察に通報し、誘拐事件が発生していると告げた。数分して、警察が来てくれて、ご主人の宮川義男さんも帰ってきてくれた。すぐに、銀行口座から、3000万を用意して、カバンに詰めてということをやっていると、あっという間に、一時近くになってしまった。華岡の指示で、宮川さんはそれを持って、バスで総合運動公園に向かう。杉ちゃんの方は、パニックになって落ち着いていられない美佐江さんに、お茶でも飲んで落ち着こうといったが、とてもそれどころではない様子だった。杉ちゃんが出したお茶を、すぐに落としてしまったくらいだから。
「上のお兄さんの方はどうしたんだ?」
杉ちゃんが美佐江さんに聞いた。美佐江さんは、
「そんなことどうでもいいじゃないですか。今は夏央が戻ってきてくれれば。」
と、言うばかりで、上のお兄さん、つまり、宮川真雄くんのことは全く考えていないようだった。
「あのねえ。確かに、夏央くんのことで困っているとは思うんだけどさあ。でも、真雄くんだって、お前さんの子供さんであるわけでしょ。それに弟さんが誘拐されたっていうんじゃ、真雄くんもつらい思いをしていると思うよ。それに、声掛けでもしてやれないのか。」
杉ちゃんはそういうのであるが、美佐江さんは、それどころではないようである。杉ちゃんが真雄くん!とでかい声で言うと、小さな声で、ハイという返事が聞こえてきた。
「こっちへ来て、お母ちゃんと一緒にいろや。そのほうが一人でボサーっとしてるより、いいんじゃないの?」
と、杉ちゃんが言うと、やはりお兄さんの真雄くんは心細かったようで、杉ちゃんたちがいるリビングにやってきた。真雄くんは、現在特別支援学校に通っているという。美佐江さんは、真雄は、一人で何でもやりたがるからというが、
「常の場合じゃないんだよ。何言ってるんだ。」
と杉ちゃんに言われて、渋々こっちへ来なさいといった。真雄くんは、車椅子に乗っていた。その足の障害は生まれつきのものではなく、保育園の運動会で転倒したためだと、美佐江さんから聞かされたことがある。当時、真雄くんは一人っ子であったはずだ。そのまま真雄くん一人で育っていくのかなと思ったら、急に夏央くんが生まれたので、ジョチさんは、そのあたりがどうも変だと言っていたことがある。そして今、夏央くんは誘拐されてしまったのだ。
不意に、自宅の電話がなった。華岡が、犯人からかもしれないと言って、美佐江さんに出るようにと促した。
「はい。宮川です。」
美佐江さんが恐る恐る出る。
「ああ、それなら、夏央は帰ってくるのね!そうでしょう?」
と美佐江さんが言うので、杉ちゃんたちは、身代金受け渡しに成功したのかと思ったら、
「身代金を盗られた?そんなことどうでもいい。夏央が帰ってきてくれれば。」
と言っているので、母親らしいセリフだった。
「それで、犯人はどうしたんだろうね。」
と杉ちゃんが呟くと、華岡のスマートフォンに電話があった。お父さんの義男さんと同行していた刑事からだった。それによると、犯人は、逃がしてしまったということらしいのだ。華岡は、部下の刑事に、何をやってるんだと叱責したが、そんな事をしてもあまり効果はなさそうだった。
「それにしても、犯人は一体誰なのだろうね?宮川さんに、不満のあるやつでもいたんかな?それにしても、すぐにあんな大金用意できるなんて、すごいねえ。それで、夏央くんが帰ってくればいいなんて、すごいセリフを言って。まあ、お母ちゃんが、音大の先生で、お父ちゃんも官僚だから、できるのか。」
杉ちゃんがわざと明るい感じでそういったのであるが、誰も明るい顔はしていなかった。それと同時に、また華岡のスマートフォンがなった。
「もしもし。は?土手に?わかりました。すぐ行きます。」
華岡はすぐ電話を切った。
「なにかあったの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「早川の土手で、子どもが倒れていると通報がありました。」
と、華岡は言った。美佐江さんがすぐに支度をしますと言って、すぐにカバンを取ろうとしたのであるが、パニック状態でそれどころではない買った。ジョチさんが、落ち着いてくださいと言ったが、確かにそれどころでは無いのも理解できた。美佐江さんは華岡と一緒に、パトカーで病院と警察署に出かけることになった。そこで父親の義男さんも合流すると言う。
「真雄くんはどうするんです?」
とジョチさんが言うと、
「そんなこと知りません!もう好きなようにしてください!」
美佐江さんはそう言って、家を飛び出していってしまった。真雄くんが悲しそうにしているのも見なかった。それを見ていた華岡が、
「悪いが、二人で預かってやってくれるか。無理解な親戚なんかに預けるより、いいんじゃないかと思うから。」
と言った。ジョチさんは、すぐに納得したようで、
「わかりました。」
とだけ言った。
「じゃあ、お前さんだけ一人で家にいるわけにもいかないだろうから。今から製鉄所へ行って、うまいもん食べて、休んでような。」
と、杉ちゃんが言うと、
「製鉄所?」
と真雄くんは言う。
「そうだよ。お前さんみたいな、居場所がない奴らがいっぱいいるんだ。みんな優しくていい人たちだぜ。だから、そこでお手玉でもおはじきでもしてような。」
杉ちゃんができるだけ優しく言うと、
「おばちゃんはどうしたのかな?」
と、小さな声で真雄くんは言った。
「おばちゃん?親戚のおばちゃんか?」
杉ちゃんが聞くと、
「違うよ。お手伝いのおばちゃん。いつも僕の面倒はおばちゃんが見てくれてたから。」
彼はすぐに言った。
「はあなるほどね。つまり家政婦さんでも雇ってたのね。そいつが、まあ、お前さんの世話をしていたわけか。お父ちゃんとお母ちゃんは、歩ける弟さんのほうに釘付けか。それも嫌だよな。」
杉ちゃんがそう言うと、
「嫌じゃないよ。だって、歩けないのはもうしょうがないことだから、諦めたよ。」
と真雄くんは言うのだった。ここにいるよりも、製鉄所へ連れて行ったほうが良いと思ったジョチさんは、急いで小薗さんに電話をかけて、車で迎えに来てもらった。そして、杉ちゃんと本人、そして、真雄くんを乗せて、製鉄所へ向かった。
とりあえず、製鉄所には、水穂さんには連絡をしておいたため、製鉄所に到着すると、水穂さんは、牛乳寒天を用意してくれて待ってくれていた。とりあえず、食堂へ案内し、真雄くんに牛乳寒天を食べさせてあげた。
「夏央は、どうしているかな?」
真雄くんは、寒天を食べながら言った。
「夏央くんのことが心配なの?」
水穂さんが言うと、
「だって夏央は、僕の代わりに生まれてきたから。」
と、真雄くんは言った。
「それどういう意味だ?」
杉ちゃんが言うと、
「僕が歩けなくなって、ママはいつも泣いてたの。今度こそ歩ける子がほしいって、パパに一生懸命話してたの。」
真雄くんは言うのであった。それと同時にジョチさんのスマートフォンがなった。
「はい、もしもし。ああそうですか。わかりました。運転していた女が白状したんですね。それは良かった。そうですか。葬儀に出さないというのも、どうかと思いますけど、まあ、そうですね。そういうことでは、そうしたほうがいいかもしれません。はい。わかりました。」
ジョチさんはそう言って電話を切った。
「どうしたんだ?」
杉ちゃんがそう聞いたが、
「ええ、まあ、予測していたとおりですよ。それで、緊急配備をしたところ、不審な白い車が見つかったようで、運転していた女性に事情を聞くと、夏央くんの事を認めたので、それで緊急逮捕したそうです。」
とジョチさんは答えた。
「それじゃあ、犯人は女?」
杉ちゃんがそう言うと、
「はい。家政婦の、小栗香里という女性でした。」
ジョチさんはできるだけさらりと言った。
「動機は、単純なことだったのだそうです。ただ、宮川さんの奥さんが、小栗香里に、残業手当を支払わなかったことから、彼女は、夏央くんを連れ去ったということです。」
「な、なんか、、、。ハーメルンの笛吹き男みたいな事件やねえ。ほらあ、ネズミ退治をしたはずなのに報酬を支払わなかったから、笛吹き男が、子どもを連れ去ったという。そして、手元には、歩けない子が残されたという。」
杉ちゃんがそう言うと、ジョチさんも真雄くんの顔を見て確かにそうだなと思わずにはいられなかった。ここで大事なことは、健康な子どもが連れ去られ、歩けない、真雄くんが、残ったという問題である。
「おばちゃん、捕まっちゃうんだ。」
真雄くんが言った。
「あんだけ優しかったのにな。」
泣き出してしまった真雄くんに、水穂さんがそっと肩に手をかけてくれた。杉ちゃんたちは、先程のハーメルンの笛吹き男の話を交えながら、困った女がいるもんだと話していた。水穂さんは、優しく、こっちへおいでと言って、真雄くんの車椅子を静かに動かした。
その間に、何度か華岡から電話がかかってきて、夏央くんの死因や小栗香里という女性のことについて報告した。小栗香里という人は、確かに家庭的で優しい人であったことは確かであるが、でも、どこか感情の処理に手間がかかるような女性だったらしい。それで一般企業に就職できず、家政婦として雇われていたのだそうだ。真雄くんのことは、彼女がほとんど面倒を見ていたというのもまた事実だったようである。宮川さん夫妻は、歩ける夏央くんにピアノを仕込むことで精一杯で、真雄くんのことはほとんど構わなかった。真雄くんの誕生日も、クリスマスも、みんな、小栗香里が付き添ったということだ。そのことで、小栗から、宮川夫妻に文句を言うことはなかったか、とジョチさんが聞くと、その様なことはほとんどなかったと華岡は答えた。
「よう、あれ、誰が弾いてるんだ。こんなときに、交響的練習曲の主題?」
杉ちゃんがそういう通り、なんだか重たくて、つらそうな曲だった。まあ、精神疾患を患うほどの辛さを感じやすかったシューマンなので、仕方ないといえば仕方ないのであるが、それでも、この曲は、聞くのに辛いものがある。
「ああ、水穂さんが弾いているのでしょうか?いえ違いますね。ペダリングの音が聞こえてこない。」
と、ジョチさんはすぐ答えた。さすがジョチさん。そういうことがわかってしまうほど、博学である。二人は、誰が弾いているのかそれ以上言及しないことにした。どうやら、ピアノレッスンをやっているようなのだ。まだ主題部しか弾けないようだけど、ちゃんと音が出ていて、きちんと弾けることができている。時折、水穂さんが、手本を示したり、音楽的なアドバイスを加えたりしたりしている声も聞こえてきた。
夜かなり遅くなって、製鉄所の外で車の音がした。多分、真雄くんを迎えに来たのに間違いなかった。玄関先で、ごめんくださいという声も聞こえてくる。ジョチさんが、どうぞと言って応答すると、涙を拭くのを忘れている、お母さんの美佐江さんと、がっくりと落ち込んでいる、お父さんの義男さんが玄関先に立っていた。ということはやはり、華岡の言ったことは事実だろう。そして、真雄くんがおばちゃんと呼んでいる、家政婦の女性が、夏央くんを誘拐し、殺害したということも事実だとわかった。
「お辛いでしょうが、真雄くんのことも考えてあげてください。彼もきっと辛いのではないかと思います。」
ジョチさんは、そう言ったが、美佐江さんは返事もしなかった。お父さんの義男さんが、はいと小さい声で言うだけであった。ということは、よほど、歩ける子どもである、夏央くんに期待を寄せすぎるほど寄せていたということだとわかった。ジョチさんは、全く、と思ったが、それと同時に、ピアノの音が聞こえてきた。弾いている曲は交響的練習曲の主題部分である。ペダリングしていないので、義男さんも、美佐江さんもハッとしたようだ。二人は、すぐに、製鉄所の建物内に飛び込んだ。そして、四畳半に行く。部屋の中では、真雄くんがピアノを弾いていて、運指や音楽性などを水穂さんが説明していた。
「心配しなくていいぜ。お前さんたちが望んでいた音楽はちゃんとこいつが弾いてくれたからな。夏央くんに仕込んでいたところを、真雄は見様見真似で覚えていたらしいぜ。」
杉ちゃんがそう言うと、義男さんと美佐江さんは、更にがっくりと落ち込んでいた。でも、義男さんのほうが、まだ立ち直らなければならないと小さな声で言った。そういうところはやはり、父親なんだなと思われた。
真雄くんは、水穂さんと一緒に交響的練習曲を弾き続けた。
交響的練習曲 増田朋美 @masubuchi4996
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