それは誰かに迫りくる

涼月琳牙

取材対象A ――海に取り込まれる 前編

昭和三十二(一九五七)年七月三〇日。

記者はとある漁村を訪れた。その小さな村に奇妙な噂が広まっていた。

なんでも「海妖(うみあやかし)に魅入られる」という。そして実際に魅入られた者がいるという。

記者は真偽を確かめるべく、その漁村を訪れた。

(取材レポート〇一番より引用)



その漁村は随分と田舎だった。

何しろバスが一日に四便しか来ないのだ。朝と昼前に一便ずつ、夕方と宵の口に一便ずつ。村の学生(といっても片手の指で足りる数)は皆このバスを使って、隣町の学校まで通っている。

バスを降りて早々、私は通りかかった住人に声をかけた。

「なんだべ、あんた。村の人と違えな」

答えてくれたのは年のころ五十代と思しき女性だった。

「あんた東京からきたんか。えれえ遠い所(とっ)から、まあまあまあ」

この村は北方から来る親潮の影響で、少量とはいえ四季折々で多様な魚を水揚げする。春は鰆(さわら)、秋は鰍(かじか)、冬は鮗(このしろ)と、冗談みたいにその季節旬の魚が獲れるのだそうだ。では夏は何なのだというと、これが不思議な事にぱたりと魚が獲れなくなるらしい。

村の衆は魚が獲れない夏になると、村をぐるり囲む岩場に赴いて、岩牡蠣を獲るそうだ。

私は取材しにこの村に来たと告げると、女性は目を輝かせて、饒舌に件(くだん)の漁師について話し始めた。

「まあ、あったら奇妙なこどはねえよ……」

女性は噂話が好きなようだった。

――一ヶ月ほど前に、とある若い漁師の青年が、「それ」に遭遇したらしい。

その時、青年は一人で穴場に岩牡蠣を獲りに行ったあと、日が落ちても帰らなかった。

潮に流されたかもしれないとちょっとした騒ぎになって、村の男連中が篝火(かがりび)や漁火(いさりび)を焚いて、夜通し近隣を探したという。

東の空がうっすらと白み始めるころになって、若い漁師は発見された。体中に絡みついたフノリとともに岩場に打ち上げられていた――。

「んだが、あったらこどになってから、妙な話ばするようになっちまってな」

その漁師は行方不明事件以来、繰り返しこんな事を訴えるようになった。

――「俺は奴らに取り込まれる。海の奥に連れていかれる」と。

そう訴え続ける彼は海に出ることができなくなってしまったという。そして事件の三日後から、使われていない漁師小屋に引きこもったそうだ。

「ま、おおかた、岩で滑って頭さぶつけて、記憶が飛んでるんだべなあ」

海に出られない漁師とは致命的だ。しかし幸いなことに、彼は仕事にありつけているという。

「手先が器用なもんでなあ、漁で使う投網(とあみ)さ直してんだあ」

そういうのは女性の仕事ではないのか、と思わず尋ねると、女性は顔をしかめながらこう答えた。

「そうだけども、こげな小さな村だもの、人手は多いに限る。それにそこらの娘連中より器用だからねえ」

さすがにタダ働きは悪いから、と村の者は、報酬代わりに食事や酒を提供しているのだ、と女性は言った。

 

村は小さいながらも活気に包まれていた。主な産業は漁業だが、最近はハイシーズンになると都会からわざわざ避暑に訪れる者もいるらしい。

そのおかげで新しい宿が建ち、村はちょっとした好景気に見舞われているとか。近々バスの便数も増えると小耳に挟んだ。

「おにいさん、ちょっと寄ってかんか?」

目抜き通りと思しき道を歩いていると、食堂のような店から声をかけられた。四十歳くらいの女性が手招きしていた。

「あんた他所(よそ)から来たんね? 今、イカの一夜干し焼いたんよ。試食してかんか?」

どうやら食堂と惣菜店を兼業している店らしかった。

せっかくのお誘いだが、私は首を振った。

「あいにくですが、イカが苦手で」

どうにも海産物の生臭さが好きになれないのだ。

「あれまあ、せっかくこの村さ来たのに、もったいねえこと」

「すみません」

私は謝罪し、ついでに彼女に話を聞いた。

「この村は女性がたくさん働いてますね」

「そりゃ漁師の村だもの。男は、昼は海に出て魚を獲ってるんだあ」

「なるほど」

まあ、ちゃんと考えれば当然の話だ。

「まあ、男でも海さ出ねえで、陸さいるのも居っけど」

「その人、どこにいらっしゃるんですか?」

「え?」

「私はその人に会いに来たんですよ」

「あれ、珍しいこっだこと。――なら、行くついでに一個頼まれてくれん?」

「何でしょう?」

女性は店の中に引っ込むと、すぐに小さな重箱を持ってきた。

「黄粉餅(きなこもち)たくさんこさえたから、持ってってくんね」

私は重箱を預かった。

どうやら――と私は考えた――件の人物は、この女性に可愛がられているようだ。


教えてもらった場所を訪ねると、そこは集落から離れた古い小屋だった。

彼は行方不明になるまでは住宅地で暮らしていたが、事件以来一人でこちらに住むと言って引きこもってしまったそうな。

私は潮風に晒された木戸を叩いた。

「ごめんください、いらっしゃいますか?」

「……何だあんた。村のやつじゃねえな」

男の声がした。思っていたよりもずっと若く精悍な声だ。

「東京から取材に来ました。あなたが行方不明になった時のお話を聞かせてください」

「東京者(もん)がわざわざ何の用だ。お前も村の連中と同じように、どうせ信じねえに決まってる」

「それは私が判断します。でも、最初から嘘だと思ってるなら、わざわざこんなところまで来ません」

そう言うと、男が扉に近づいてくる気配がした。

「……俺の話を信じてくれるのか?」

「私は、あなたの話が嘘か本当かの判断はできません。でもあなたから聞いた話は正確に取材します。それが私の仕事です」

私は畳みかける。

「私の名刺を渡します。もしよろしければ、お話を聞かせてくれませんか。もちろんお礼もしますよ」

「……」

「あと、食堂のおかみさんからお届け物です。黄粉餅だそうですよ」

しばしの沈黙の後、木の引き戸がゆっくりと開いた。

「それを早く言いなね」

出迎えてくれた彼は、夏だというのに長袖の服を着こんでいた。


彼は、どう多く見積もっても二十代前半の青年だった。

「怪奇ルポライター、っちゅうのはどういった仕事なんだ?」

私の名刺を見た彼はそう尋ねた。

日本全国の奇妙なエピソードを取材し、集めて記事にして、出版社に売って本に載せてもらうのだと説明すると、彼は笑顔を一度浮かべた。

「東京にはけったいな仕事さあるなあ。おもしれえ」

どうやら興味は持ってくれたらしい。

私は漁師小屋を見回した。板の間の中央に、火の入っていない囲炉裏が設えられている。一角には薄い布団が畳まれ、逆側には行李が置かれている。土間には水瓶と、今修理中と思しき投網が雑に積まれていた。

「茶でも淹れっかね。黄粉餅も食うどいい」

「お構いなく」

「正直言っで、俺も一人で退屈してたんだあ。自分から人払いしといて勝手だよな」

彼は水瓶(みずがめ)から水を鉄瓶(てつびん)に汲むと、自在鉤にそれを提げて、マッチで炭に火を入れた。

「――で、湯が沸くまでの間、俺の話でも聞くか?」

 「ぜひ」

私は即答した。そのために遠路はるばるこの漁村まで来たのだから。

私が万年筆と手帳を取り出すと、彼は腰を据えなおした。

「……少なくとも、今から言うことは、俺が本当に体験したことだ」



――俺はあの時、一人で秘密の穴場に行ったんだ。

ガキの頃から馴染みのある場所でな、天狗岩……そう呼んでいる変な形の岩があんだが、そいつを越えた向こうに潮だまりがあってな。

最初はさ、夕方にちょっと行って牡蠣取ってすぐ帰ろう、って思っでたんだ。日が暮れると磯は危ねえんだ。足元が暗いと海藻で滑るし、フジツボで足を切っちまうからな。

で、あの日も穴場に行くと、いつになくでっけえ岩牡蠣がごろごろしてんだ。あんなに入れ食いだったのは初めてだったな。

で、つい夢中になって牡蠣さ獲ってっど、すっかり日が落ちて昏くなっちまった。

その時だよ。――「あれ」が、潮騒とともに迫ってきたんだ。

あれはきっとこの世のもので無え。かといってあの世のものでも無え。はっきり触ることができたからな。

びちゃっ、べたっ。

最初は、船にミズダコを叩きつけるような音がしたんだ。気のせいかなって思ったけど、また同じ音が聞こえんだ。

びちゃっ、べたっ。ばちゃばちゃ。

今度は濡れた服を絞るような水音がした。今度は気のせいだとは思わなかった。

ごぼごぼごぼ。

次は泡が弾ける音だ。海に潜って息を吐くとさ、泡が立ち昇っで弾けるだろう、あの音。

俺は誰かが溺れてんのかって心配になって、海に向かって声をかけたんだ。

――「おおい、誰かいるのかあ」。

でも返事は無えんだ。

ところでさ、溺れてるやつって、何も言えないって知っでっか? 声を出すと息も吐いちまう。そうすると身体の中の空気がなくなって、水に浮いてられなくなるんだ。

つまり、溺れてるやつがいたら、そいつは助けも呼べずに危ねえ状況になってるってことなんだ。

俺は牡蠣でいっぱいになった笊(ざる)を岩の上に置いて、沖の方向に向かって歩いて行った。

――「おおい」。

岩がひしめくその突端まで行った時に……「それ」の気配を感じた。

俺は辺りを見回した。見えるのは岩と水平線だけ――だと思ったんだけど。

いたんだよ。「それ」が。

「それ」は海からぽっかりと頭だけ出してやがった。

最初は岩かと思ったんだ。だって、輪郭が……逆光で真っ黒に塗り潰されたそいつの輪郭は、人間のそれじゃなかったんだ。

妙にごつごつして、それでいて夕空の明かりでぬらぬらと光っていやがった。

頭のてっぺんから飛びでてた何かがぴんぴんに尖っていて、よく見るとそれは魚の背びれだった。

びちゃっ、ごぼごぼごぼ。

そいつは水音を響かせながら近づいてきた。手も足もあって人間みたいなカタチなのに、そいつはどう見ても人間じゃなかった。

――「ひっ」。

俺は反射的に逃げようとしたんだ。

でも立っていた場所が悪かった。海藻と苔でぬめった岩の上だったから、足を滑らせたんだ。俺は岩の上から転げ落ちた。

そこまでは、まだ大丈夫だと思っていたんだ。

でも……転げ落ちた岩の陰に、そいつらが大勢ひしめいていた。

俺はいつの間にか、すっかり取り囲まれていたんだ。

そいつらは――魚のような、人間のような、それでいてどちらでもない何かだった。

ごぼごぼごぼ。

口から泡を吐く音をさせながら、そいつらは一斉に俺を見つめていた。その目は満月よりもまん丸で、瞼がなかった。

あれはまさに魚の目だ。鯛とかああいう魚の目。

あれのでっかいのが顔の正面に二個ついていて、俺の事をじいっと見つめてくるんだ。

口も妙にでっかくて、横に大きかった。んで、その口の中に、太刀魚みたいに尖った歯――あんた太刀魚の口見たこと無えの? すっげえ尖ってて危ねえんだ。

そうだな、魚の口を人間のそれみたいな形にした、って感じかな。んで、

ぶくぶくぶく。

って、そいつらは口から水音をさせながら、ガマガエルみたいに岩の上を跳ねていた。

全身が青や緑の鱗に覆われて、そいつが夕日の光を反射して、なんとも言えない嫌な色合いだったよ。腹だけが真っ白でぶよぶよしてんのも不気味だった。

べちゃり、と俺の足がそいつに掴まれた。全部の指の間に水かきがあって、それが肌にぴったり密着するのに怖気が走ったよ。

あ? そいつらの数? 思い出したくもねえが、たぶん十は越えてたんでねえか。

俺は恐ろしさのあまりに声もあげられなかった。抵抗もできなかった。

それがまずかったんだな。

そいつらは俺に群がるようにして、手や足を掴んだ。

そしてそのまま俺を、海の中へと引きずりこんだんだ。

……いや、俺だって漁師だからよお、当然泳げっぞ。でも手も足も全部取り押さえられたら、無理だろう?

俺は完全に混乱しちまって、肩まで水に浸かった状態で、助けを呼んだんだ。大声で。

ところでさっきの話覚えてっか? 溺れているやつは、声を出すと逆に沈んじまうって話。肺から空気が出ちまうからな、浮力が無くなるんだ。

それを、俺はうっかりやっちまった。

全身全霊で叫んだ助けはあいつらの水音にかき消されて、自ら浮力を失った俺はあっさりと海の中に沈んじまったんだ。



ぱちん、と炭が弾けた。

私は万年筆を走らせる手を止めた。

青年が語る話は荒唐無稽だったが、妙な迫力と現実味があった。よくできた作り話だ、と一蹴する気にはならないほどに。

「……それであなたは、海に引きずり込まれた後、どうやって助かったんですか?」

私はさらに尋ねた。


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