テクニックはパッションの助詞にしかならない。


 アントン・チェーホフ。
 44歳にして早逝するまでの間に、数多くの劇、短編小説を仕上げた、世界的に有名なロシア人作家である。

 この作品ではチェーホフの代表作「かもめ」の随所より台詞を取り上げ、背景の説明をしている。
 
 その一節一節には、なるほど、お洒落でどこか人の機微を感じさせるものがある。
 しかし、文章のどこにその理由があるのかが分からないのだ。
 どこにも掴みどころがない。だが、実際に目の前にある。

 読み進めるとそういったもどかしさを何度も経験する。
 少なくとも自分にはとても真似できないと感じられてくるのだ。

 どうしてかを考えた時、恐らくこれらの台詞は特別な意図、テクニックをもって描かれたものではないからだと思った。

「小説」を愛した人が技巧を尽くして描いた作品よりも、「人」を愛した人の平易な作品の方が面白いことがある。

 プロット、伏線、整合性、レトリック。それらは確かに作品を強固にし奥深さを与えるだろう。

 しかし、それらは皆、パッションを飾るための助詞でしかないのだと思った。
 極端な話、「私 あなた 愛」だけでも人はその内容を把握し、感情を読み取ろうとする。
 これらの台詞達からは、空回りする人物達のパッションが伝わってきた。

 だからこういった作品に「結局作者は何を伝えたかったのか」という問いをするのは、いささか無粋なのかもしれない。