みかん
雨緑樹林
みかん
私の部屋にはコタツがある。狭いアパートに合う、小さな小さな、正方形のコタツ。
もともと一人用なのに、貴方はわざわざ私の隣に並んで座ってくるから、「狭いよ」って笑いながらみかんを食べた。
今年の冬も、そんな日々が来ることを楽しみにしていた。でも。
私がスーパーを出てすぐ。スマホがあまりの寒さに驚くかの如く震え、画面にふざけたタコのアイコンが表示された。貴方からの連絡が急じゃないことなんてなかったけれど、何故か急だと感じた。耳にあてたスマホがやけにひんやりしている。
「他に好きな人ができたから別れて欲しい」なんて、最早テンプレと化した別れの口実が音質の悪いスピーカーから聞こえて、私はただ、「そっか」としか言えなかった。
貴方は電話の最後に、「最後になんか言っておきたいこと、ある?」と、遺言を聞くみたいに聞いてきた。まあ、実質遺言か。恋が一つ、死ぬのだから。
私は、袋詰めが下手でちょっとだけ破いてしまったスーパーのレジ袋の持ち手を握りしめて、ふと頭に思い浮かんだことを率直に話す。
「みかん、一人で十個も食べれないんだけど。」
我ながら、実につまらない遺言だった。聞き慣れた、「ふは」という笑い声が、音質の悪いスピーカーから聞こえた。
家に着いた途端に持っていたレジ袋が「ぱん」と小さな音をたてて限界を迎えた。中身が玄関に散らばり、私は慌てて拾い集める。二切れ一パックの鮭、レタスひと玉、三個入りのトマト、同じ味のカップラーメン二個、変な知育菓子二セット、十個入りのみかん。静かに鼻をすする音が玄関のタイルの隙間に染み込んでいった。
シンクに無造作に荷物を置いて、みかんを一個取り出す。冷たいコタツに腰掛けると、思わず「広っ」と声が出た。彼がうちに来ない日だってあったのにね。馬鹿馬鹿しくて、思わず「ふは」と笑いが零れた。
みかんは珍しく九房だった。いや、房の数なんてしばらく数えてなかったから、珍しいのかも分からないけど。閉じた目から零れた想い出を拭う手から、甘酸っぱい柑橘の香りがした。その瞬間、走馬灯みたいに彼の笑顔が瞼の裏にいくつも映って、それら全部が涙に変わって私から出ていった。
嗚咽を堪えて、くっ、くっ、と喉が鳴る。息を吸う度に体が大きく震える。みかんの香りを繰り返し繰り返し嗅ぎながら、くだらない遺言を思い出す。
一生記憶に残るような強烈な恨み言を言えばよかったかな。罵詈雑言を浴びせかけてやればよかったかな。アンタ最低だな、くらい言ってもよかったかな。泣いて喚いて困らせればよかったかな。もっと一緒にいたかったと言えばよかったかな。楽しかった、ありがとうって言えばよかったかな。
「なんて言って欲しかったの」
その呟きに対する返事は、もちろん来るはずがない。キッチンの方からみかんがひとつ転がり落ちる鈍い音がした。なにかが無造作にブツンと切られる音に似ている気がした。
広い部屋の真ん中、掴んでいたものを失った手を恋の残り香がしなくなるまで、いつまでも、いつまでも、嗅いでいた。
みかん 雨緑樹林 @hiemilignosa
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