春へ歩け
燈栄二
春へ歩け
一面まっ白の氷の世界、閉ざされた常磐の世界、人類唯一の生存圏のすぐ側に、二人の男がうつ伏せに倒れ込む形で死んでいた。
この二人は長旅をしてきたのだろう。服は薄汚れ、ところどころ酸化した血の色をつけ、破れている。皮膚は赤紫に染まり、体の一部は機械に置換されていた。
二人の名を知る者はもういない。未来永劫現れない。寒さに朽ちることもなく、二人は生きていた時と同じように、身体を残し続けるのだろう。
こうして死体が二つ完成する少し前の話になる。人々が辛うじて生活をしていたシェルターがあった。辺りの凍りついた大地でオアシスのような環境だったそこでは、多いとは言えないくらいの人々が終わりに向かって生きていた。
しかしそれも長く続かず、最後の二人となった彼らはまだ人がいた時に計画された楽園、永遠の春を探すという、最初で最後の賭けに出たのだ。
「木材、しめっているようですね。おそらく火は無理です」
二人の男の中の細身の青年が、火を起こそうとした痕跡の前にため息をつく。黒い髪に淀みのある青い瞳は、この世界のように冷たい。
「そうなると急いで進まないと凍死だね。昔の地図もあてになるかならないかだけど、もうシェルターも氷漬けだもんね」
怖いねー、と状況を理解しているのかしていないのか語るのはもう一人の男だ。栗毛色の髪に、眼は青ではあるが、先程の男とは異なり、夜空のようなどこか暖かみのある藍色をしていた。
「私が力及ばなかっただけに……すみません」
「それは違うと思うな。僕だけならもっと早く皆死んじゃってたと思うし、少しでもあの場所が楽園であれたのは君のおかげだなあ、ヴァーシャ」
ヴァーシャと呼ばれた男は短く感謝の言葉を述べると、付かない火をつけようともう一度試みる。
木材がどんどんと水気を帯びていく。生命の匂いも何もしない雪原の中で、ヴァーシャは不意に口を開いた。
「もしも、春に辿り着いたら、卿は何がしたいですか?」
卿、本名はヴァーシャも知らない栗毛色の髪の青年は少し考える素振りを見せ
「あそこにシェルターがあって、皆が生きてた痕跡を残してあげたいな」
卿はそう言って干して塩漬けにした肉をひと口かじる。それを見て、ヴァーシャは思わず目を逸らしてしまった。
「これは硬いし、塩の味しかしないから、そっちの食料が尽きるまでは柔らかいやつ食べててよ」
卿はヴァーシャを気遣ってそう言うが、彼が視線を動かすことは無かった。
「ヴァーシャ、絶対に春へ行こう。そうしたら、僕たちのこの時間も、シェルターで過ごした戻らない時間も、無駄じゃないって思えるよ。だから元気だして」
ありがとうございます。目なんて合わせない。ヴァーシャの心は春を目指すこと以外には、何も共感できていなかった。
しかし、それで衝突するほど二人は子供でもなく、忘れられるほど大人でもなかったので、その日のことは無かったこととして再び銀世界を歩み出す。
ろくな食事も取れないまま、二人はただただ歩いていた。ビタミンの欠乏した体も、凍りついて失った生身の体があった箇所も、全てを忘れ、ただ暖かい土地を求める機械のように歩き続けた。
このまま寒さの中死ぬのではないかという不安感、春なんて嘘なのではないかという恐怖。二人の持つものは同じであったが、もし共有してしまえばそれが世界の真実に起きかわってしまうような心地がし、話すことは憚られていた。
そんな中、ヴァーシャはふと、手を伸ばす。
「どうしたの?もう手も限界?」
白い息を漏らしながら、卿は尋ねる。凍傷があまりにもひどいので切り落としたいのか、という意味だろう。ヴァーシャは首を横に振る。
「寒いです。意味が無いことは理解しています。が……手を握って、くれませんか」
白い息が漏れていく様子は魂が抜けていくかのようにも見える。そんな死の大地で、卿はヴァーシャの手をそっと握った。手袋越しに感じる機械仕掛けの手は、どこか暖かみを帯びているように感じられた。
「花だと何が好き?」
この世界に花などもうない。にも関わらず、卿はヴァーシャの答えを待つ。
「エーデルワイス……です」
いくつ経たかも分からない、凍った大地を歩く音の後に、消え入りそうな声は答えを出す。それを卿は聞き逃さなかった。
「良いね、僕も好きだよ。綺麗だけど、どこか強さを感じるし」
卿が大抵のことは肯定する人物、というのはヴァーシャのよく知るところであったが、この言葉は彼の本心でもあるのではないかと感じていた。
理論的な説明が出来るほどヴァーシャは思考が回りそうになかったが、間髪入れずにそう答えたこと、卿の義手になった手がより強く、生身のヴァーシャの手を握っているように感じられたことから、そう考えていた。
「探してみようよ、エーデルワイスもあるか。毎日好きな花を眺めていられたら、君も幸せでしょ」
卿の足は体重を支えきれなくなったのか、ふらりと倒れそうになる。ヴァーシャはとっさに足を開き踏ん張る。ここであきらめるわけにはいかない。
「そろそろ……休む?疲れちゃったかもしれないな」
ヴァーシャが何か言うよりも前に、卿はぐったりとその場に座り込む。
「大丈夫ですか!」
ヴァーシャもすかさずしゃがみ、バランスを崩していた卿の足へ軽く触れる。骨が折れているわけではなさそうだが、どこかで裂傷を負っていたのかもしれない。
「僕なら平気だよ。今日は疲れたかもしれないけど、明日は歩けるよ。心配かけてごめんね」
きっと皮膚の色は変色しているのだろう。ヴァーシャの思考でもそれくらいは判断することが出来る。急がなければヴァーシャも卿も寒さの中で命を落としてしまう。もう限界なんてとっくに超えている。
「明日歩けても意味はありません。きっと明日死ぬだけです」
「君、今なんて言った?」
この寒さが生ぬるいと思えるほどに冷たい棘のような卿の声が突き刺さる。出過ぎた発言だと謝らなければならない状況であるのに、ヴァーシャの言葉は止まらない。
「明日歩けても明日死ぬと言いました。今日何としてでも進まなければなりません。進みましょう、私があなたの足をやります」
ヴァーシャは立ち上がり、卿に手を差し伸べる。機械仕掛けの手を血が出そうなほど握ると、機械仕掛けの足を動かし、無理やり前進していく。
寒い、痛い、体の感覚がなくなっていく。足もちゃんとついているのか分からない、まるで宙に浮いているかのようだ。卿は話す体力もないのか、前へと顔を歪めながらも進み続ける彼へ笑みを見せるだけであった。
もしかしたら、卿はヴァーシャを元気づけるためだけに体力を消費しきっていたのかもしれない。
「ごめん、ね、ヴァーシャ。やっぱり一回休もう、君ももう……」
「そうしたらきっと死ぬ……見てくださいよ、もう少しですよ、見えて、きました」
遥か地平線の彼方に色とりどりの植物が生えているのをヴァーシャはかろうじて視界に捉える。しかし、卿の疲れ切った虚ろな眼には、この世界はおぼろげな白い大地のままだった。
卿はそっとヴァーシャから手を離す。
「どうされましたか」
「君の方が体力が残ってる。君だけでいいから春が見えた方向に進むんだ。僕はもうだめだ。だからせめて僕が、ここまで来た証として、先に進んでくれ」
ヴァーシャが戸惑い、言葉を失っていると、卿は自身の持っていた干し肉をヴァーシャの手に持たせる。
「これも持って行ってよ。シェルターの皆も、きっとこれを望んでいると思うんだ。僕は救世主にはなれなかったけど、君はそうじゃないって思うんだよね」
卿はそこまで話すと、立っていることもままならなくなり、凍った地面に倒れこむ。
「もう行って。僕には熱いのか冷たいのかも分からない」
「そんなことできません。あなたと一緒だったから私はここまで来れました。二人で進めないのなら、私はここで死にます」
「そんなこと、言わないで、君だけでも、」
卿は起き上がり、ヴァーシャへと手を伸ばしたが、バランスを崩し、うつ伏せに倒れこむだけとなった。
「じゃあさ、先に春まで向かって、様子を見てきてよ、なるべく急いで、僕が死ぬ前に戻ってきてね。それでいいかな」
ヴァーシャは頷く。寒さに震え死んでいくだけだと思っていたシェルターに現れ、設備を駆使し彼を生きながらえさせてくれた恩人だ。本心では、あまり反抗したくはない。
「絶対に戻ります。それまで、待っててください」
ヴァーシャは食料を背負い、金属のきしむ音を立てるようになってしまった両足を走るように動かす。地平線なんてすぐそばだ。絶対に辿り着く。寒さが暑さに変わっていく。あと少し、あと少し、その思いが彼をつき動かし続けていた。
その様子を閉じていく視界の中で辛うじて観測していた卿は、脱力し、残っていた息をふうと吐き出す。子供の頃も、本当の名も、知らない。
人々に幸せを与え、ノブレスオブリージュのごとく尽くし続ける。
そんな卿の態度を見た人間が、いつしか貴族を指す卿を彼の名にしたのだ。献身だけの毎日は楽しさとは無縁だった。誰にも心の底から言葉を発せなかった。
そんな時、世界は凍り付き、救世主とならなければいけないというときに出会ったのが、ヴァーシャだった。
「絶対に生きてね、ヴァーシャ。忘れないでね、僕たちのこと」
言葉は届かない、それでも枯れた喉を締め付けてでも声を出した。瞬間、卿の体からあらゆる力が抜けていく。
「お待たせしました、まだ正確には調べられてはいませんが、気候は温暖で、美しいところでした。人とは接触を避けてきましたが、有害そうではありませんでした。行きましょう……卿?」
ヴァーシャは呪文のように見てきたものを話していると、卿が反応を示さないことに気付く。
「嘘ですよね、生きてますよね!目を開けてください!」
人生で一度もなかったといっても過言ではないほどに声を張り上げる。しかし卿はなにも反応を示さない。
「すみません……私が遅かったばかりに。寒かったでしょう。今、温めて差し上げますから」
ヴァーシャは身にまとっていた上着を脱ぐと、卿にそっとかける。肌に直接寒さが染み込み、全身に痛みを誘う。
その後、しばらくヴァーシャは上着をかけられた動かぬ卿を眺めていた。もしかしたら動き出すのではなかろうかと期待していたのだろう。
「私、あなたが望むのなら生きようと思います。ここまで私を生かしてくださったことは感謝してもしきれません。ありがとうございました。それと……エーデルワイスは見れそうになかったです。気候が、合わないのでしょう」
ヴァーシャはそう言って歩き出そうとしたが、何もないところで足を躓かせ、地面へと顔をつけて倒れてしまう。そのまま二人が動き出すことはなかった。
春へ歩け 燈栄二 @EIji_Tou
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