取材対象A ――海に取り込まれる 後編
東京から列車を乗り継いで丸一日。
地方都市から離れた場所にひっそりとある、小さな漁村。
怪奇ルポライターの私は、奇怪な体験をしたインタビュウをするため、はるばるそこを訪れた。
今回の取材対象は、海で一晩行方不明になったという青年。
それだけならば何も「怪奇」ではないが、彼は事件の後、漁師小屋に自らを隔離して、村人とあまり関わらないようにしている、という。
興味をそそられた私は、青年が住む村外れの漁師小屋を訪ねた。
青年は快く私の取材を受けてくれたが――。
「……それであなたは、海に引きずり込まれた後、どうやって助かったんですか?」
私が尋ねると、青年は自らを掻き抱くようにしてぎゅっと身体を縮こませた。七月だというのに、寒さを堪えるような動きだった。
「……こっから先は、自分でもとうてい信じられねえんだけど、でも俺は確かに体験したんだ」
「聞かせてくれませんか」
私は懇願した。
ちんちんちん、と鉄瓶の蓋が細かく跳ねる音がした。青年は布巾を手に取ると、鉄瓶から沸騰した湯をひびの入った急須に注いだ。
「……俺さ、漁師に囲まれて育ったから、小せえ頃から泳ぎを仕込まれたんだあ」
いきなり話題が変わったが、私はとりあえずそれに乗った。
「お父様が漁師だったのですか?」
「いんや」
青年は首を振った。
「親父はどこのどいつか知らねえ。そもそも俺はこの村で生まれたわけじゃねえそうだ」
「というと?」
聞けば彼の母親は十九歳で彼を生んで、赤ん坊の彼を連れていきなりこの村に来たらしい。辺境の小さな漁村に若い母親と赤子、とはさぞかし注目の的になったそうだが、幸いにもこの村の人は皆おおらかで、排他的ではなかった。
「母ちゃんは
彼は急須から、茶渋の着いた湯呑茶碗に茶を淹れた。
「自分は泳ぎが得意なくせに、母ちゃんは俺に泳ぎを教えてくれなかった」
彼の母は、彼が海で泳ぐことを喜ばなかったという。何ならなるべく海から遠ざけようとしていたそうだ。
「でも漁師ばっかの村だし、周りは海だろ。泳げねえと命に関わるから、これだけは、って仕込まれた」
まあ当然そうなるだろう。
ふと、私は軽い疑問を抱いた。
「失礼ですが……お母さんは今」
「俺が十二の時、突然死んじまった。急に心臓が止まったって医者は言ってた」
すみません、と私が謝罪すると、彼は「いいってことよ」と、茶を差し出してくれた。
「幸い村の皆はおれのこと可愛がってくれたから、今まで生きてこられたんだあ」
彼は茶を飲みながら話を続ける。
「死んだ母ちゃんは嫌がってたけど、俺自身は泳ぐことが嫌じゃなかった。ってか、むしろ好きだった」
「好き?」
「好きっていうか、妙に安心するんだ。海に入ると」
でもさ、と彼は顔を曇らせた。
「母ちゃんがいつも言ってたんだよ。――『もしも海から何かが来たら、逃げなさい』って」
私は再び万年筆を走らせる手を止めた。
寒気を覚えた。「何かが来たら逃げなさい」――まさに、彼が一ヶ月前に体験したことそのままではないか。
そんな私の考えを読んだのか、彼は茶を飲む手を止めた。
「俺が海で遭ったあいつらが、母ちゃんが言ってた何かなんかな。それに――」
彼はそうつぶやくと、湯呑をぎゅっと握りしめた。
その手が小刻みに震えている。
すう――と、不意に外が暗くなった。日が陰ったのだ。海沿いは風が強く、ぶ厚い雲がよく動く。
「――なあ」
青年は口を開く。
「俺さ、あの魚でもねえ人でもねえ奴らに海に引きずり込まれた時、恐ろしかったんだ」
「そりゃそうですよ」
私は言った。
しかし彼は首を振ってこう続けた。
「怖かったのは、あいつらに対してじゃ無え。――俺自身に対して怖かったんだ」
「……というと?」
私の頭の中で何かが警告を発した。これ以上深いところに行ってはいけない。
だが訊かずにはいられなかった。
青年は囲炉裏の火を見つめながら言った。
「俺、海の中であいつらに囲まれた時、心のどっかで安心してた」
びしゃん、と窓の外で何かが弾ける音がした。
おあつらえ向きのように窓の外は雷雨になり、水平線に稲妻が突き刺さるのが見えた。
私は青年から目を離せない。
紙の上で停まった万年筆のペン先からインクが滲み、手帳に大きな黒い染みを作っているのにも気づけなかった。
青年はまた言う。
「……あいつらさ、俺のこと迎えに来たんかもしんね」
「迎え?」
どういうことだ。
青年はぎゅっと自らの体を掻き抱いていたが、やがて力を抜いて私の顔を見た。
「なあ、今から言うこと、信じてくれっか?」
私はそれに是と答えた。
「……記事にしてもいいものですか?」
「そのために、あんたはここまで来たんだろう?」
青年は自嘲的な笑みを零した。
あいつらに海に引きずり込まれた時、俺はなんだかほっとしてたんだ。
そんで、どうしてほっとしてるんだろう――そう考える余裕があるんだろう、って思い当だった。
あっという間に何メートルも深いところに引きずり込まれて、息ができなくて苦しいはずなのに、俺は苦しいと思ってなかったんだ。
俺は海の中なのに息をしていた。いや、息をしなくても大丈夫だったんだ。
――キタ。
――オマエ、ワレラ、ケンゾク。
水が弾ける音とともに、がさがさとした声が俺の耳に届いた。
――カエロウ。ワレラノチヲヒク、フカキケンゾク。
――フカキチヲヒク、リクノコヨ、カエロウ。
水の中なのに妙に乾いた声は、俺にそう言ったんだ。
「……かえる?」
私は青年に問うた。
「……そのまんまの意味だと思う。還るって」
青年は言った。
「そっから意識が途切れてて、次に目が覚めたら、砂の上で村の連中に取り囲まれてた。一晩行方不明だった、ってその時初めて聞いたんだ。全身ずぶ濡れでフノリがぬるぬるに絡んでたらしい」
それはまるで、たった今浜辺に打ち上げられたかのような有様だったそうな。
まさか――と私は考える――一晩中ずっと海の中にいたというのか。バカな。そんなことになって生きているはずがない。
青年がまた口を開いた。
「なあ、バカげた考えなんだけどさ――」
「……何ですか?」
私はその先を聞く事に恐怖を覚えた。しかし好奇心がそれを押さえつけた。
青年は、今日一番暗く、はっきりとした声で言った。
「俺の父親って……海から這い上がってきたあいつらなのかな」
ぞわり――と、私の背筋に悪寒が走った。
不意に青年が立ち上がった。シャツの裾を持ち上げる。
「どうしたんですか」
「あんたに見てほしい気になったから、見せる」
青年は自嘲の笑みを浮かべた。
「もうなんだか色々疲れちまったんだ。隠れるのも、隠し通すのも。――この場所にいるのも」
そう言い、シャツを一気に脱ぎ去った。
私はそれを見て息を呑んだ。
「――」
洗いざらしのシャツの下から現れたのは、よく引き締まった若々しい肢体。日に焼けた肌の上にあるのは。
囲炉裏の灯りをぬらりと反射する――まぎれもなく、鱗だった。
青年の二の腕から肩、そして脇腹の一部に、翡翠のような色合いの鱗が生えそろっていたのだ。
「――」
私は何も言えなかった。真っ先に思ったのは――。
「すごい」
正直言って、恐ろしさよりも好奇心が勝った。
食い入るように青年の身体を見つめていると、彼はほっと安堵の息をついたようだった。
「……逃げ出されたらどうしようかと思ったけど、安心した」
青年は鱗を爪でひっかいてみせる。かりかりという堅い音は肌を掻くそれとは明らかに違っていた。
「本当に生えてるんだぜ。一回剥がしてみたら、すげえ痛かった。岩で擦りむいたのなんか目じゃねえくらい」
確かに一枚だけ鱗が剥がれていた。
「最初は二の腕に少しだけだったんだけど、だんだん増えてきで、今は肩とか腹まで来ちまった。次は足かもな。……なあ、俺思うんだけどさ」
青年は自嘲の笑みを零して、おぞましい言葉を吐いた。
「俺の母ちゃん、あいつらに何かをされて、俺を身ごもったんじゃねえかな」
……何をされたのか、と尋ねる勇気と無神経さは、さすがの私にもなかった。
青年は乾いた声で淡々と続ける。
「それとも俺の先祖があいつらなのかな。どっちにしろ普通の人間じゃなかったんだろうな。どうして今になって鱗が生えてきたのかな……」
青年はすとんと腰を下ろすと、無造作に黄粉餅を掴んで頬張った。
もぐもぐと咀嚼し、悲しそうに言った。
「……黄粉餅が大好物だったけど、最近あんまり旨いと思えねえんだあ」
鱗が生えた事で食の好みが変わったのか。
私がそう尋ねると、青年は首を振った。
「解がんね。……でも、今一番食いてえのは、黄粉餅じゃ無え」
青年は
「もっと……生臭い何かだ」
焼けた炭が割れて、ことん、と音を立てた。
私は漁師小屋を出た。
すっかり夕立は止んで、濡れて重くなった砂浜に足跡を刻みながら、私はそこを後にした。
住宅地に戻ると、目新しい電灯が点々と通りを照らしていた。
「ちょっとおにいさん、ちょっと寄ってかんか?」
私は声をかけられて振り向いた。
あの食堂のおかみさんだった。
「イカの一夜干し定食、食べていかん?」
私は店に近寄った。電灯の照らす範囲に踏み入ると、おかみさんはまた声をあげた。
「あらいやだ、昼間のおにいさんかね。すまんね、イカが苦手ちゅうとったかね?」
開いた扉の奥から、炭火焼の香ばしい匂いが漂ってきた。
「いえ、せっかくなのでいただきます。イカの一夜干し」
「あらそう? じゃあ中にどうぞ。うちの看板商品なんよ、イカの一夜干し」
「おいしそうです」
私は店に入った。
肉厚のイカの一夜干しは旨かった。
取材から三日後――。
あの青年が海に入っていったまま、二度と陸に戻らなかった、という噂を、私は東京に戻る道中の宿で聞いた。
青年はあの深い海に還っていったのかもしれない。
得体の知れない世界からやってきた者たちの眷属として、我らのあずかり知らない深い場所へと。
青年の行方は杳として知れないままである――。
(取材レポート〇一番より引用)
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