取材対象B ――こびりつく声

 昭和三十二年八月十七日。

 記者は某県のサナトリウムを訪れた。結核の療養所として有名で、今も多くの患者が静養している。

 軽症の患者の中に、奇妙な体験をしている者がいるという話を聞き、記者は取材に向かった。

(取材レポート〇二番より引用)



 森の奥に、そのサナトリウムは建っていた。

 盆を過ぎた残暑は厳しい。私は滝のように汗を流しながら、田舎道を進んでいた。

「――あった」

 木々の緑に埋もれるように、白い壁が見えた。あれが今回の取材先だ。

 私は蝉の鳴き声を聞きながら畦道を歩いていると――。

 じゅるり、と水音がした。

「?」

 まるで獣が涎をすするような、いやもっと粘性のある不気味な水音――そうとしか形容できない。

 猪でもいるのかと思って灌木の陰を見たが、そこには何もいない。

 あるのはてらてらとぬめり光る何かの痕跡。

「……何だ?」


 サナトリウムは三棟からなる中規模のものだった。

 私の取材対象となる彼女は結核の軽症患者で、そういった患者ばかりの入れられた病棟の個室に入院していた。

「遠くまではるばる、ようこそ」

 彼女は上品な所作と言葉遣いで私を出迎えてくれた。聞けば華族の傍系のお家柄らしいが、太平洋戦争で没落したそうな。

 それでも一般家庭と比べればかなり裕福な家庭らしく、個室に半年近く入院していると教えてくれた。

 私は名刺を彼女に渡すと、彼女は物珍しそうにそれを眺めたあと、

「……私のことをどこでお知りになったんですか?」

 と、先に問うてきた。

 私が知人の名前を出すと、彼女はそれで納得してくれた。

「父の取引先の方だと思います」

 彼女は抽斗ひきだしに名刺を丁寧にしまうと、果物ナイフを取り出した。

「梨を召し上がりませんか?」

「いただきます」

 炎天下を歩いて喉が渇いていた私は即答した。

 彼女は見舞いの果物籠から梨を一つ取り出した。赤みがかった色をした皮は、私があまり見た事のない種類だった。

「この季節に梨とは、珍しいですね?」

 梨の旬は九月以降だと記憶していたが。

 そう問うと、彼女はちらりと微笑んで教えてくれた。

「新しい品種らしいです。とっても瑞々しくておいしいですよ」

 品種改良で生まれた新しい種類の梨で、まだ市場に出回っておらず、試験的に栽培しているものらしい。それが、彼女の父の縁故で手に入り、身内が先日の見舞いで持って来たそうだ。

 彼女は鮮やかな手つきで梨の皮を剥いてくれた。

「いただきます」

 丁寧に切り分けられた一切れを口に入れると、口いっぱいに爽やかな甘みが広がった。柔らかい果肉にざくりと歯を立てると果汁が溢れ、指から手首まで雫が伝った。

「おいしいですね」

「まだ名前がない品種なんですって」

「こんなにおいしいのに?」

「幸せになる味ですよね」

 梨を剥き終えた彼女はナイフの刃を丁寧に拭うと、それをまた抽斗に閉まった。

「私の剥いた梨を召し上がってくださるんですね」

「え?」

「結核患者の触れたものを嫌がる人もいるんですよ」

 それはだいぶひどい話だ。結核は確かに感染しやすい病ではあるが、面会を許されている時点で、そのあたりは問題視されていないはずだ。

 そもそもこの程度の接触すら恐れていたら、最初からサナトリウムに足を運ばない。

「優しいですね」

 彼女は微笑み、淋しそうに言った。

「父は見舞いの品こそよこすけど、一度も顔を見に来ないのです」

 私は梨を咀嚼すると、手帳と万年筆を取り出した。

「よろしければ、お話を聞かせてくれませんか」

 彼女は頷いてくれた。



 最初は先月のことでした。

 夜中に眠ろうとすると、その声が聞こえるんですよ。ここのところ毎晩。

 てけり・り。

 最初は子供のイタズラかもしれない、と思ったんです。だって、てけり・り、なんて冗談みたいな音だったから。

 だから何日かに一遍、あの、てけり・り、が聞こえたけど無視です。

 というのも、私はその時とても体調が悪くて、隣の中等症患者用の病棟にいたんです。

 結核に侵された肺で息をするのってとっても苦しいんです。熱も出るし。でもこのサナトリウムはちゃんと抗生剤を使った治療をしてくれるから、治療さえがんばれば、って励みがあるんですよ。

 それでもあの時期は息が苦しくて眠れなくて、ベッドの中でずっと布団をかぶって朝までしのぐ、という毎日でした。

 でもその日は違ったんです。

 てけり・り。

 いつになくはっきりと、声が聞こえたんです。しょうがないので起き上がったんですよ。

 てけり・り。

 声は廊下から聞こえてきました。

 病棟の廊下ってとても静かなんです。

 私はそっとベッドから出て、廊下へ足を踏み入れました。

 てけり・り。

 また声が聞こえました。



「声……ですか? 音ではなくて?」

 私は万年筆でメモを取りながら、彼女に尋ねてみた。

「はい」

 彼女はおずおずと頷いた。彼女は迷うような手つきで、剥いた梨を一切れ指で摘まむ。

「音っていう感じではないと思いました。何か生き物の声だと思います」

「なるほど」

 私が頷くと、彼女はほっと表情を緩めた。私が話を茶化さず、きちんと聞いている事に安堵したようだった。

 彼女は梨を口に入れた。じゃくじゃくと咀嚼する音が妙に私の耳に響いた。彼女が梨を飲み込んだ頃合いで、

「続きを聞かせてもらっていいですか?」

 私は話の先を促した。

 彼女は頷いた。



 声を追いかけて、私は病室から出ました。

 その時私が入っていた中等症患者の個室は、部屋を出て左に行くと、そちらに治療室があるんです。容体が悪くなった患者はそこで手当てをしてもらうんですね。

 治療室には寝台と薬棚と、流し台が置かれています。部屋の扉は開いていました。

 音はそこからしたのかなと思って、私はそっと戸口に立ちました。

 その時――じゅるり、と何か粘るような音がしました。

 最初はネズミがトリモチに引っかかったのかしら、って思ったんです。このサナトリウムって山の奥に建っているから、野ネズミがたまに迷い込むんですよ。で、結核患者って抵抗力がなくてバイキンとか危ないから、罠にかかった野ネズミはすぐに職員が処分しちゃうんです。

 ――処分の仕方? うーん、あまり考えたくないですね。

 とにかく、それの音かなって思ったんです。

 で……お恥ずかしいんですけど、私、野ネズミって一度もちゃんと見た事がなかったんです。これでもでして、野生動物が珍しいんですね。

 ちょっと見てみようかしら、って思っちゃったんです。

 抜き足差し足、明かりもつけずにそっと部屋の中に入りました。子供の時の冒険を思い出してちょっとだけわくわくしたんです。

 というか……していたんです。あの瞬間までは。

 流し台と薬棚の間に、それはいました。



 私は万年筆を停めた。

「それが、声の主だったんですか?」

 尋ねると、彼女は寒さを堪えるように両腕を掻き抱いた。

「そう……だと思います。他に何もいなかったから」

 私は万年筆を忙しなく紙の上に走らせながら、彼女にもう一度尋ねた。

「教えてください。私はそれを聞くためにここに来たんです」

「……わかりました」

 彼女は私の眼をはっきりと見てくれた。



 ――それは、窓から照らされた月明かりの下で、輪郭を浮き上がらせました。

 それは床の上にべっとりと広がっていて、形のない形をしていました。月明かりに当たった場所がてらてらと虹色に光沢を帯びていました。

 私は最初、それを油絵具の塊だと思ったんですよ。でもそうではなかった。

 じゅるり。

 不定形のそれは床の上を這って、蛇のように鎌首をもたげました。動くたびにじゅるじゅると粘る音を立てながら、泥のように一体化して、あちこちを不定形に動かして持ち上げる動きを繰り返すんです。

 色は、そう、ちょうどあれみたいな……父のコレクションの鉱石標本に入っていた、蒼鉛ビスマスという石に似ていましたね。

 月明かりに照らされてぬらぬらと光る、泥のような油のような……何かです。

 てけり・り。

 それはそう鳴いていました。

 てけり・り。

 てけり・り。

 何度もそう鳴いて、虹色の光沢をもつ黒い塊は、うじゅうじゅと蠢き続け、ぽこりと何かを生み出しました。

 それは――「目」でした。それも大小の目が、数えきれないほど。

 ぐじゅぐじゅ、ぼこぼこぼこ。

 沸騰した鍋料理の泡のように、それは大小たくさんの目玉を作りました。

 そして、その目が一斉に、私を見つめました。

 ――さすがに、あまりの不気味さに悲鳴を上げようとしました。

 でもあれですね、人間ってあまりに恐ろしいことを目の当たりにすると、喉の奥が凍ったようになって、声も上げられないんですね。

 私は気が遠くなって、貧血を起こしたみたいに、そのまま背後の壁に倒れ掛かったんです。

 てけり・り。

 てけり・り。

 不定形のそれはうじゅうじゅと音を立てながら、流れる水のように素早く私に接近してきました。這った痕もぬらぬらと虹色に昏く光っていました。

 それは私が歩くよりも早く迫ってきて――私は壁を背にしていたのもあって、逃げられなくって。

 恐怖に震えていたら、いつの間にか意識が飛んでいました。

 ――次に目が覚めた時、私は私の病室のベッドに横になっていました。

 聞けば廊下の壁に寄りかかって意識を失っていたそうです。そのまま緊急手当てを受けたんですけど……驚くことに、体調がとてもよくなっていたんです。



「え? 急に治ったんですか?」

「そうなんです。それでこっちの軽症患者の部屋に移ってこられたんです」

 彼女は嬉しそうに笑った。

「なぜか知らないんですけど、あれからとても調子がよくなったんです。このまま体調が安定していれば、数週間で退院も考えられるって」

 嬉しそうな彼女の笑顔を見ながら私が万年筆を走らせている時だ。

 ――てけり・り。

 確かに私の耳にその声が届いた。

「え?」

「どうかしました?」

 彼女は私に尋ねた。

「今聞こえましたよね? てけり・り、って声」

「……そうですか? 私はわからなかったです」

 彼女は朗らかに笑みながら、梨をまた指で摘まんだ。

「どうぞ召し上がって。私一人では食べきれません」

「あ、……はい」

 私は梨を頂いた。

 その時、もう味を感じる余裕がなかった。

 私は、なぜか恐ろしい想像をしてしまったのだ。

 彼女が見た「何か」――敏捷に動き回る不定形のそれがどこに消えたのか。

 否――「誰」の中に入ってしまったのか。

 それを女性に尋ねる勇気はなかった。

 彼女は窓の外をぼうっとした眼差しで眺めると、ふいにこう言った。

「海に行きたいな」

「海ですか?」

「ええ。病気が治ってここを出たら、真っ先に海に行こうって、今朝、急に思ったんです」

「海がお好きですか?」

「どうなのかしら」

 彼女は困ったように微笑む。

「でも、すごく海に行きたいんです。理由はないけど」



 私はサナトリウムを後にした。

 行きに通った道を逆に辿って街へと戻る途中、また、じゅるり、と粘る音が聞こえた。

 私は茂みの奥に目を凝らした。

 虹色の何かが日光を反射したように見えたが、それ以上を確かめる気にはなれなかった。

(あれは追いかけてはいけない)

 私は本能的にそう考えたのだった。

(あれを追いかけたら戻れなくなる)

 何がどう戻れないのかはわからなかったが、確実に「戻れなくなる」のだけは理解できた。

 てらてらと虹色にぬめる濡れ痕を辿ってはいけない。

 私は駅への道を急いだ。

 じゅるり。ぼこん。

 すぐ近くで粘液が弾ける音が聞こえた。

 同時に何か……何か冷たいものが耳に飛び込んだ気がして、私は反射的に耳を激しくはたいた。

「……?」

 何もない。

 私はまた街へ向かって歩き出した。

 てけり・り。

 何かが耳の奥でささやいた気がした。



 後に風の噂で聞いた話によると、あの女性は無事に退院をしたらしい。

 しかしなぜか、食の好みが変わったのだという。入院前には苦手だった海産物や寿司を好むようになり、逆にそれまで好きだった野菜を、特に根菜を食べなくなったらしい。

「土から採れたものが嫌なの。土の中が嫌いだから」

 そう、不可解な理由を述べていたそうな。

 そう言えば彼女は海に行きたいと言っていた。何故だか突然にそう考えたのだとも。

 海が急に好きになった?

 それとも――。

 海に急に好かれるようになった? どうしてそういう発想が出たのか私自身もわからないが、とにかくそう思った。

 何をきっかけに彼女が変わったのかはわからない。

 でも急に彼女が変わったのは間違いないだろう。

 てけり・り。

 あの取材を境にして、私の耳には時折声が聞こえる。

 てけり・り。

 まるで、あの女性のような声だ。

(取材レポート〇二番より引用)

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