名前を知らない友人
三鹿ショート
名前を知らない友人
夜の公園で酒を飲むことが、何時しか私の日課となっていた。
自宅の近くであるために、帰宅して飲めば良いのではないかとこれまでは考えていたのだが、静寂に包まれた空間で星空を眺めながらの飲酒は乙なもので、酒の味が良くなっているような気がしたのだ。
今日もまた、いつもの長椅子に荷物を置き、ゆっくりと酒を飲んでいると、
「隣に座っても良いでしょうか」
不意に、そのような声がかけられた。
驚きながら目を向けると、其処には微笑を浮かべた少女が立っていた。
彼女の問いに対してどのような答えを口にするべきかと考えるよりも前に、このような時間に一人で歩いては危険なのではないかと心配してしまった。
私がそのことを伝えると、彼女は目を丸くしながら、
「そのような心配をされたのは、初めてです」
彼女のような年齢の娘が存在しているのならば、どの家庭も心配するものなのではないかと思ったが、どうやら私の常識は世間の常識ではないらしい。
其処で、彼女が何時までも立っていることに気が付いたために、私は荷物を退かすと、其処に座るように促した。
彼女は感謝の言葉を口にしながら座ると、鞄の中に手を突っ込んでいく。
そして、鞄の中から私が見慣れている缶を取り出すと、迷うことなくその中身の液体を口に流し込み始めた。
あまりにも自然な流れだったために気が付くことが遅れたのだが、それは彼女が口にするには早いのではないか。
私が無言で見つめていると、彼女はその疑問を察したのか、口元を緩めながら、
「あなたが秘密にすれば、問題は無いでしょう」
確かに、その通りだった。
だが、身体の成長には悪影響ではないだろうか。
私の心配も知らず、彼女は最初の缶を空にすると、次なる缶を鞄から取り出した。
私と会話をすることもなく、黙々と飲んでいる様子を見て、当然なる疑問が生じた。
何故、彼女はわざわざ私の隣に座ったのだろうか。
秘密にするのならば、他者の目が存在していない場所で飲めば良いにも関わらず、私の隣で飲む意味とは、一体どのようなものなのだろうか。
私がそれを問うと、彼女は潤んだ瞳を私に向けながら、
「互いの事情を何も知らない赤の他人の方が安心することもあるでしょう」
そのように告げると、彼女は空き缶を近くの塵箱に向かって投擲した。
軽い音を立てながら塵箱の中に空き缶が入ると、彼女は小さく喜びの声を出した。
そして、彼女は私に振り返ると、
「明日も、この場所で飲む予定ですか」
私が首肯を返すと、彼女は笑みを浮かべながら立ち上がり、
「では、また明日」
手を振りながら、公園を後にした。
彼女の姿が暗闇に消えるまで見送った後、私は飲みかけの酒に口をつけた。
既に、温くなっていた。
***
初日はそのようなやり取りで終了したが、その後はたわいない会話をするようになった。
話を聞いたところ、どうやら彼女は私が数年前まで通っていた学校の人間らしい。
未だに教鞭を執っている教師の話題や、彼女がその日の授業で疑問を抱いた事柄について私なりの考えを口にするなどして、日々は過ぎていった。
やがて、私は仕事中にも彼女のことを思い出すようになり、それは彼女との時間を愉しみにしているということの証左だった。
確かに、この時間が何時までも続けばどれほど幸福だろうかと、口元を緩める自分が存在していたことに、間違いはない。
しかし、私は基本的なことを忘れていた。
何事にも、終わりは存在するのである。
***
彼女の名前を知ったのは、報道番組だった。
話によると、彼女は父親からの暴力によって、この世界から去ることになったらしい。
私が学生の頃から教鞭を執っている教師に対して何度も頭を下げて話を聞いたところ、普段は衣服で目にすることはない彼女の身体には、新旧問わず、数多くの傷が存在していたらしい。
つまり、日常的に暴力を受けていたということになる。
誰も気が付かなかったのかと問うと、教師いわく、彼女は孤独な人間だったらしい。
他の生徒から虐げられることはないが、他者を寄せ付けない雰囲気を発していたのか、積極的に関わろうとする人間は存在せず、友人と呼ぶことができる人間に心当たりは無いとのことだった。
では、何故彼女は私と関わろうとしたのだろうか。
私が自分と同じような人間に見えたために、声をかけてきたのだろうか。
そのようなことを考えながら、私は腕の傷跡に触れた。
***
私に対して、常に暴言を吐いていた父親は、珍しく言葉を失っていた。
従順だった人間が刃物を手に近付けば、多くの人間はそのような状態と化すだろう。
父親は謝罪の言葉を口にしていたが、私が歩みを止めることはない。
弱者が反旗を翻す姿を見せることが、彼女に対する供養なのだ。
名前を知らない友人 三鹿ショート @mijikashort
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