ナイトビーチ・グラップル

南沼

夜の浜辺でつかまえて

 低く輝く月が、水平線を照らしている。

 上弦の薄く欠けた月とそれが照らす波の端、淡く浮き上がる砂浜。

 美しい筈のそれすらが、不純物だった。


「俺ら、付き合わない?」

 高校1年生、何も怖いものの無かった頃の、僕の台詞だ。

 鹿岡かのおかミサキを初めて見た時から、気になっていた。顔は可愛いしスタイルも良くて、胸も大きい。余り女子グループに交じるタイプでないのが猶更クールに見えた。僕はせっかく出来た数少ない友人男子を放っぽり出し、彼女の行く先々に偶然を装って通りがかっては内心必死の思いで話の穂を継いだ。

 努力の甲斐あって、放課後や下校の時間を共有できる程の距離感になっていた。彼氏がいないのも、それとない会話を装って事前に確認していた。

 お膳立ては整った。その筈だった。

 梅雨時には珍しく、朝から快晴の日だった。放課後の中庭、紫陽花の株のすぐ横に据えられた安っぽいベンチに並んで腰かけて、「暑いな」「だよねえ」そんな中身のない会話でタイミングを計り、ありったけの勇気を振り絞って、でもそれをおくびにも出さないよう細心の注意を払いながら出たのが「付き合わない?」なんて台詞だった。

 笑い飛ばされても構わない。そう思っていたけれど、現実はより残酷だった。

「えー、無理かな」

「え、なんで」

「あたし、強い人が好きなんだよね」


「じゃ」と事もなげに踵を返して立ち去ったミサキと、間抜け面でその場に立ち尽くす僕。15歳の男子が頭からつま先までギチギチと持て余す自意識のなせる業、誰の目もないタイミングを見計らっての告白だったのは、不幸中の幸いだった。

 何だよ、強い人って。

 自分の身体を見下ろす。日はもう傾き校舎の陰に暗く沈んだ中庭で、半袖から覗く腕が細く生白く、浮かび上がって見えた。


 強いってケンカとか、そういうのか?

 独りとぼとぼと帰宅してから夜、ベッドに寝転びながらLINEを立ち上げ、思い切って真意を問い質した。返事は、拍子抜けするほどあっさりと返ってきた。

『うん。やっぱ彼氏は強くなきゃ嫌』

『なんで?』

『なんででも』

 しばらくスマホの画面にタッチする寸前で悩んでから、ようやく『分かった』と打ち込む。

『何が』

『近くにキックボクシングのジムがあるから。そこに通う』

 万歳するクマのスタンプが送られてきた。

『強くなったら付き合ってくれる?』

『いいよ』

 それはもう、半分OKの返事みたいなものだろう。楽観的にも、その時はそう考えた。

『どうやったら強くなった判定?』

『それはまあ、その内考えよ』

『なんかテキトーだな』

『いいじゃん』

『それまでデートとかは?』

『ナシ』

『学校帰りのスタバは?』

『まあそれぐらいなら、てか別に今まで通りでしょ笑』

 やっぱ半分OKじゃん。


 翌日には、ジムの扉を叩いていた。

 「富士川S&G」は小さな商業ビルの1階にあった。通学路の土手から見下ろせる所にあって、大きなガラス窓にでかでかと「キックボクシング・総合格闘技・エクササイズ」とポップなフォントのステッカーが貼ってある。ジムの存在こそ認知していたものの、自分が関わり合いになるとはその時までとんと考えていなかった。

 検索すると、S&Gはストライキングアンドグラップリングの略らしい。殴るストライク、そして掴むグラップル。エスアンドジーと略したところで長いので、結局皆「富士川ジム」と呼んでいるのだとか。


「体験予約の磯村さんですね」

 ジムの責任者らしい中年の男性は、トレーナーも兼任しているようだった。ホームページに『安藤』と写真付きで載っていたから、すぐ分かった。白髪混じりで無精髭の目立つ容貌だったが、身体つきは締まっていた。

 案内されたジムの中は、活気に溢れていた。実物を初めて見るサンドバッグやリング、ミットやグローブはじめ、隅っこにはダンベルなんかのトレーニング機材が転がっている。人型が寝そべったような形のやつ、あれは何に使うんだろう?

「あれは寝技の練習に使うんだけど、今MMA総合は人がいなくって」

「えっと、じゃあ打撃の方でお願いしたいです」

「キックボクシングね。分かりました」


『体験入門行ってきたー』

『おお~。どうだった?』

『まあまあ動けたかな』

 虚勢だった。ミットはへなちょこな音しか鳴らなかったし、体験コースというのが嘘のような練習量で、最後の方は顎を突き出してバテバテの有様だった。

『続ける?』

『勿論』

『がんばれ♡』

 ハートマークひとつで舞い上がってしまう。我ながら単純だった。


 こうして、僕のキック漬けの日々が始まった。

 練習はハードで、毎回立ち上がれなくなるくらいに消耗した。

 もう休みたい、なんて思いが頭をよぎるタイミングで「君、スジいいよ」なんておだてる安藤さんの言葉を鵜吞みにして、毎回全力でミットを殴っては蹴った。風呂上がりの柔軟が日課になって2ヶ月が経つ頃には、ミドルでもハイでも手応えの良い蹴りを繰り出せるようになった。

「ユウ、スパーやろうぜ」

 いつも黙々とサンドバッグを打っている伊豆さんが、珍しく誘ってくれた。社会人らしいけど、二の腕に彫ったタトゥーを見せびらかす様に、いつもノースリーブのシャツを着ているような人だった。

「お願いします!」

 勿論、滅茶苦茶にやられた。2ラウンドが終わる頃には、打たれすぎて朦朧としていた。安藤さんが気付いて止めてくれなかったら、失神していたかもしれない。

「磯村君、大丈夫?」

 大丈夫です、とちゃんと言えたと思う。掛け値なしの本心だった。

 自分でも驚く程に、心は萎えていなかった。強くなりたい。ひたすらそれだけを願った。


 半年が過ぎ、年が明けても熱は冷めなかった。

 2年生になった。クラス替えがあったけど、ミサキとはまた同じクラス。

その頃には試合にも出た。初心者でも出場できるアマチュアCクラスのワンマッチ、何度か勝てばランクを上げて、また別の大会に出場できるらしい。

「ほんのちょっとだけど、減量頑張ってみようか」と安藤さんに言われて、フェザー級で登録した。

 少しとはいえ初めての事、当日の朝まで気が気でなくて、計量がパス出来た時はほっと安堵の息が漏れた。

「緊張してる?」

「まあね、そりゃ」

 ミサキもわざわざ隣県まで応援に来てくれて、でも軽口を交わす余裕も無かった。

 対戦表には「樋口雅也/美園ジム」とあったが、当然見覚えはない。セコンドに付いてくれた安藤さんが言うには、僕と同じくらいのキャリアらしい。

「まあ気楽にね、楽しんできて」

 テキトーだなあ。

 しかし会場全体の雰囲気もそんなもので、ごくあっさりしたアナウンスの後、開始のゴングが鳴った。と言っても、2分1ラウンドで終わりだ。

 リング中央を挟んで向かい合った樋口選手は、ひょろっとした長身の青年だった。僕よりも5センチ以上は高いだろうか。

 リーチ差があるのは厄介だな。

 まずはリング中央、グローブを合わせてから距離を――


「ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 樋口選手と向こうのトレーナーに挨拶して、他の試合を見届けてから、安藤さんと会場を出た。

 エントランスの外、私服姿のミサキが待ってくれていた。

 こっちに気付いて、近づいてくる。裾の広いパンツと、きゅっと被ったニットの帽子が可愛らしかった。

 安藤さんは気を利かせてくれたのか、「お疲れさん、ゆっくり休んで」とだけ言って歩み去っていった。ミサキは愛想良く笑いながら会釈し、僕は「ありがとうございました」と頭を下げた。

「おめでと。楽勝だったじゃん」

「そんなことないよ」

「またまた」

 口ではそう言ったが、謙遜だ。ポイントで大差を付けての勝利だった。

 樋口選手は決して初心者ではなかったと思う。長い手足を器用に使って立ち回る、ディフェンス力に長けた選手だった。精度の高い距離感と、鋭くしなる左ミドルを持っていた。

 でも、僕には全部見えた。最初の1分くらいで「いける」と判断してからは、スイッチからの右ジャブを起点に攻め始めた。強いて言えば、自分の得意なコンビネーションに拘っていたのが彼の隙だったろう。来ると分かっていれば、ミドルだろうがハイだろうがさして脅威ではない。蹴り足をキャッチ、相手の体を流して脇腹にミドル。

 終盤、ポイントを取られての焦りか、距離を潰して撃ち合いに来たのが最大のチャンスだった。雑になったストレートを捌き、空いたボディに一発、下がった頭部に返しのフック。そこでゴングが鳴った。

 これが、僕のデビュー戦。勝ったという実感はまるでなくて、だからミサキに縋った。

「俺、強くなったかな」

「それ、うんって言ってほしいの?」

「言ってくんないの?」

 ミサキが、歯を見せて笑った。

「強くなったよ」

 ドキっとした。

「じゃ」つい口調に熱が籠って、どもってしまう。

「じゃあさ、付き合ってよ」

「んーとね」

 ミサキが口角を上げたまま言う。

「会ってほしい人がいるんだよね」

 え?


「この人、岡田さん」

「……ども」

「岡田誠斗まことです。磯村君だっけ」

「磯村、雄太郎です」

 いつものスタバではなく、呼び出されたのは近所のカラオケだった。

 隣の部屋から、若い女の歌声が聞こえる。こっちの部屋は完全に消音にして、画面の中では知らないバンドのインタビュー映像が流れていた。

 岡田さんは、都内に通う大学生らしい。ミサキの通う塾で、講師のバイトをしていると聞いた。アッシュに染めたツーブロックに眉も細く整えた、いかにも遊び人といった風体だった。背は高いし体格もいいが、僕を見てニヤニヤと笑う顔が気に入らなかった。

「岡田さんにも、付き合いたいって言われてて」

「そう……なんだ」

 暗い驚きだった。諦め半ばと言った方がいいかもしれない。呼び出された時から、こんな展開を予想していなかったと言えば噓になる。

 だから、ミサキの言葉には心の底から驚いた。


「だから、勝った方と付き合うね」


「は?」

「決闘してもらおうって。男子って、そういうの好きなんじゃないの?」

「磯村君、キックやってんだよね」と岡田さん。こちらに驚きの表情はない。

「はあ」

「俺はボクシングだけど、ルールはキックでいいよ。まあ階級分のハンデって事で」

「いやちょっと、待って下さいよ」

「なに」

「岡田さんは、いいんですか、その、決闘だなんて」

 決闘。あまりに現代離れした世界観の言葉を口にするのに、躊躇いがあった。

「俺は別に」

「磯村君は嫌?」とミサキ。真剣な顔だった。

「それとも、ノーリスクで欲しいものを手に入れたいタイプ?」

「降りたいならいいけど。俺が不戦勝で」

 岡田さんが、口の端だけで笑った。

「いや……やるよ。やります」

 ぐっと、目の前の男を睨みつける。

 切れ長の眼にそぐわない、太い顎。セーターの上から分かる、肩周りの筋肉。背は樋口選手と同じぐらいでも、体格は明らかに一回り違う。ミドル級かウェルター級、少なくとも僕より2階級は上だろう。

 ハンデだって?

 焚きつけられたのは否めない。それでも、僕だってこの半年余り一心不乱に打ち込んで、強い人たちに揉まれ続けてきた。成功経験と同じくらい、苦い思いも積み上げてきた。

 自分の中に築き上げたが言う。

 後悔させてやる。


『グループLINE作りたいんですけどー。別々に連絡すんのめんどい』

『それぐらい、こっちの要求も聞いてよ』

 めっちゃ嫌そうな顔のスタンプを送ってくるミサキ。

 しょうがないだろう。勝負をつけるまでは、馴れ合うような事はしたくない。

『んじゃ3か月後ね。7月14日、夜8時』

『場所は?』

『富士川緑地の奥の砂浜。テトラポットのあるあたり。分かる?』

『川のこっち側?』

『こっちてどっちだ。東側ね。サッカー場らへん待ち合わせでよろ』

『了解。雨が降ったら?』

『延期、日程は別途相談』

『了解』


 ミサキとLINEのやりとりは減った。学校ではなるべくいつも通りに接していたつもりだったけど、もしかしたら幾分素っ気なかったかもしれない。それだけ張り詰めていた。

 反して、ジムでの練習は密度を上げた。もう休むのは、定休日の水曜だけ。

「ユウ、滅茶苦茶、やる気じゃん」

 3ラウンドのスパーリングを終え、大きく息を整えながら伊豆さんが呆れた声を出す。マウスピースが半ば口から飛び出ていた。

「うす、あざす」

 僕もミット打ちからの立て続けだったから、コーナーに背を預けて荒い息をついていた。

「てか、おまえどんだけ、体力あんだよ」

 ちょい休憩、と伊豆さんはリングを降りてグローブを外す。

 ふむ、と僕は考える。

 伊豆さんは強い。僕よりもずっと。この3ラウンドでもいいのを何発ももらったし、これが試合だったら僕の負けだ。でも、先に音を上げたのは伊豆さんだった。

 多分強くなった、のだと思う。

 この自分の、精一杯をぶつけよう。その上で勝つ。


「最後の確認ね。反則は噛み付きと目と金的。故意だとあたしが判断した時点で勝負あり。後は気絶かギブアップだけ。いい?」

「OK」

「いいよ」

 夜、浜辺に人気はない。街灯もずっと遠くて、曇っていたら目の前の相手を視認する事すら難しかっただろう。幸いにも雲のない月夜、目さえ慣れれば月明かりだけで十分だった。


「じゃ、ここで見てるから」

 ミサキがテトラポットに腰かける。

「始めの合図は?」と僕。

「ある訳ないじゃん」

 だよな。

 2メートルほどを隔てて向かい合う僕らは、まだ構えない。

「グローブなんすね」

 岡田さんは、五指が出るタイプのオープンフィンガーグローブを着けていた。手指の自由度を確保しつつ拳は保護できるけど、当たった時の威力は素手に比べて落ちる。

「そう言う磯村君は、バンテージ」

 加えて、アンクルサポーターもだ。全力で打ち抜ける程度に手足を保護できればそれでいい。

「今から取ってもいいすよ」

「別に、これもハンデって事で」

 舐めやがって。

 僕が、次いで岡田さんが構える。

 上弦の薄く欠けた月とそれが照らす波の端、淡く浮き上がる砂浜。

 美しい筈のそれすらが、不純物に成り下がる。

 無音のゴングが、確かに聞こえた。


 月明かりの下、少しだけ粒の荒い、乾いた砂の上で対峙する。

 僕は蹴り重視、重心をやや後ろに置いたアップライトの右構えオーソドックス。顎を引いて、構えはムエタイに近い。

 対して岡田さんはボクサーらしく、前後の足を広めにとっている。アメリカンボクシングを思わせる、デトロイトスタイルの左構えサウスポー

 自分の不利は分かっている。

 体格も体重も違う。それにこの足場、ステップが命綱の軽量級にとって良い事はまるでない。体力の消耗も大きいし、足が止まって乱打戦に持ち込まれれば、そこが間違いなく僕の死地になる。

 だからどうした。

 ゆっくりとした、大きな円を描く運足から一転、鋭く地を蹴った。

 ジャブ、から、間髪入れずストレート。上体のスウェーバックで避けられた。

 フリッカー気味のジャブが下から飛んでくるが、僕の身体ももうそこにはない。

 サウスポー相手なら、左に廻るのがセオリーだ。軸をずらしてまたジャブ、のフェイントから思い切り、左のローを蹴った。

 バチッと腿を打つ音。効いてるかどうかは分からないが、関係ない。ここから蹴りまくるからだ。

 とにかく、このままインとアウト。出入りを激しく。足を止めるな。コンビネーションを絶やすな。動け。掻き乱せ。


 出入りの際で、顔面とボディに何発か貰っていた。一発は重いが単発だし、倒れる程の威力ではない。僕の方だって、ローは防御カットされながらも何発かいいのが入っている。

 まずは足を潰してやる。僕の顔が潰れるより、絶対にそっちが先だ。

 岡田さんにその焦りがあったのかは分からないが、ストレート紛いに体重を乗せた右に釣られて、身体が泳いだ。

 がら空きの脇腹に、肝臓レバーが透けて見えた。

 躊躇いなく左のミドルを振りぬいた。

 布を打つような、死んだ手応え。

 身体の捻りで威力を殺され、蹴り足を脇腹で抱え込むように掴まれていた。

 ――来ると分かっていれば、ミドルだろうがハイだろうがさして脅威ではない。

 クソ。引っ掛かった。

 岡田さんが左を振りかぶった。泥々の乱打戦が始まる。

 ようこそ、僕の死地。


 振ってくる拳を、両腕で防ぐ。

 前腕に拳が当たる度に衝撃と痛みが骨まで抜ける。グローブ越し、それも殆ど腰の入っていない手打ちとは思えない威力だった。

 一瞬無力感が襲い掛かりそうになるが、自分を奮い立たせる。

 脳裏に、安藤さんの言葉が翻る。

『なんだかんだ格闘技ですから、どこかで必ず泥臭い揉み合いになります』

 まだ入門したて、言葉遣いが改まっていた頃だ。

『だから、そこを制する』

 を制する。

 そもそも、僕みたいにパンチのないチビが勝つには、絶対に避けては通れないリスクだ。

 僕の勝機は、死地にこそある。

 回転を上げろ。スピードを殺すな。掻き乱せ。

 一瞬一瞬を積み重ねて、後の一発をもぎ取れ。

 パンチの隙を縫って殴り返す。こっちは片足だが向こうは片手。手数で勝て。

 捌く。捌いて殴る。こいつも食らえ。

 片脚を抱えられたまま地面を蹴って、頭部を狙ったハイキック。空振りすれば死に体になる。知るかそんなん。

 ギリギリで躱されたが、脚は離してくれた。

 すぐに立ち上がって、誰が距離なんか取るかよ、踏み込んで間合いの中へ。逆にこっちを突き放すようなパンチが飛んでくるのが面白い。

 ジャブはこの際貰っていい。大砲だけは死ぬ気で捌け。

 頬を掠ったが捌いた。組み付いて首相撲に持ち込む。

 腕をたぐって内側を取る。足を引いて膝。打った。

 反撃に脇腹を殴られた。息が詰まる。止まるな。それならこっちは肘だ。骨に当たる硬い感触。

 もう一度膝を打ってから離れる。手応えはあるが岡田さんの動きは鈍らない。一度下がる振りをして、岡田さんの追撃に前蹴りを突き刺す――


 どれだけ経った?

 苦しい。顎が上がりそうになる。でも止まるな。動け動け動け。

 なんでこんな事やってんだ。今すぐ休みたい。駄目だ。休むのは目の前のこいつをぶっ倒してからだ。

 肺が痛い。身体が重くて、スウェーバックの後に反撃が続かない。酸欠。もういいだろう。僕はよくやった。いやまだだ。足を止めるな。手を出し続けろ。

 全身が痛い。けどもう痛くない。それはもう痛みとしての情報の大部分を失って、ただ熱として僕は認知する。脳に酸素が足りてない。

 動け。捌け。引っ搔き回して、蹴って殴れ。止まるな。絶対に止まるな――

 その意思も、やがて余分な意味を失う。

 熱すら透き通ってゆく。


 不意に、世界が戻った。

 岡田さんが、掌を向けていた。

「参った」

 にわかには、その言葉が頭に入ってこなかった。

「ギブアップだ」

 荒く息を吐きながら、岡田さんが大の字になって砂地に倒れこむ。

 それでようやく、僕もファイティングポーズを解いた。

「もう立てねえ……すげえ根性してんな、磯村君」

 今までそれと意識していなかった夜空が、不純物であったはずの月と星々とそれに照らされる波間の輝きが、目に飛び込んでくる。

 勝った。僕が、勝ったんだ。

 やり遂げた。勝ち取った。

 痛みも、現実に戻りつつある。打たれた所は熱くて重いし、片目は開かない。それでも、じわじわと沸き上がる達成感はやがて奔流となって、僕の胸の内を踊った。両腕が勝手に持ち上がる。溢れる多幸感に、もう目を開けていられない。


「じゃ、次はあたしね」

 その時の僕の顔は、さぞ見物だっただろう。

 振り返ればミサキが肩を抱えて、腰を回している。その次は片足をテトラポットに引っ掛けるように、股関節と膝裏のストレッチ。

 ウォームアップ、だった。どう見ても。

「……俺と?」

「言ったじゃん、強い人がいいって。あたしより強くなきゃ論外」

 サンダルは脱いで、いつの間にかバンテージを巻いていた。

両足で交互に地面を叩くような、軽快なステップ。歯の間から吐く息と共に繰り出す、鋭いコンビネーションブロー。思わず見惚れる程の、堂に入ったシャドーだった。

 こんな動きが出来るなんて、ちっとも知らなかった。

「疲れてるよね。でもまあ、階級分のハンデってことで」

 疲れているどころではない。僕はもう、全てを振り絞った。まともに動く部位なんて、身体のどこにも見つからないくらいに。

 ミサキ、何言ってんだよ。

 縋る思いで岡田さんの方を振り向く。さっきへたりこんだ辺りのまま手を振って、笑っていた。

「どこ見てんの、始まってるよ」

 ミサキが鋭いステップインと共に放ったワンツーがへっぴり腰になっていた僕の顎を打ち抜き、それだけで効かされてしまった。足がもつれる。

 ミサキは更に踏み込んで、滑らかな動きで身体の軸を回す。

 もう背中が見えている。

 裏拳? ――違う。

 肘? ――遠すぎる。

 体幹の捻りと共に、軸足は踵が既に浮いている。

 上体を僅かに傾け、蹴り足が芸術的な弧を描いて。

 そこから繰り出されるのは、空手の上段後ろ回し蹴――


 ………

 ……

 …


 気が付くと、星空が目の前にあった。

 頬を撫でる生温い風、波の静かに押し寄せる音、潮の香り。身体の下に、ざらりとした砂の感触。

 身体中どこもかしこも痛い。左目の奥が重い。

 そうだ。蹴り倒されたんだった。

 痛みは、左腕と左の脇腹が特に酷かった。上体を起こそうと力を込めただけで引き攣るように痛むものだから、起き上がる事もままならない。

 あれから、どれだけ時間が経った? 2人はどこに行った?

 その時、さざ波の他に僕の耳へ届く音に気付いた。


 あ。あ。あ。あ。

 そう聞こえた。女の声だった。

 身体が上げる悲鳴にも構わず上体を起こすと、すぐ傍に2人はいた。

 ミサキは砂地に両手と両足を突いて、丸出しの尻を高く突き出して。

 その腰をぐっと掴んだ岡田さんが、立った姿勢のまま一心に腰を振っていた。

「あ。あ。磯村くん。起きたんだ。あ。あ」

 一定のリズムで突かれる度に吐息のような声を漏らしながら、ミサキが顔を上げて僕を見た。


 後で聞いた話だ。

 ミサキと岡田さんは、元々仲だったのだと。

『ごめんね』と最悪なネタばらしを受けた僕の気持ちが、想像できるだろうか。

 まだあちこち痛む身体を自室のベッドから起こす気力もなく、僕は殆ど感情に任せてスマホの画面をフリックする。

『じゃあ、強い人が好きってのは』

『それはホント。岡田さん強かったでしょ』

『勝ったのは俺だよ』

『手加減されてたの、分からなかったの? 立ち技だけだったじゃん』

 あの、オープンフィンガーグローブを思い出した。MMA総合で使用される、五指を使えるタイプのグローブ。それに、蹴り足のスムーズなキャッチ。岡田さんは投げる事も締める事も極める事もできたのに、しなかった。

 何の為に?

 強くなったと、思い上がった馬鹿ガキを嵌めてコケにする為に。

『俺がミサキに勝ってたらどうしたんだよ』

『試合、見に行ったでしょ。あれで大体分かった、負ける訳ないって』

『舐めてんのか』

『逆に聞くけどさ、磯村君あたしの事どれだけ知ってたの?』

『磯村君を倒した蹴りはムエタイ? キック? テコンドー?』

『そもそもあたしが格闘技してたの知ってた? あたしの階級は?』

『岡田さんは全部知ってたよ。知ろうとして、分かってくれた』

 何も、言い返す事は出来なかった。2人が僕に対してした非道は勿論責められるべきだと分かってはいたけれど、それを上回る無力感が、僕のあらゆる反抗を先回りして封じた。

 俺と岡田さんの告白、どっちが先だった?

 それを聞く事もできなかった。答えがどうであれ、それがもたらす惨めさに耐える自信は、全くなかった。

 僕はミサキをブロックして、それきり会話はない。学校ですれ違うことはあるけど、いつも僕が顔を伏せる様に逸らせて立ち去る。


 とまれ、それはその後の話だ。

 僕が散々に殴られ、蹴られ、倒されて、心までぐちゃぐちゃになったあの夜の浜辺の光景は、きっと忘れられない。

 ミサキの声が、耳から離れない。


 あ。あ。あ。あ。

 ごめんね磯村君。あ。あ。

 最高。あ。気持ちいい。


 ごめんだなんて、欠片も思ってないに決まっていた。

 蕩けた雌の顔は僕の方こそ向いていたけれど、もう目は虚ろで、口元から糸を引いて垂れる涎が月光を受けて鈍く光っていた。

 ボタボタと、結合部から体液が音を立てて落ちては砂地に吸い込まれていった。

襟ぐりのゆったりしたシャツは重力に負けて垂れ下がり、その奥の胸の谷間が突かれる度に揺れる様まで見て取れた。

 ひと際高い声をあげて、ミサキの身体が痙攣した。下腹部を中心にしたそれは身体の末端まで伝わり、頭がく、く、く、という感じで揺れて、つま先立ちの脚が横にぶれるように震えた。

 岡田さんは眼を瞑って顔を顰めたけど、すぐにまた動き始めた。ミサキも再び声を上げ始める。

 僕は訳も分からないまま、それでも何か大事なものが自分の中から永遠に失われてしまった事だけは理屈でなく心の深い所で理解していて、だというのにどうしようもないほど硬く勃起していた。

 さざ波の音は確かにしていたはずなのに、もう耳に入ってはこなかった。


 顔の痛みで、自分が今笑っているのだと気付いた。

 何がそんなに可笑しいのか自分でも分からなくて、ただ、今この時、この場所で、この痛みだけが自分のものなのだと、そう思った。

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