第20話(最終話)
そのまま給湯室へ居座っていると、やがて人の立つ気配がする。少しも胸は晴れないが、ひとまずは終わったのだろう。空いたグラスを洗っていると、残り二つを手に副社長が姿を現した。
「色々、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「いや、いいよ。あんなお客さんはいつものことだしね。翠ちゃんのお母さんって考えたら、似なくて良かったなあとは思うけど」
疲れたようでも堪えたようでもない。副社長はそれより余程、仕込んだ地獄が発動するのが楽しみなのだろう。
「あの、母が話そうとしなかったことって、なんですか」
「ああ、あれね」
気掛かりを口にした私に頷き、壁へ凭れて腕を組む。私を見下ろして、含み笑いを浮かべた。
「多分、お父さんのお兄さんか司法書士さんから連絡があったんじゃないかな」
嗅ぎ取れる不穏さに、洗う手を止める。胸が、いやな音で弾んだ。
「お父さん、亡くなったんだよ。少し前に」
落ち着くのを待たず、副社長は結論を告げる。くらりと揺らぐ視界に、手は控えめに私の背を支えた。
「遺産はほとんど借金だから、相続放棄すればいいよ。放棄しても生命保険は受け取れる」
耳元で告げられた権利に、ぞわりと爪先から悪寒が這い上がる。向けた視線はすぐに結びついた。
「お父さんはずっと、翠ちゃんを受取人にした生命保険を組んでたんだよ」
「どうして、死んだんですか」
「自殺だよ、首を吊って。ご友人に裏切られたのが本当にショックだったみたいでねえ。うつ病で仕事もできなくなって、すごく落ち込んでたよ。まあ遺書にもそんなことが書いてあるだろうから、保険金は下りると思うよ。あとで連絡先を渡すから」
明らかに不自然な内幕だ。全身を覆い始めた震えに、立っていることもままならない。これは、本当に必要な犠牲だったのか。
副社長は私を支えながら手を洗わせ、拭いて、抱き締めた。どさくさに紛れて巻きつく体を突き放したかったが、気力もない。それに今は正直、何かに寄り掛かっていたかった。
「父に、何を言ったんですか」
「僕は『そういえばうちに同じ名前の女性が勤めているんですが』って言っただけだよ。そもそも僕は家の処分を手伝っただけで、金を貸してたわけじゃない。でも、自分が払えなかったら翠にいくのか、どうなんだ、って根掘り葉掘り聞かれたなあ。葬式に呼ばなかったのも、翠ちゃんが来たら借金取りに詰め寄られると思ってだろうね」
父は、四十も過ぎた娘が借金取りを前に怯えて泣くとでも思っていたのだろうか。まあ確かに怯えはするだろうが、泣くほどではない。その手の親玉みたいな男と、毎日のように顔を突き合わせて仕事をしているのだ。
「そうやって、追い詰めたんですか」
「僕が脅迫や恐喝なんて無粋なことをしないのは知ってるでしょ。『翠を傷つけずに金を渡せる方法はないのか』って聞かれたから、教えてあげただけだよ。ずっと翠ちゃんのことを気にしてたから、可哀想でね。『そんなに大事なのに、どうして会わないんですか』って聞いたら黙っちゃったけど」
それは、私もだろう。その気になれば戸籍を辿れたのに、一度も会おうとしなかった。母の嘘をずっと信じていた。優しさの裏側を知るのが怖かった。
確かに事実は予想よりもずっと悍ましく、受け入れられないものではあった。覚えていなくても、それでも、だ。嘘であれば良かったが、母が自分のプライドを傷つけるような嘘をつくわけがない。嘘をつくなら「殴っていた」だの「金を使い込んだ」だの、もっと気に入るものがあったはずだ。だから、つまりずっと、自分から夫を奪った私が許せなかったのだ。
「最後に『バツイチで娘と暮らしてるけど、同級生の彼と再婚予定ですよ』って教えてあげたら、救われた顔してた。そのうち墓参りでもしてあげたら」
落ち着くのを待って、腕はすんなりと私を解放する。別に、契約に誠実なわけではない。女としての私には、元から大した執着もなかったのだ。手放すことなど造作もない。
「悪人に、見えましたか」
「いや。僕から見ればマイナス三くらいの、どこにでもいる人だったよ」
副社長は慰めるように私の背を軽く叩いて、給湯室を出て行った。
長い息を吐き、再びシンクへ視線を戻す。三つ並んだグラスは昔の家族とも、私が最初に持った家族とも、私が取引した命の数とも等しい。
それでも私はまだ、生きるのだ。
六時前に受けた電話に、副社長はいつもより早い終業を告げた。社長の容態が良くないらしい。今晩辺りが山かもね、と業務連絡と同じ口調でブラインドを下ろした。
社長は春先に掛かったインフルエンザから体調を崩し、一週間ほどの入院を経て復帰した。しかしその後も体調が優れないようで、席に着かない日が増えていった。どれだけ矍鑠としていても、八十過ぎの老人だ。どこかに罅が入れば、快復は難しいのだろう。肺炎に罹ったと報告を受けたのは、先月のことだった。
一度見舞った社長は、こじんまりとした個室の真ん中で酸素を吸いながら横たわっていた。頭は相変わらずカリッとして見えたが、それ以外は萎んで枯れ果てた樹木のようで、死に際の祖母を思い出してしまった。生きているのではなく生かされているだけのようなのに、それでもまだ、確かな意志はあるのだ。その姿に安堵と不思議だけならいいのに、酷な何かまで感じてしまうから、何も言えなくなってしまう。四十を過ぎたところで、何も変わらなかった。
社長は黙って佇む私に、勉強してるか、と投げてどうにか笑った。頷くと、そうか、と返し、満足した様子で枕へ沈んだ。口を湿らすように動かしながら、少し笑った。
私は結局、社長に怒鳴られたことどころか叱られたことすらなかった。身贔屓と言ってしまえばそれまでだが、社長が私に与えたものは救いだけだ。宅建の取得を決めたのは、ほかにはもう、私にできる恩返しがなかったからだ。伝えた私に清太郎は溜め息をついただけで、何も言わなかった。
『かきあげとエビの天ぷらがいい』。スーパーの駐車場で受け取った返信は、天ざるうどんを狙ってのものだろう。了承を返して店内へ入ると、私と似たような仕事帰りの女性で賑わっていた。
家を出てしばらくは手作りに拘っていたが、働いていると惣菜や半調理品がやはり便利で助かる。今日のように早く帰れる日こそ作るべきかもしれないが、さすがに気力がなかった。
惣菜売り場では、ちょうど店員が値札に割引シールを貼りつけているところだった。半額と四十パーセント引きなら、迷わず前者だろう。かき揚げの残りを横目に空パックへ手を伸ばした時、誰かとぶつかった。
咄嗟に詫びて離れたあと、あ、と固まる。向こうも同じように固まったが、私より一足早くそこから下りて踵を返した。
肌に沿うTシャツに、デニムのショートパンツ。足元は一昔前に流行ったようなウェッジソールの厚底サンダルだ。まるで娘の服を借りたかのような、私達の年代には少し無理のある服装だった。私を見て引きつった顔は特別若いわけでも、若返っていたわけでもない。寧ろそれとは逆の、疲れたような老いとすれたものを漂わせていた。尤も、後者は私が勝手に感じ取っただけかもしれない。
佳苗はあのあと、客に売春を持ち掛けて勤めていた美容室をクビになっていた。実家は予想どおり回収され、購入した居抜きの美容室は使われないまま売却された。副社長の予想よりも早く、佳苗は地獄へ転げ落ちた。今は母親と娘と三人で、あのアパートに暮らしている。クビの理由が悪かったせいで次も決まらず、部屋に男を呼んで日銭を稼いでいるらしい。こんな田舎町に風俗はないが、独身男ならそこら中にいる。爺さんとかが結構通ってるらしくてさあ、と奥さん方が参観日の廊下で喋っていた。佳苗の娘が一階下で必死に生きていることなど、どうでもいい連中だった。
副社長は、早かったねえ、とまるでコレクションを愛でるかのように語ってファイルを閉じた。少しの罪悪感も見せない、穏やかな笑みだった。
父は死に佳苗は転げ落ちて、残るは母だ。いずれ母も私より、命よりも大事な家を手放す時が来る。そこに自分以外の誰かが住む未来など考えられない母の、断末魔の悲鳴を聞く日はそう遠くない。当然、その恨みは私へ注ぐだろう。それが、私への罰か。
私はただ、平穏が欲しいだけだった。好きでもない男に抱かれず、楽ではなくとも娘と暮らせる、そんな「普通」が欲しいだけだった。
『先生、八時過ぎには来るって』。報告メールは、アパートの階段を上りきったところで届く。半額に釣られて買い込んだから、ちょうど良かった。
微笑み、魂三つで手に入れた私の家庭へ帰る。笑顔で応えた桃花は、キッチンでサラダを作っていた。
(終)
わたしのおうち 魚崎 依知子 @uosakiichiko
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