取材対象D ――深淵の古代文書 後編
今回取材をした相手は、記者と既知の関係である「教授」。
教授は、廃洋館で「紙片」を見つけ、その解読を始めた。なんでも未知の古代言語で書かれているかもしれないものだそうだ。
それとほぼ同時期に、教授の身の回りで怪奇現象が起こり始めたという。
それでも解読作業は順調だと、一度
教授の残したノートを読むために――。
昭和三十二(一九五七)年十一月四日。
私は教授の勤める国立大学を訪れた。
「先生は先週末から姿を消したんです」
と言いながら案内してくれたのは、教授の助手だという若い大学職員だった。
「警察にも相談したんですけど何もわからなくて。先生、研究室に何もかも置いたままどこかに消えちゃったんです」
「そうだったんですか……」
「
彼は私を研究室に通してくれた。
十二畳ほどの広さがあるそこは、どこもかしこも本と紙の束で溢れかえっていた。
部屋自体が荒れ果てているわけではないのだが、とにかく蔵書の数が尋常ではなかった。両側の壁や床から天井まで届く本棚に本がびっしり、わずかな隙間にも横に斜めに本や書類がねじ込まれている。それだけでなく、三つある机のうち二つは積まれた本の塔が高々とそびえ建っているし、机の下の木箱にも本が詰め込まれている。
右を見れば本の山、左を見れば本の崖だ。
それらのうちほとんどが外国語だ。さすが言語学、それも外国語を研究していただけのことはある。
「はくしょん!」
足を踏み入れて早速、私はくしゃみを立て続けに三連発した。
窓からの陽光に照らされ、細かい埃が宙を舞っているのが見えた。やはりこれだけ本が縦横無尽に積まれていると、掃除が行き届かないのだろうか。
鼻をすすりながら室内を探索する。
教授の言っていたと思しき、
その代わりに、机の上に、私宛の物を見つけた。
茶色い表紙のノート――教授が最後に私に託したものだ。
ご丁寧に「化野君へ」と書かれたメモ書きが添えられていたために、私がそれを持ち出すのに支障はなかった(大学に許可は取った)。
私は大学を後にすると、近くの公園のベンチに腰を下ろし、ノートを開いた。
それは教授が記した日記のようだった。
所々インクが滲んで判別できない部分があるが、とりあえず読み進める。
解読作業の工程を記録したものらしい。
九月二十六日(木)
母の伝手で訪れた旧華族の屋敷で、明治時代の洋書をたくさん見つけた。読むのが楽しみだ。その中に凝った装丁の一冊があった。
黒地に金文字で装丁が施されている。とても高級そうで、状態が良い。
本の中に一枚の紙片が挟まっていた。未知の文字だ。
なぜだろう、とても興味をそそられる。
九月二十七日(金)
紙片の文字を解読しようと思う。
でも私の知る限りのどんな言葉とも異なるようだ。横書きだからたぶん西洋の言葉、それも
ひとまず
九月三〇日(月)
つい解読に没頭して、土日の日記をつけそびれてしまった。
これは記録なのだからちゃんと書かねば。忘れないようにしよう。
肝心の解読だが、紙片に書かれている言語はどうやら仏蘭西語ではないようだ。
次に
二十二時〇六分、夜食に食べようと手に取った■、イワシの煮つけの缶詰に穴が空いていた。しかも中身が失われていた。
五個とも全部だ。誰かの悪戯にしては妙だ。
仕方がないので夜食は断念。
腹が鳴って作業進まず、二十二時三〇分、渋々帰宅。
一〇月
午前中の講義を一コマ終えた後、あとは一日中、紙片の解読作業。
二十二時四十二分、研究室の窓から見える街灯が、急に真っ赤に光った。
まるで火事のような色でどきりとしたが、火事ではないようだ。
赤い逆光に照らされ、何者かの影がこちらを見下ろしている。
眼が光ったのでそう見えた。あれは猫か? それとも
それにしては大きかったように思えたが、光る眼は一瞬のことだったので詳細不明。
赤い光は十数秒で消えた。
今のは、いわゆる怪奇現象なのか?
化野君に教えたら彼は喜ぶだろうか。今度話してみよう。
(ここまでは聞いた話だ)
私は再びノートのページを繰る。
一〇月二日(水)
解読が進まない。
とりあえず紙片の言葉を、見たまま別の紙に書き写してみる。
どう考えても横書きだし、中国や朝鮮の言語様式とは明らかに異なるので、
紙片自体があちこち薄汚れているため、判別に時間がかかった。
一〇月三日(木)
ゼミナアルの日なので、生徒が研究室に来訪。
卒業論文の期限が迫っているため、皆忙しそうだ。
論文の助言をしていたので、解読作業はいつもの半分しか時間を割けなかった。
といっても進捗は芳しくないのだが。
一〇月四日(金)
今日は講義が三コマあったので忙しい。
解読作業が進まない。もどかしい。手がかりが掴めそうで掴めない。
仏蘭西語でも独逸語でもないかもしれない。
となれば何だろう。
そうだとすれば、新たに資料を取り寄せる必要があるな。
一〇月五日(土)
大学の図書館に伊太利語の辞書があったので借りて来た。
紙片から幾つかの単語を書き出して照らし合わせるが、どれとも該当しない。
明日は
一〇月六日(日)
大学が休みなので自宅で作業を進める。
紙片の言葉は、どうも西班牙語でもないようだ。
単語自体は幾つかの決まった文言が繰り返されている、とわかった。
しかし意味はさっぱりだ。読み方すらわからない。
羅甸語と少し文法が似ているようにも思えるが、羅甸語の単語ではないのは確かだ。
どういうことだろう。
羅甸語から発展した系列の言語で合っていると思うが……。
明日、神保町で
一〇月七日(月)
大学で書類仕事を終えた後、午後は神保町に繰り出して書店街を散策。
埃及語の資料が見つからない。ひとまず土耳古語の本を一冊見つけたので購入。
しかし私は土耳古語に疎いので、まずこちらを解読すべきなのだろうか?
一〇月八日(火)
講義を一コマ終えた後、また神保町の書店街に繰り出し、あちこちの店を梯子。
資料を探すのに時間を取られ、肝心の解読作業が進まない。
でも、埃及語の辞書を取り寄せ注文できたので及第点。
ライスカレーが旨い。
一〇月九日(水)
銀座のカフェーで化野君と待ち合わせた。
彼の書く記事は割と好きだ。そこらへんのゴシップなんかと異なり、相手に敬意を払っているように読めるからだ。
例の紙片の話をすると食いついてくれた。
サービスで、缶詰と赤い街灯の話もする。彼は興味深そうにメモを取っていた。
きっと面白い記事にしてくれるだろう。
(おっと)
唐突に日記から褒められ、私は少し戸惑った。
他者からの評価をこういったカタチで目にするのは照れ臭い。
また
一〇月一〇日(木)
妙な夢を見た気がするが、覚えていない。
目覚めはすっきりしないものだった。
ゼミナアルで生徒たちの論文の進捗を聞く。ひとまず順調そうで一安心。
僕のほうも順調に進めたいものだが、そうはいかないのがもどかしい。
「ん?」
唐突に話題が変わった。――「夢」? 今まで研究の過程を書いていたのに、何の前触れもなく「夢」とは?
私は妙な違和感を覚えたが、気にせずに続きを読み進める。
一〇月十一日(金)
金曜日は講義が三コマある日なので忙しい。
紙片の解読は進まず。何か解読のとっかかりが欲しい。
ぼんやりと何かを掴みかけている気がするのだが。
一〇月十二日(土)
近頃ぶっ続けで業務に追われていたので休養するつもりだった。
しかし唐突に閃いてしまった。
紙片に書かれている言葉、現代のそれではないかもしれない。
私はこの紙片が明治時代に出版されたと思しき洋書に挟まれていたために、そのあたりの時代の言葉、もしくはそれ以降の言葉だとばかり思っていたが、それは違うかもしれない。
もっとずっと古い時代の言葉という可能性もあるではないか。
何故こんな簡単なことに気づかなかったのか。
凝り固まった思考は研究の妨げになるとつくづく実感。
一〇月十三日(日)
手始めに古代羅甸語と照らし合わせてみる。すると、とある例文の文章体系と似ている事に気づいた。
それは十世紀ごろに書かれた聖書の文言だった。
そうか、これは宗教的な祈りの言葉なのかもしれない。
盲点だった。
よし、その線で解読を進めてみよう。
一〇月十四日(月)
研究室の本の配置が変わっている気がする。
生徒には本をいじるな、と言いつけてあるから、生徒の仕業ではないはずだ。
濡れた泥を掘り返したような臭いが漂っていたため、慌てて窓を開けて換気。
本が湿気ってしまうではないか。
帰りにまた神保町に行って本を探そう。
一〇月十五日(火)
これは何語なんだ! 今まで調べた限りどの言語とも該当しないではないか!
昨日、新たに教会羅甸語の資料を入手したので、これと照らし合わせてみる。
絶対に解読してみせる。
一〇月十六日(水)
進展した。
例の紙片の文章は、教会羅甸語の文法と似ている。
つまり、古代の羅甸語にも近いかもしれないともいえるはずだ。
冒頭に頻出する■■■■という言葉は神の名前なのだろうか? ひょっとしたら古代の
古代
ならば古代ケルト民族の文字や、ケルト神話からも攻めてみるべきか。
とにかく一歩前進。
嬉しいので帰りに飲み屋に寄って、焼き鳥とビールを一杯飲んだ。
「……何だこれ?」
肝心の神の名が書かれていると思しき箇所は、インクで塗り潰されていて読めなかった。
今までも書き損じやインクのかすれなどで読みにくい場所はあったが、この部分は明らかに意図的に塗り潰されているように見えた。
先を読み進める。
一〇月十七日(木)
研究室の扉が汚されていた。
ドアノブに、妙に粘る泥のようなものがべっとりと付着していた。うっかり握って手が汚れた。本に泥がついたらどうしてくれるんだ。
部屋の中に泥はついていなかったが、魚が腐ったような生臭い臭いが一瞬だけ鼻を突いた。換気するもすっきりしない。
それはともかく、解読作業が少し進んだ。めでたい。
おそらく、紙片は、■■■■という神聖な存在を称える、固有の文言のようなものが書かれている。
文章の趣旨がわかれば、そこを手掛かりに進めることができるはずだ。
興奮してきた。絶対にカイドクしてみせる。
一〇月一八日(金)
やはり紙片に頻発する■■■■は神の名前で間違いがないだろう。
これはこの神を信仰する古代の宗教で書かれた文書の一部なのかもしれない。
深夜零時を回ったころ、窓を外から叩くような音がした。
外を見たけど誰もいない。いるわけがない。
おかしいな。この部屋は二階にあるのに。
一〇月十九日(土)
誰か に監視さレていルよう な 気がすル
「――」
ぞくり、と私の背筋に悪寒が走った。
今までの文章と異なり、その一行は明らかに異質だった。
教授の理路整然とした記録にはあまりにも不釣り合いな、不揃いの文字列。
それは、何かが狂ってしまったことを表している。
わけのわからない恐怖に目を逸らしたくなるのを堪えて、続きを読む。
一〇月十九日(土)
誰か に監視さレていルよう な 気がすル
背中に視線を感じる おかしい 振リ向いても 誰もいないのに?
それはともかく、解読作業は進展した。
教会羅甸語の祈りの言葉と、文法が酷似した一文を見つけた。
やはりこれは神に捧げる祈りの言葉で間違いがないはずだ。
ひょっとして、教会羅甸語が成立する、いや、羅甸語成立よりも古い言葉なのかもしれない。
もしもそうだとしたら一大発見につながるかもしれないぞ。
しかし、■■■■という神は初耳だ。
一〇月二〇日(日)
ふと思ったのだが、この紙片の材質は何だろうか?
少なくとも私が知っている紙――
西洋では
それとも、
それにしては手触りが植物のそれではないように思える。
植物ではなく、羊皮紙のようなもので書かれているのだろうか?
羊皮紙はむかし一度だけ実物を見たことがあるが、あれとこの紙片は何かちがう気がする。
一〇月二十一日(月)
何かがおかしい。
とき折いしきが飛んでいル。気のせいではない。カイドクに没トウしていると、いしきが飛んでいる時間がある。
今初めてそれを自覚した。一体いつからなのか。
イシキが戻ると、■カイドクのためにカきなぐっている文に、おぼえのない記述が追加されている。
紙辺の文ショウと同じヨウ式の文字で、まったく■ ことなる文がいつのまにかシルさているのだ。それが日に日にふえているような気がする。
まるでだレかが 僕のかラだを のっとっていルのだロうか
おかしい 文がうまく書けない
僕がボクでいられルうちに はやく、だれかに てがかりをのこさないと
だれなら、この記ろくをよんでくれる?
そうだ
化野くん
彼ならばきっと
明らかに文章がおかしい。さすがの私も気づいた。
漢字が減っている。まるでその字が思い出せない、あるいはわからなくなっているかのように。誤字脱字もある。
教授は非常に理知的な文章を書く人なのに。おかしい。
まるで――教授の精神が何かに侵されているのを、如実に表しているような。
日記はまだ続いている。
一〇月二十二日(火)
街で化野クンに出会った。
彼は ぼくを心配してくれた。
そういえばここ三日ほどテツ夜で研きゅう室にこもってしまったので、身なりが乱れていた。
ぼくとしたことが。そういえばお気に入りのループタイはどこに行ってしまったんだ?
でもそんなことはどうでもいい。
ぼくは気づいたら何ごとかをぺらぺらとまくしたてていたらしい。化野くんに止められて気づいた。
そうだ伝えないと。ぼくの記ろくを彼に託さないといけない。
ぼくが、ぼくであるうちに
「……」
私は嫌な冷や汗をかきながら、ページを繰る手を停めた。
――何だこれは?
まさか……私と会った時の教授は、誰かに意識を乗っ取られていたとでもいうのか?
だとしたら。
(それは誰が?)
そもそも意識を乗っ取るなんて、そんな荒唐無稽なことが起こりえるのか。
(あるのだとしたら)
それが教授である理由は何なのだ?
理由――あの紙片しか、心当たりがない。
教授を
何が書かれていた?
そして――教授と紙片はどこに行った?
私は震える指先で、また
一〇月二十四日(木)
気づいてしまった。この紙片は「紙」ではなかった。
妙にしっくりと手になじむはずだ なぜもっとはやくわからなかったのか
これは紙ではない
これは
人の皮
ひゅ、と私は喉を鳴らして息を吸い込んだ。
全身から冷や汗が噴き出て、心臓が早鐘のように激しく鼓動を打つ。
まるで全身に凍った血液が送られているかのように、私の心身が冷えていくのを感じた。
「……人の皮?」
件の紙片は「紙」ではなくて、人の皮だと、書かれている。
まさかそんな。まさか?
なんとおぞましい。
吐き気がするわけではない――よく考えれば、これもなぜ?――のに、私は口元を手で押さえた。
恐ろしいのに……。
読み進める手が止まらない。
(教授は私に何を残した?)
読むことはきっと私の義務だ。
一〇月二十五日(■)金
また恐ろしいゆめをみた
ゆめはいつも知らない国の、きり深い■湖だ。ぼくはひとりで湖のほとりに立っている。
いつも同じ、ゆめはつづいている。
あいつが、深くよどむ泥のそこからやってくる。■
ぼくは逃げられない
ああ ぼくはおかしい わかっているのに
カイドクがはかどっていルのが ゆいいつのなぐさめか。
この■ し片の文は ■■■■への祈りのことば うしなわレた古い古いことば
いけにえ
あレは ひとを いけるしたいへかえる?
「……生ける死体?」
これはそういう意味でいいのか? まさかそんな。死体が生きてなどいるものか。
しかしこの記述はそうとしか読めない。でも、どういうことだ?
続きを読む手が、目が、止められない。
一〇月二十六日(土)
そうか わかった
このしへんは、■■■■を崇拝する信者のしるした教本
いのりのことば
■■■■の黙示録
その中の 失われた一かんの一ぺーじ そうだ ぜったいにそうにちがいない
ほかの本には何がかかれていたのだろう
よみたい でもよんだらきっと 戻ってこられなくなる
ぼくは もう
一〇月二十七日(日)
突ぜん、あたまの中に こたえがふってわいた
よめる! 文しょうが ぜんぶよめる ああ■ ■ うれしい
こんなに うれしいことはない!
うれしい うれしい
きっと■■■■のおみちびき
1〇月二十八日(げ)つ
かきたいことは たくさんあるのに
思いどうりに 文がかけない どうして
ぼくはどうしてしまったのだろう
一〇月二十9日( )
わかってしまった
これは罠だった
■■■■が 高い知のうをもつ人間を探すための わなだった
ぼくは まんまと そのわなにはまってしまった
モうおそい もどレない
でもぼくは あらたなセカイのとびらをひラいた
さそわれているのだ
きっと また湖の ゆめをみル
一〇月三〇日( )
雨がふっている いま れい時になった
研きゅう室の外はどしゃぶりだ
あの がい灯が、まっかに光っている
あれが来た 深いところへ ぼくをつれていくために
あれは れきしから消えた 死の神だ
いやだ ぼくはいきたくない
ああ 窓に まどの外から
■ラ■■が ぼくをみつめている
たすけ
それが日記の終わりの文章だった。
最後の文字は激しくかすれていた。
ノートを持つ私の手が震えていた。人は恐怖を覚えると本当に体が震えるのだ、と
でも、それを冷静に俯瞰する余裕はなかった。
(何だこれは)
何だこの記録は? ここに書かれている内容が、本当に教授の身に起こったことだというのか?
それが本当ならば。
この黒塗りの下に、その名が書かれているはずの「死の神」……それが教授を「連れて行った」ということか?
どこへ?
なぜ?
(あの謎の紙片を解読したからか?)
だとしたら、件の紙片は一体何だったのだろうか?
教授の日記から要約すると「歴史から消えた死の神を崇拝するための祈りの言葉」である文章が記されていたようだが。
しかもその材質は――おぞましいことに――「人の皮膚」だったとも書かれている。
何もかもが荒唐無稽すぎる。
(まさか。ありえない)
落ち着いて考え直そう。
そうだ……そもそもその「紙片」を私は実際に見ていない。
さっき大学で案内してくれた助手の彼にもちらりと聞いたが、教授は紙片を誰にも見せなかったらしい。研究成果を他者に盗まれないため、学者は自分の研究内容を秘匿する――と、以前に教授から聞いた――必要があるというから、まあ無理もない。
(それはつまり)
教授が「紙片」について報せたのは、この私ただ一人だけなのだ。
……そして私は言語学者ではないから、教授の言葉の真偽を確かめることができない。
変な話、教授が私に壮大なペテンを仕掛けていたとしても、専門知識を持たない私はそれを見破ることができないのだ。
(まさか――騙された?)
だとしたら、何のために?
わざわざ、「日記」という凝った小道具まで用意して? 一ヶ月も時間を費やし、身なりまでぼろぼろに乱して?
バカな。そこまでする
それに……私と最後に会った時の、あの言葉と表情。
(あれは嘘をついている目ではなかった)
教授は、嘘はついていなかった。
だからきっと、この日記に書かれている内容は、実際に教授の身に起こったことに違いない。
でも、もしこれが本当に事実だというのなら。
(何らかの存在が、教授を連れて行った――ということか?)
それは、教授の日記に記された「神」なる存在の仕業なのか? だとしたらそれは何だ?
「ダメだ」
私は頭をひとつ振った。
堂々巡りで答えが出ない。確かめようがない。きっと答えを知る者はどこにもいない。
私はベンチから立ち上がった。
(……これは記事にしてもいいものなのか?)
構わない、と教授は銀座のカフェーで言ってくれたが。でも、実際に人一人が行方不明になっている。
現在進行形の事件を、オカルトを絡めた記事で茶化すほど、私は不謹慎ではない。
「この記事はボツだな」
がっかりしたが、少しだけ安堵する自分もいた。
教授の残したノートを鞄に閉まっていると、向こうから声が聞こえて来た。
「化野さん、化野さんいますか?」
「はい」
「ああ、よかった。まだ近くにいらして」
それはさっき案内してくれた、助手の男性だった。手に一冊の本を持っている。
「化野さん、これ、あなたに渡すようにってメモがあったので。どうぞ」
それは黒い装丁に金字の本だった。銀座のカフェーで教授が読んでいた――そして、あの紙片が挟まっていたという――あの本だ。
私はタイトルを読んだ。
表紙には「遠き世界よりの来訪者」と書かれている。
私は本の表紙をしばし見つめた後、それも鞄に閉まった。
助手の彼は言う。
「あの、もし先生について何かご存じなら、教えてください」
不安そうな視線が私に縋りついてくる。
「ええ。何かわかったら。本ありがとうございます」
私は彼に礼を言って、公園から出た。
秋晴れの午後だった。
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