第6話 悲しいことの方が多いけど、舞台も人生も物語も続いていく
顔を両手で覆ったマリナ先輩が出した「うふう」という変な声は、笑っているようにも泣いているようにも聞こえた。
「これいつできたか覚えてる?」
マリナ先輩が前髪を持ち上げる。不動のぱっつんが崩れると同時に、先輩の額の痛々しい傷痕が露わになった。
「……出た、母親が敷いた女優へのレールに抗った運命の夜」
ちーちゃあん! とマリナ先輩の上擦った叫び声がファミレスの天井に響く。他のお客さんと店員が奇異の目を向けてくる中、十年ぶりに再会した実の姉妹が涙ながらに抱き合う光景の中、ひっそりと届いたルッコラサラダを食べながら眺めていた。
『備忘録』は本当に幸せを呼ぶんだな。
「栄太くん、来週のオーディションいけるんじゃない? さっき啖呵切ったときの大分カイっぽかったもん」
帰り際、千歳と並んで先を歩いていたマリナ先輩が振り向く。
「……さっきはすみませんでした」
思い返せば、先輩に失礼なことばかり言っていた。今まで気づかなかったけど、頭に血が昇ると言葉のマシンガンが止まらなくなるタイプのようだ。
「何言ってんの、先に変なこと言ったのは私だし」
「栄太が狙ってる役ってどんなの?」
マリナ先輩が僕を見る。「今ならわかるでしょ」という目。
「……『お前が決めることじゃないだろ』っていうことを勝手に決めてくる面倒くさいやつ」
「さっきのお前じゃん、ぴったりじゃん」
「でも、基本は良い人だからね。正に栄太くんだよ」
マリナ先輩はフォローが上手い。
「そうだよ、姉ちゃんが言うんだから栄太は大根役者じゃないって、多分」
「お前、僕が演技してるとこ見たことないだろ」
僕たちのはしゃいだ声が、営業時間を終えてシャッターを閉めた夜の古書店街をこだまする。
先輩の言う通り、後日僕がカイ役のオーディションに受かったのはまた別の話。
待ち合わせ場所に選んだのは、千歳と入ったあのカレー店。だけど、今日会うのは千歳じゃない。
「お待たせ、悪いな遅れて」
「ううん。僕が早く来ただけだから」
時間ぴったりに店内に来た新藤は、相変わらず金色のロケットペンダントをつけていた。
僕はキーマカレー、新藤はバターチキンカレーを注文した。
「宇田川、この店よく来るんだ」
「よくってほどではないんだけど、千歳と何度か食べてたんだよね」
「あのピストルズのパーカー着てた人だよな? 元気なの?」
「うん。長く会えてなかった家族と再会できて幸せそうにしてる」
「大胆な行動力をしばし迷走させる」ところがそっくりな姉妹は、近いうちに都内のアパートで二人暮らしを始めるそうだ。
「へー、良いじゃん」
「今度会ってみる?」
千歳の方は、趣味が似通ってるから話が合いそうだ。
「おう、いいな。……それで、話って何だ?」
「この間さ、ようやくあれを見つけたんだ」
『備忘録』七冊目を見つけたときのことを簡単に話す。
「良かったな、粘り勝ち」
「それで、いくつか不思議に思ったことがあってさ。単刀直入に言っていい? ほぼ僕の推測が入ってるんだけど」
「おう?」
「『備忘録』を撒いてたのは新藤じゃない?」
僕の言葉を聞いた新藤は「何言ってんだ、おかしくなったのか?」と怒りもせず「そうだよ。よくわかったな」とも言わず、ただ一口お冷を飲んだ。
それから店員をまた呼んで、「ベジタブルサモサ」を追加注文する。
「……あいつ毎回食べてたな、ここのサモサ」
ようやく僕の顔を見た。
「あいつって言うのは、ペンダントの中の人のこと?」
「写真としていつも持ち歩きたいと思える人間はあいつ以外いない」
「見せてもらってもいい?」
「知らないやつの顔見てどうすんだよ」
「いや、僕ら世代だったら大概知ってる顔だと思う」
観念したようにため息をつく新藤。
「……誰にも言うなよ」
「もちろん」
新藤は開いたペンダントをようやく僕に見せてくれた。中のポートレートに映っていたのは、白に近いシルバーの髪と中性的な顔立ちをした青年。カメラに向けて優しい微笑みを見せている。
「『水晶の声』のツムギ。またの名を、もう二度と戻ってこないオレの恋人、相原つむぎ」こういうとき何と声をかければいいかわからない。
「この間店にいなかったのは、彼の月命日だからだね」
僕があの古書店で店員としての新藤に会えなかった日だ。
「あの日だけは墓参りに行くって決めてるから、どうしても休ませてもらってる」
「でも、その前に自分の職場の本棚に本をこっそり置く時間はあった」
本を買いに来たのが、本来の目的だったとは限らない。逆に紛れ込ませに来たのだ。
やり方としてはシンプルだ。新藤の好きなブリティッシュ・ロックに関する本棚から一冊本を抜く。空きができたそこに、自分が持ってきた『備忘録』を並べる。抜いた本は自分で買ってしまえばそれで完璧だ。
それ以前も同じ日付の日に、他の書店でも似たようなことをしてきたのだろう。店員の目を盗めば可能なこと。
「お昼遅らせてでも、来るべきだったな」
「いや、面倒なことになったからやめろ」二人とも同時に笑った。
「あれには何の意味があったの」
「……散骨」
途切れ途切れの言葉を少しずつ世界に残すことを、新藤は「散骨」と呼んだ。
「本を置く場所を音楽に関する棚に限定していたのは、つむぎさんが歌い手だったから?」
「あいつは音楽と本を愛してたからな。載せてた文は、つむぎが書いた小説。本人は『童話』って言ってたけどな。どっちでもいいか」
「正確に言うと違う。『小説』は必ずそうとは限らないけど、『童話』には教訓がある」
「なるほど、良いこと知ったわ。……じゃあ、あの話には『異端者を迫害するな』っていう教訓が残るから『童話』だな」
「どんな話?」
「悲しい話。感受性強い子供が寝る前に読み聞かせされたら、涙が止まらなくなって翌朝目を腫らすレベル」
新藤は筋書きを空で語り始めた。
ある村にルーランという少女とユーゴという少年が住んでいた「。いずれは結婚するだろう」と周りから思われているぐらい、幼いころから二人は仲が良かった。
幸せは長くは続かない。ルーランに恋する村長の息子が二人の仲を妬み「ユーゴは純粋なルーランを惑わす妖精だ」と村中に言いふらした。馬鹿な息子としては完全な出鱈目だったのだが。
ユーゴの正体は本当に森で生まれた妖精だった。ルーランに恋をして、人間のふりをして生活していたのだ。その村では、妖精を忌み嫌っていた。
普段互いに諍いばかりしている村人たちは、こういう時だけ「ユーゴを殺せ!」と団結する。悲しいことに人間は、集団になって異端を迫害することが大好きだからだ。妖精の嫌いな金属製の道具や武器を手に、ユーゴを追う。
事実を知ったルーランは、嘆きながらユーゴと共に逃げようとする。
「『新しい世界へ行きましょう、こんな醜悪な村を捨てて』」
A4のノートをカバンから取り出した新藤は、ルーランがそのとき放ったセリフを丁寧に朗読した。
しかし、ユーゴは健気な彼女を突き放す。「僕と一緒にいたら、君が危険だから」と。そして、しばらく身体が痺れて動けなくなる魔法をルーランにかけて、森の中に消えた。
「オレが初めて読ませてもらったときはここで終わってた。『結末が書けない』って。一番苦しんでた時期でもあったからな。……オレは今でもつむぎの親を恨んでる。他責思考は良くないって言うけど、つむぎの死の半分以上はあいつらのせいだ」
新藤の目に暗いものが宿った。
「相原家としてはさ、自分たちのたった一人の息子にちゃんとした会社に入って真っ当な生活を歩んでほしかったんだ。ま、それが普通の親だよな。けど、歌が好きで諦めきれなかった息子ははねのけて、自分の歩みたい道を選んだ。上京した住居にも追ってきた両親から逃れるために、売れないミュージシャンやってる同性の恋人のアパートに逃げてきて」「正しい道を行け」と執拗に追ってくる両親から逃れながら、ツムギは仲間の元で曲を作った。
「『ガラスの恋歌』流行っただろ? 間奏のソロも含めてエレキ弾いたのはオレ」
新藤は誇らしげに笑った。
「つむぎが本格的に病みだしたのも、あれが売れ始めたのとほぼ同時期だった。直前まで幸せそうに笑ってたと思ったら、急にカッター持ってきて手首刺そうとするんだよ。医者行ったら『双極性障害』だって」
双極性障害。「躁鬱病」とも言い、ハイテンションな「躁」状態と、反対に気が塞ぐ「鬱」状態を行ったり来たりする心の病気。
「通院するとき、何度か付き添ったんだよ。一人じゃ歩けないぐらいふらふらになったときもあったから。そしたら、馬鹿な週刊誌記者があざとく見つけて浅い記事を作って流した。……いや、もっと注意してないといけなかったオレが悪かったんだな」
「そんなことない。この件に関してはツムギさんも新藤も悪くない」
取るに足らないことではやし立てる人間たちが圧倒的に悪い。
「……とにかくその報道でツムギはさらに追い詰められたのは何となくわかってもらえるよな」
僕らが注文したカレーが届いた。食べ始めてしまったから、何がツムギの身に起きたのかは語られなかった。新藤としては、語りたくもないだろう。
「それからすぐさ、あいつはついにリストカットを成功させた」
「ガラスの恋歌」のPVが一億回再生に達する直前のことだったという。
「あいつが使ってたベッドの下からノートを発見したのが、葬儀の後。オレが読んでなかった結末が書かれてた。『備忘録』でちょっとずつ語ってたのはその部分だよ」
『彼女は息を切らしながら、走り続けた。迷子のように深い森の中の端から端まで。それでもユーゴの姿は見つからなかった。』
新藤が撒き続けた都市伝説の本は、つむぎの書いた悲しい物語の結末だった。
「どうせなら全部書けばよかったんじゃない?」
「全部書いたら、本人に怒られそうだからな。オレだって、よっぽど頼み込まないと読ませてもらえなかった」
何か作品を書く人は、そういうものなのかもしれない。笑われたら、否定されたら怖い、と。
あっという間にカレーを食べた新藤は、サモサに移る前に再びノートを開いた。「最初から、ユーゴという妖精などこの世のどこにも存在していなかったかのように。これにて、おしまい」
めでたしめでたしとはいかないな、と新藤が苦笑する。
「そういう話もたくさんあるよ。ツムギさんはきっとアンデルセンだったんだ」
アンデルセンの人生も悲しいことばかりだったから、「人魚姫」だって「マッチ売りの少女」だって、ハッピーエンドとはいかない。
「悲しい話が、読み手に寄り添ってくれることもある」
「現実は嫌なことばっかりだからな。じゃあ、これも名作だ」
繊細なものを扱うような手つきで、新藤はノートをそっと閉じた。
「新藤はさ、何でこれをタイトルもない本にして撒こうと思ったんだ?」
僕が今回一番知りたかったのはそこだ。
「簡単だよ。情報量少ない本にした方が、一番目立つこともあるだろ」
「他とは違う異様な葉っぱを作って、森の中の一番人が通る場所に隠す」
「そういうこと」
一枚の葉を隠すには、森の中に。ミステリ作家チェスタトンによる架空の名探偵、ブラウン神父が残した有名な格言。
新藤はそれを逆手に取った。書名がきちんと書かれた本が並ぶ森の中で、背表紙に何も書かれていない異常な一枚の葉『備忘録』はよく目立った。
「あの話はつむぎが命をかけて書いた話だ。結末だけでもいい、一人でも多くの人間に読ませて『お前たちが間接的に殺した男はこれだけ悲しくて、重くて、鮮やかな言葉を残したんだぞ』って訴えたかった。綺麗ごとだけどさ」
「いいんじゃない、綺麗ごとでも」
「そうかよ」
新藤がサモサを食べ終える。僕も同じものを注文すればよかったかもしれない。
「最後の質問。あの本が幸運を呼ぶっていうのは偶然の産物?」
新藤はしばらく頭を悩ませた。
「いや、あれはつむぎの祝福」
王子での稽古を終え、お茶の水駅の改札を出ると千歳が待っていた。
「お疲れ」
「夕食はいつものとこ?」
「うん」
「了解」
新藤と来て以来、あのカレー店には足を運んでいなかった。今日こそ僕はサモサを食べる。
「姉ちゃんから聞いたわ、今度の劇のシナリオ書いたって」
「そう。めちゃくちゃよくまとまってるし、作者の伝えたかったことをしっかり理解してくれてる内容になってる」
「さっすが、才能の塊」
「お前がどや顔してどうするんだよ」
マリナ先輩は演技力だけでなく、ストーリー構成力もあった。嫉妬するのがあまりにも虚しくなるぐらい先輩はいくつも才能を持っている。
「お前も主役張るんだろ、頑張れよ」
「うん、ありがと。新藤の友達が書いた話だから、絶対成功させる」
説得の末「相原つむぎの書いた童話を劇にしても良い」と許可をくれた新藤は、残念ながら今回は見に行くことができない。だけど「頼むぞ」と言ってくれたことだけは絶対に忘れない。
「すごい悲しい話なんだけどさ」
「うん」
「悲しいだけで終わらせたくないものがあるっていうか、目を背けちゃいけないことを教えてくれるんだよね。だから、色んな人に見てもらいたい」
「見に行くわ」
「よろしくな」
にやりと笑った千歳が親指を立てた。
カレー店、楽器店、古本屋、神保町周辺は色々なものがありすぎて何の街だかよくわからない。
でも、僕が大切なものたちを手に入れた街であることに変わりはないのだ。
書を求めよ! 街に出よ! 暇崎ルア @kashiwagi612
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