二、
第19話
担任は成績表を差し出しながら、このまま気を抜かずがんばりましょうね、と言った。桃花の第一志望は変更を求められることもなく、市内の普通科のまま天王山を迎えた。
「早く済んで良かった。三者なんて初めてだから」
「緊張し過ぎだって」
桃花は胸を撫で下ろす私を笑いながら、ローファーを取り出す。汗で張りつく前髪を掻き上げ、忌々しそうに外を眺めた。
「今日は、遅くなりそう」
「いつも通りじゃないかな」
「なんか作っとこうか」
そうねえ、と答えながら、温いパンプスに汗ばんだ足を滑らせる。夏用のストッキングを履いていたって不快さは変わらないが、素足で仕事をするわけにもいかない。
「サラダ作っといてもらおうかな。今日はそうめんかうどんにするつもりだから」
「分かった。ほかになんか作れそうだったら、適当にしとく」
「ありがと。助かるわ」
礼を言いつつ玄関を抜けた途端、容赦ない日差しが目を眩ます。蝉の声も切実さを増して耳に届く。今日も暑いね、ほんと、とお決まりの会話を交わしながら、恐ろしいほど温められた車に乗り込んだ。
「先生、来るかな」
「今日は無理でしょ、六時過ぎまで懇談あるし」
「九時ぐらいに玄関で行き倒れるパターンじゃないの」
「ああ、そうかもね」
苦笑する私に、桃花も笑う。
今年は担任ではないが、持ち上がりで三年団にいる。それこそ、鬼のように忙しい三年生だ。さっきは通り過ぎた教室で、教師らしくしている姿を少しだけ見た。風呂上がりにパンツ一枚でうろつくのと同じ男とは思えない、わけでもなかったが、まあ多少はそういう風にも見えた。
「夏休みに、友達の家で勉強合宿しようって話になってるんだけど、いい?」
「いいけど、お邪魔して大丈夫なの」
「うん。山寺だから」
少し控えめになった答えに、助手席を一瞥する。
「言っとくけど、私だけじゃないからね。ちゃんと十人くらいで行くから」
「分かってる。ただ、どうなのかなって」
慌てる様子が微笑ましくて、頬を緩ませながらカーブを曲がる。
昨年から同じクラスだったらしいが、会話に登場するようになったのは今年になってからだ。うちへ遊びに来たのは二回ほど、どちらも友達と一緒だった。でも母親の勘か、なんとなくは分かっていた。
「でもさ、あれだよ、やがて丸坊主になっちゃうんだよ」
「いいじゃない、髪ぐらい。どうせなくなるものなんだし」
色々すっ飛ばしてそこへ辿り着くのなら、余程好きなのだろう。男との決別を涙ながらに誓った頃とはまるで違う、明るい声だった。郁深とは五月の連休に一度会って、清太郎のことも話したらしい。ほっとしてたよ、と報告を受けた夜に、似たような言葉を綴ったメールが届いた。
「お母さんから見て、どう?」
「さっぱりしたいい子だと思ったよ。挨拶もちゃんとできるしね。間違っても雨の日に桃花を一人残して友達と帰ったりしなさそうだし」
「それ、先生?」
「そう。何度置いていかれたか分かんないくらい、置いていかれたの。腹が立ちすぎて別れた」
泣きながら告げる別れを、清太郎は黙って聞いていた。これから直すのもだめか、と尋ねて私が頷いたあとは、もう何も言わなかった。あの頃は、どちらも子供だった。
「大人になったんだね、先生。でもこの前、お母さんのどこが好きって聞いたら『尻かな』って言ってたよ。そういう意味じゃないのに」
「まあ、そんなもんだよね」
苦笑しつつ、アパートの前に車を止める。桃花は短く礼を言って、灼熱の中を走って帰って行った。
一時間の中抜けをして戻った会社の前で、駆け込みたい足を止める。日傘を差しながら中を窺う膨れた脚には、見覚えがあった。裏口があるなら素知らぬ顔で回り込みたいが、生憎出入りはここだけだ。それにこの様子だと、誰かが察してくれるまで居座るつもりだろう。
「何してるの」
小さく掛けた声に、日傘は勢いよく翻る。約一年振りに見た母は、白髪だらけの肉塊になっていた。驚きと得も言われぬ嫌悪感に、一瞬だけ憐憫が混じる。
「あんた、お金貸しなさいよ」
しかしその憐憫も、掠れた一言目が消し去った。
「何言ってんの」
「養ってもらってんでしょ」
「そんなわけないでしょ、自分の稼ぎだよ。分かったらさっさと帰って」
眉を顰めて浮腫んだ手を跳ね返すと、母は引きつった顔で鼻を鳴らした。そのまま半開きの口を動かしながら、荒い息を吐きつつ短い声を漏らす。膨れた頬は垂れ、喉は膨れておかしな段ができていた。赤ら顔はどこかしら悪くなっているせいだろうか、繰り返し流れ落ちる汗はこちらからでも分かるほどだ。額や頬に張りつく髪が見苦しい。
「邪魔になるから、早くどっか行って」
それでも地面を踏みしめたまま動かない足に、繰り返す。また伸びた手に眉を顰めた時、背後のドアが開いた。
「入ってもらったら? 僕が話を聞くよ」
柔和な笑みで中へ誘う副社長に、いい予感は湧かない。それでも母は、待っていたかのように私に見切りをつけ、中へ吸い込まれていった。
渋々差し出したアイスコーヒーを一息で半分ほど空け、母は顔中の汗を拭う。膨れた体のせいで閉じられないのか、スカートの下で拡がる膝がだらしない。鼻息も、傍で聞き取れるほどに荒かった。この一年で更に転げ落ちたのは明らかだ。
「娘が借金を押しつけて勝手に出ていってから、まあ本当に苦労のしっぱなしで」
「そうですか」
副社長はアイスコーヒーを受け取りながら答え、顰めっ面の私に目を細める。ここはいいよ、と促されてデスクへ戻った。
「それでもなんとかやってたんですが、ちょっと体の調子が悪くって。病院に行ってみたら糖尿病と、あとなんだったか、心臓が良くないって言われたんです。治療しましょうって」
「それは大変ですね」
「でしょう。だから治療しないといけないんですけど、娘が馬鹿したせいでお金がないんです。ほんと、あの子は昔っから馬鹿で碌なことをしない。面汚しみたいな子で」
アイスコーヒーで色々と癒やすつもりが、追いつかない。どう受け止めたのか、副社長の相槌は聞こえなかった。
「役場には、ご相談にいかれましたか」
「私、ずっと役場で働いてたんです。最後は局長までしたんですよ。まだ知ってる人もたくさん働いてるのに、恥ずかしくてとてもいけたもんじゃないわ」
「では、ご自宅を」
「何言ってるの!」
最も現実的な解決策を口にし掛けた副社長に、母は劈くような声で噛みつく。
「あの家はね、私が必死に働いて建てた、私の家なのよ。私が自分の力で建てた、私の大事な家なの!」
地雷を踏まれた怒りは凄まじく、相手が誰だろうと容赦はしない。もう仕事ができる気力も根こそぎ除かれて、デスクへ突っ伏した。どれだけ否定したくても、あれが私を産んだ人なのだ。
「あんた、あんたまさか娘と手を組んで、私の家を売らせようとしてるんじゃないでしょうね!」
遂には副社長への礼儀も忘れて、関与を疑い始める。まあ、そちらは否定できないことだ。
「それは、彼女が気を悪くするでしょうね。私の手なんて即座に弾き返されますよ」
どんな顔で話しているのか、想像は容易い。柔和で平静な笑みを湛えながら、ゆっくりと手を組み直しているはずだ。
「とにかく、お金が要るのよ。家を売らなくても娘が出せば済むことでしょ」
「仰ることは分かります。ただ、私共の懐を明かすようでお恥ずかしい限りですが、彼女にそんな余裕のある待遇ができているとは思えませんので。尤も、ほかに何かあって仰っているのならお伺いしますが」
話の向きを変えた副社長に、少し頭を上げる。母の答えには、間があった。
「ただ娘が『出す』って言えばいいのよ」
「その『出す』は、何を当てにしてらっしゃるんですか」
明らかに鈍った口先に、何かあるのは分かった。しかし静かに詰める副社長の声にも、答えようとはしない。
「とにかく、何もかも娘が馬鹿してあのアパートを売ったせいなのよ。売らなくたって私が管理してれば、今頃はちゃんと稼ぎだってあったのに」
母は不自然なほど捻じ曲げた矛先を、あのアパートへ向ける。私へ押しつけるつもりだった管理は、いつの間にか自分でできたことになっていた。少しずつ自分の都合の良い方へ変えていくのは年のせいか、母だからなのか。
「では、こうしませんか」
副社長は否定せず、いつもの調子で地獄の扉を開いた。
「今は、銀行でローンを組んでらっしゃいますよね。それを、うちのお勧めするところで組み直していただけませんか。その御礼として、そうですね、五百万程度の物件を私が個人的に無償でお貸しします。それを管理なさって、家賃収入から返済していただくというのではどうでしょう。引き続きご自宅を担保にしていただくことにはなりますが、長く公務員をされていらっしゃったのなら、彼女に頼られずとも堅実な運営をなさるでしょうし」
相変わらず、よくできた一本道だ。少しだけ揺らいだ何かに溜め息をつき、アイスコーヒーを半分残したグラスを掴んで給湯室へ向かう。母の答えは、分かっていた。
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