第2話


 初めて直接会って以来、聖悟と有以は通話で時折話すようになった。仕事のことはもちろん、徐々に他愛のない会話も増え、いつの間にか有以からは社用ではなく私用の連絡先を貰っていた。それなのに、自分だけ仕事用の連絡先というのはな、と聖悟も有以に私用のスマホの連絡先を教えてある。事務連絡と通院先の医師との会話以外、最低限しかしていなかった聖悟にとっては、良い刺激になったようで、体調も随分と良くなった。

 相変わらず抑制剤は、医師が処方するものの中で1番強いものを最大量処方されてはいるが、寝込むことはほとんどなくなった。医師からPlayをしているのかと尋ねられたが、答えはもちろん否である。有以というSubとの接触機会はあるが、全て電話やメール越しで、Commandが発動しないように注意を払っている。電話越しでも聖悟の場合Commandの効果は発揮するが、無意識にCommandが発動するレベルで不安定な時には有以の電話は取らないことにしている。そうすると、留守電に心配していることと、作品の感想、あとは聖悟にとっては謎なことに、いつも頑張ってますよね、と飛び切り甘い声が残っている。聞いていると恥ずかしくなるが、それを聞くと落ち着くのもまた事実だった。

 ただの作家と担当編集という関係なのに随分迷惑をかけている。しかし、それに関しては有以は自分が好きでやってることだからとの一点張りだ。寧ろ、有以からの連絡頻度がますます上がっているような気がする。やはり、しっかりしていると言ってもまだまだ仕事で不安なことでもあるのだろうか、とも思うが、有以の状態は頗る安定しているように思えた。とはいえ、電話越しなので顔が見えない。

 一度、休日にビデオ通話でもして顔色をみようかと思ったが、流石に踏み込みすぎかとその考えは一瞬で消し去った。それに、顔色については大概聖悟も人の事を言えない有様だ。


 仕事も一段落して、聖悟が伸びをしたところで、仕事用のスマホに着信があった。相手は、有以だ。通話ボタンを推すと開口1番に勢いの良い謝罪が飛んできた。


「どうも営業の方が期限を勘違いしていたらしく、お願いしていたサイン色紙を今日中に頂きたいのですが......」

「げ、〆切まだ10日あると思って全部は書けてないぞ。郵送......は今日中となると間に合わないか」

「私が星原さんの自宅まで伺おうかと思ってるのですが、よろしいですか?」

「俺は、構わないが、パートナーでもないDom相手にその態度はどうかと思うぞ」

「ふふっ、星原さんは無理強いなんてしないでしょう。それよりも慣れた私の方がいいかなと思いまして」


 全幅の信頼を寄せる有以の声に、聖悟が大きくため息を吐く。信頼は嬉しいが、SubがパートナーでもないDomの自宅に1人で行くのは、推奨されることではない。

 Dom性は、優れた指導者に多いとされるが、それ以上に快楽殺人や詐欺グループの元締めなどの重犯罪を引き起こす確率が、SubやNormalと比べて高いことが統計的に示されている。特に殺人は、Dom側の無理なPlayを発端として起こることも少なくはない。そのため、一部ではDomは犯罪者予備軍とする偏見も根深く残っている。


「危なかっしいというか、なんというか。お前がこっち着くまでに仕上げとくから、家にいるのは最低限な。それと、Safe Word代わりのハンドサインは......」

「わんこですよね。わかってますよ。それでは失礼します」


 有以がそう言って通話は終了した。

 Subとしての最低限の警戒心のない有以の様子に心配になることはあるが、彼の聖悟をDomとして扱わない姿勢には救われてもいた。ただ体調を崩しやすい人間として扱われるだけというのは、ダイナミクスが関わらなくなり、聖悟にとっては随分と楽なものになった。


「さてとやりますか」


 言って聖悟は、サイン色紙にスラスラとペンを走らせる。販促用に展示される色紙は、それなりの枚数がある。

 まあ、出版不況が叫ばれる中でハードカバーの本ばかりを出している身からすれば、このように出版社や書店からの後押しはありがたい。お陰様で、売上は重畳といったところで、食うに困ってはいない。

 有以の勤務している出版社以外からの依頼も増え始め、連載もしている。とはいえ、そちらは簡単はコラムだ。しかし、毎月となるとコンスタントに書き続けるのは、予想以上に大変である。小説は無限にネタが湧いているのに、「学生時代の思い出」や「恋愛」がお題になるとびっくりするほど筆が進まなかった。自伝的文章は自分にはつくづく向いていないのだな感じたほどだ。

 とはいえ、やはり1番好調なのは有以が担当編集を務めるファンタジー群像劇だ。妖精や精霊と人間が生きる世界の終末と救済を描く物語は、随分と反響が良い。「心が綺麗なやつほど酷い目に会う」「原型留めて死ねてるならマシ」「作者は人の心がない」と言う反応がインターネット上で散見される。そもそもデビュー作が、サイコミステリーでイヤミスと名高いの作家に心温まるストーリーを求めるのはお門違いだ。

 とはいえ、自分の作品が評価されるということは素直に喜ばしいことだ。作家として軌道に乗り始めてから、多少は精神的に落ち着いたため、抑制剤さえ飲んでいれば、Playの必要がほとんど無くなった。それ以前は、Dom向けの風俗店を利用していたが、それでも相手に気を使うことと、Domとしての欲求は満たされても聖悟の持つ個人的な欲求は満たされないことが原因で、進んで利用しようとは思えなかった。むしろ、個人的欲求はPlayをした後の方が悪化して、どうしようもない渇きのようなものが聖悟を襲った。



 色紙を書き終えると聖悟は即効性の抑制剤を服用した。状態が安定しているとはいえ、Subと1対1になるのだから念には念を入れてたかった。そしてなにより、ダイナミクスの暴走を原因に、有以に嫌われたくなかった。

 

 そういえば、自宅に人を招くのなんて久しぶりだなと思いながら、そわそわと聖悟は準備を始める。長いはしないだろうから、お茶でいいだろう。来客用のカップなど、もちろんなく、適当にしまい込んでいたカップを一度洗い直して用立てる。

 なんとなく落ち着かない気分ではあるが、不思議と嫌な気分ではなかった。


 インターホンが来客を告げる。画面越しに相手を確認すると、それは予想通り有以だった。しかし、どことなく様子がおかしいような気がする。

 内心首を傾げながら、玄関の扉を開けて有以を招き入れようとする。しかし、玄関の扉を開けた瞬間、聖悟は顔を顰めた。

 有以が何かを言う前に、彼の腕を引っ張って家の中に合意を得ずに招き入れる。褒められた行為ではないことはわかっていたが、今は急を要した。


「町中でGlareを放った馬鹿がいるな」

「言い、争ってる方々が、近くに、いらっしゃたんですが、どうやら、Domが混ざっていたらしくて。申し訳、ありません」


 有以の顔色は、画像の荒い画面越しでは分からなかったが、青いを通り越して紙のように白くなっている。呼吸は浅く、足取りも覚束無い。両手で自分を抱きしめるようにしているのは、震えを隠すためだ。

 どうみてもSub drop直前の症状だ。この様子で、よくこのマンションまでたどり着けたものだ。悪質なDomに絡まれなかったのは、幸運としか言いようがない。


「有以さんは、今の自分の状態を理解してますね?」

「は、い」

「今から俺......白波聖悟はあなたと簡単なPlayをしたいと思います」


 あえて、作家としての星原甘津ではなく、本名である白波聖悟と呼び方をわけたのは、普段の作家と編集としての関係から一線を引くためだ。普段の関係は、あくまで仕事の延長上のもので、ここまでプライバシーに踏み込んだものではない。

 そして、口調も雰囲気も大勢のSubにしていたようなものに切り替える。目の前にいるのは、年下の担当編集ではなく、Sub dropをしそうになっているSubであると対応する。


「わか、りました」

「Safe Wordを設定しましょう。言いやすい言葉で構いませんが、明らかにPlay中に使用しない言葉にしてください」

「き、【狂犬】でお願いします」


 急に雰囲気の変わった聖悟に戸惑いつつ、有以がSafe Wordを設定する。

 冷静な部分で、相変わらず犬から離れないのかと思考する。有以には聖悟がどう見えているのだろうか。


「わかりました。俺は、どんなCommandも【狂犬】の言葉で中止します。本当に嫌な時は、躊躇いなく、Safe Wordを使ってください。今からのPlayは、あなたを癒すためのものですから、決して我慢はしないでください」

「は、い。お願い、します」


 返事をした有以にDomとしての癖のように一言告げる。


「良い子」


 聖悟は、自分よりも少し高い位置にある有以の頭を、子供にするように軽く撫でた。不必要ような力が抜けたことを確認して、Commandを放つ。


「【お座り】」


 体は本能に忠実にDomの放ったCommandに従っていた。へたりと所謂ぺたんこ座りと呼ばれる姿勢で、有以がカーペットに座り込む。それは、Kneelと呼ばれるCommandの基本姿勢だった。Kneelは、支配者と非支配者の立ち位置を客観的に表す。


「ぅ......っあ?」


 有以は、自分の体に何が起こったのかが理解出来ずに目を白黒とさせていた。わかるのは、辛うじて今自分が座り込んでいるということだけ。

 脳に痺れるような快感がもたらされている。けれど、それが何故かは分からない。だけれど、"これ"がもっと欲しくて堪らない。


「【俺の目を見て】」


 俯いてカーペットを見ていた有以の視線が、上を向く。そしてCommand通りに見た聖悟の目は、編集者と作家という関係では見た事がない欲に濡れていた。普段は、アメジストのような澄んだ紫の瞳が、興奮のために若干赤く濁っている。

 聖悟のこんな姿を見ているのは、自分だけだ。そう思うと途端に独占欲が湧いてくる。誰にも渡したくはないと思う。けれど、それ以上に思考が快感にどろどろに溶かされる。


「大丈夫そうだな。あと1つくらいで、よさそうか」


 有以の様子を観察していた聖悟が呟く。

 有以には思った以上Commandが強く作用していた。お陰でSub dropの危険はなさそうだが、逆にSub spaceに入りかけている。本来ならDomにとってもSubにとっても喜ばしいことなのだが、聖悟の場合は、そこまでの工程が短過ぎてSubに依存性を与えてしまうことが問題だった。


 そして、聖悟にとって1つ予想外のことが起きていた。それは、有以の姿に触発され、以前のような強烈な支配欲が聖悟の思考を犯していることだった。

 これを抑え込むように握りしめた拳が痛い。けれど、痛みは思考を飢餓感にも似た欲求から逸らしてくれた。


「【こっちにおいで】」


 ずりずりと有以は、先程の姿勢のまま聖悟に近付く。動いたのは、ほんの少しだけ。けれど、聖悟の足に擦り寄れば今まで感じたことの無い充足感が得られた。


「えらいですね。言ってないのに、お座りの姿勢のままだ」

「だめ、でしたか?」

「いいですよ。膝、痛くはないですか?」


 Play開始直前の時よりもしっかりと有以の頭を撫でる。先程までもたらされる快楽が痺れる電流のような苛烈なものだとしたら、今のCommandのご褒美としてもたらされる快楽は春の陽だまりのように穏やかだ。


「私は、大丈夫です。それよりも、聖悟さんは手、大丈夫ですか?」

「え、ああ。大丈夫......です。」


 気遣わしげに有以が、固く握り締められた聖悟の手を見やった。その様子に聖悟は驚いたように目を瞬かせる。Play直後の、まだSubを甘やかすCareの段階で、Subから気遣われることは、聖悟にとって初めてのことだった。

 

「よかった。聖悟さんのCommandは、すごいですね。Commandなんて嫌いだったのに、聖悟さんからのだけは特別です。でも、無理しないでくださいね」


 Sub spaceには入っていないが、普段よりも柔らかく、ふわふわを通り越して、ふにゃりと柔らかい笑みを浮かべる。

 表情はいつもと違う。けれども、聖悟のことを第一に考えていることは、普段と変わらない。SubとのPlayは、いつもSubの欲求を満たして、もっともっとと強請られて、聖悟自身を鑑みられることはなかった。Sub達が求めるのは、強烈なDomの能力だけで自分自身ではない、といつしか考えるようになってから、元々崩しがちだった体調は更に悪化した。


「聖悟さん、ありがとうございます。貴方でよかった」


 安心しきった顔で有以が告げる。その言葉に聖悟は、床に座り込んだ。

 顔が熱い。心臓が早鐘を打ち、どくんどくんと耳に響く。けれど、不快ではない。どころか、慢性的な吐き気も、頭痛もどこかへ吹き飛んでいた。


「聖悟さん、大丈夫ですか!? 体調悪いのに無理させちゃいましたか!?」


 座り込んで、顔を隠すように俯いた聖悟に有以は慌てる。それは先程までSub spaceに入りかけていたとは思えないほど、普段通りだ。


「へーきだから」

「ほんとに平気なら座り込んだりしません! 立ってるのが辛いなら横になりましょう。寝室はどこですか!?」

「ほんとに、大丈夫だから。それより、有以、お前こそ調子は?」

「この通り元気です! 私のことよりも、今は自分のことを心配してください」


 「ちょっと失礼しますね」と有以が声をかけて、聖悟に上を向かせて顔色を確認する。

 聖悟の様子はというと、耳まで真っ赤になって目はいつの間にか涙で潤んでいた。瞳は、Play中よりも更に赤が強くなり、ほとんど真紅といっても差し支えがなくなっている。余談だが、有以は聖悟が体調を崩すと普段から白い顔色がより一層色を失うことは知らない。けれど、それでも聖悟の様子が体調不良由来ではないということは、顔を見てしまえば一目瞭然だった。


 ばちりと合った視線を聖悟が、気まずそうにふいと逸らす。それは、叱られる前の幼子のような反応だった。


「これでわかっただろ。別に体調が悪いわけじゃない。心配かけてわるかっ......」


 聖悟の言葉は途中で、遮られた。

 それは、有以が聖悟を勢いよく抱きしめたからだった。鼻を有以の胸に打ち付けるほどの勢いで、抱きしめられて言葉が途中で無理矢理止まったのだ。今の聖悟では、抗議しようとしても、くぐもった声しか出せない。


「聖悟さん」


 耳元で、囁く有以の声は飛び切り甘ったるい。ぴくり、と聖悟が肩を震わせれば、有以は嬉しそうに吐息だけで笑った。


「私に褒められて、こんなになっちゃったんですね。もっともっと褒めたら、どうなっちゃうんですか?」


 脳に直接注ぎ込むような言葉に、今度は聖悟の思考が溶かされる。


 ――欲しい。

 もっと、もっと褒めて。だって、俺だってがんばってる。何も考えられなくなるくらい褒めて、甘やかしてどろどろに溶かして欲しい。


 そんな思考に聖悟が支配される。

 しかし、ほとんど無意識に、縋るように有以の背中に腕を回そうとした所で、有以は聖悟を解放し、すくっと立ち上がった。


「今日は、色々とご迷惑おかけしました。色紙は、どちらですか? 星原さん」

「え、ああ。そこの机の上の封筒に全部入ってるから、確認してくれ」


 有以は、いつもの編集者としての彼に戻っていた。そして、彼からの呼び方もいつも通り作家としての聖悟の名だ。

 それに、戸惑いつつも本来の目的を思い出して、書き上げたサイン色紙をまとめて入れておいた封筒の場所を告げた。

 有以は、封筒の中身を見て問題のないことを確認すると、封筒を鞄にしまう。


「サイン色紙、確かにお預かりしました。原稿の方も楽しみにしてますね」

「ん、今のペースでいけば近いうちに出せる」


 普段となにも変わらない有以の様子に聖悟も、普段のペースを取り戻した。

 元々急ぎの用だったこともあり、有以も長居をするつもりはなかった。ついでに軽く原稿の進捗状況だけ確認し、帰ろうとする有以を立ち上がれるようになった聖悟が、玄関まで送る。


「原稿も大丈夫そうですし、また近いうちにお邪魔しますね。聖悟さん」


 聖悟が何かを言う前に、がちゃん、と扉が閉まる。最後に有以が聖悟に向けた笑みは、独占欲の滲む甘ったるいもので、とても編集者が担当作家に向けるものではなかった。


「なんだんだよぉ......」


 ぺたりと聖悟は玄関に座り込む。冷たい床が、火照った体に心地よかった。

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Dom様だって褒められたい! 雛飼ひよ @hinakai

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